概要
戦いが行われたアイン・ジャールートとはシリアのガリラヤ地方にあるとある小さな川の事でゴリアテの泉ともいう。
13世紀初頭にモンゴル高原を征服したチンギス・ハーンの率いるモンゴル帝国はユーラシア各地に勢力圏を広げ、チンギス・ハーンの死後も勢力の拡大は留まる事を知らなかった。
1253年にはチンギス・ハーンの孫の一人であるフレグ(フラグ)が西方へと遠征を行い、1258年にバグダッドを攻略してアッバース朝を滅ぼし、シリアに侵入して現地の諸勢力を服属させた。これに続きフレグ配下の武将キト・ブカがシリア方面のモンゴル帝国軍の指揮を担いマムルーク朝へ侵攻し、マムルーク朝のスルタンであるムザッファル・クトゥズ率いるマムルーク朝の軍と交戦に至った。
アイン・ジャールートの戦いは激戦の末にマムルーク朝の勝利に終わり、モンゴル軍の司令官であったキト・ブカは戦死(または捕虜となって処刑)した。
マムルーク朝側はスルタンのクトゥズが帰路に暗殺されたが、クトゥズを殺害して新たにマムルーク朝のスルタンとなったバイバルスによりシリアへのマムルーク朝の勢力拡大に成功している。
一方でモンゴル帝国はシリアでの勢力圏を失い二度と失地回復はならず、歴史的にもこれまで快進撃を続けていたモンゴル帝国の快進撃を止めたという点でも重要な戦いであった。
関連人物
モンゴル帝国
- キト・ブカ(?~1260年)
モンゴル帝国の武将。
フレグに従い西征に参加しシリア方面の司令官となるが、アイン・ジャールートの敗北にて敗死した。
マムルーク朝
- ムザッファル・クトゥズ(?~1260年)
マムルーク朝スルタン。
有力マムルークから1259年に前スルタンを廃して自身がスルタンに即位した実力者であったが帰路にバイバルスにより暗殺された。
- バイバルス(1223年or1228年or1233年~1277年)
マムルーク朝に属する有力なマムルーク武将。
アイン・ジャールートの勝利に大きく貢献したが、戦後の恩賞を巡ってクトゥズと対立し自ら殺害してスルタンに即位した。