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イラン

いらん

西アジア・中東のイスラム共和制国家。現在の政府は1979年に発足。
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概要

西アジア中東に位置する国家。漢字表記は「伊蘭」。
イラン(イーラーン)とはペルシア語で「アーリア人」を意味する。

正式名称は、イラン・イスラム共和国であり1970年代末に起こったイスラム革命によって君主制を敷いていたパフラヴィー朝が倒され同名称となる。歴史的にいわゆるペルシアと呼ばれた地域にあたる。

首都テヘラン。人口の大部分が周辺諸国と同じくイスラム教徒で占められているが、スンナ派ではなく少数派のシーア派、そのなかでも16世紀のサファヴィー朝成立以来十二イマーム派を国教とする多民族国家である。欧米ではイスラム教原理主義国家のひとつとされており、実際に政府から宗教的な理由による各種の規制が厳しい国としても知られる。

基本的に立憲制の議会制民主主義の国ではあるが、「イスラム共和国」という呼称に象徴されるように、伝統的なイスラム教の知識階層であるウラマー達が国政を指導する体制が取られている。イランにおいても行政府、立法府、司法府の三権が存在するが、「イスラム共和国」体制の根幹をなす「ヴィラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者の監督権)」の理念に基づいて、それらの三権や軍も統括する「最高指導者」が存在する点が既存のイスラム諸国の体制と大きく異なっている。行政府のトップは大統領であり、立法府には一院制の議会、「最高指導者」を選出する権限を有するイスラム法学者達からなる「監督者評議会」等が存在する。

イランは、現在の人口は約7900万人(2015年度、世界第17位)であり、面積も1,648,195km2(世界第17位)とトルコ、エジプト、サウジアラビアと並ぶ中東西アジア屈指の大国である。しかしながら、人口の大部分は英語フランス語等と同じインド・ヨーロッパ語族の一派ペルシア語を話すペルシア人の国であり、イスラム教国家とはいってもアラブ人主体の国ではない。宗派もアラブ諸国でありがちな厳格な教えを持つスンニ派ではなく、比較的教義が緩いシーア派に属している。

また、日本でも人気のある国際放送イランラジオイランから提供されている。

因みにイランを日本の都道府県に例えると新潟県に該当する。(テヘラン=新潟市エスファハーン=長岡市)
この2つの都市は、大物指導者が出たところ(田中角栄ルーホッラー・ホメイニー)、ロシア中国と仲が良いところが共通している。

また、イランの町に出るとルーホッラー・ホメイニー師の肖像画が至る所で見られ、壁画の芸術などで見ることが出来る。元来、イスラム教偶像崇拝が禁じられていると言われているが、イラン高原ではイスラム化以降も「肖像」「彫像」については規制が緩い文化風土が保たれていた。13世紀にモンゴル帝国がイラン高原からアナトリア、イラク全土までを征服してイルハン朝が成立したが、イルハン朝では文学作品に登場する預言者ムハンマドを含む歴史人物の肖像を描く習慣が根付き、後のティムール朝やサファヴィー朝、オスマン朝、ムガル朝でもこの伝統が受け継がれた。そのため、(唯一神アッラーは描かれる事はなかったが)イスラムの預言者ムハンマドやスンナ派・シーア派を問わず崇敬されたアリー家の人々の肖像を描く伝統は近代まで保持された。そのため、シーア派が国教とされた今日でもルーホッラー・ホメイニーだけでなく現在の最高指導者であるハーメネイー師他、(スンナ派における正統カリフでもある)イマーム・アリーやその子イマーム・ハサン、イマーム・ホセイン等のアリー家の肖像が一般に見られる。

この種の「肖像」についての文化的な規制が他のスンナ派諸国(特にワッハーブ運動・サラフィー主義の影響の色濃いペルシア湾岸諸国)と比べて緩いので当然ながらエジプト等のスンニ派の国からは神の使者ムハンマドなどを含めて非難の対象になっている。
なのでイランは他のイスラム教の国とは一線を画しており、スンニ派(アラブ系諸国)の国からはイランが非難を食らってもイランを相手にしないが、イラン国内でも特にイラク国境に近いクルド人や南部のアラブ人等のスンニ派は存在する。
故にスンニ派で戒律が最も厳しいワッハーブ派且つ親米の国で有名なサウジアラビアとは敵対関係にあり、イランのメディアでもサウジアラビアを頻繁に批判する。


また北西部のアーザルバーイジャーン地方等では歴史的な経緯からアルメニア教会のコミュニティーも多く存在し、北西部に隣接するアゼルバイジャントルクメニスタンと民族的に同じくトルコ語とも言語的に近いテュルク語の一派アゼリー語を話す人々やがテヘラン等でも多数混在している。セルジューク朝やサファヴィー朝等のテュルク系の人々との影響もあって、特にテヘランを含む北部ではペルシア語とアゼリー語のバイリンガル人口も多めである。

イラン歴について

イランではイラン歴が使用されており、ペルシア語でも西暦の意味であるمیرادیを使わないとイラン歴になるので注意が必要である。
例としてイラン・イスラム革命が起きた日である西暦1979年(昭和54年)1月31日はイラン歴に直すと1357年バフマン月11日と表す。
イラン歴の新年は基本的には西暦3月21日から始まり、1~6月にあたる月は31日まで、7~11月にあたる月は30日まで、12月に当たるエスファンド月は29日まであるが閏年に当たる年は30日まで存在する。
実際、イランラジオ(現PARS TODAY)でも日付を紹介するとき、西暦とイラン歴を併用している。

因みに西暦は太陰暦(即ちの暦)だが、イラン歴は和暦と同様の太陽暦である。

以下の表が付きの対応表である。

イラン歴月イラン歴月名イラン歴月日数西暦該当日
1ファルヴァルディーン月31日3/21~4/20
2オルディーベヘシュト月31日4/21~5/21
3ホルダード月31日4/22~6/21
4ティール月31日6/22~7/22
5モルダード月31日7/23~8/22
6シャハリーヴァル月31日8/23~9/22
7メフル月30日9/23~10/22
8アーバーン月30日10/23~11/21
9アーザル月30日11/22~12/21
10ディ月30日12/22~1/20
11バフマン月30日1/21~2/19
12エスファンド月29日※2/20~3/20

※12月(エスファンド月)は閏年の場合、30日になる。

難しいけど、覚えるしかない。
それと西暦とイラン歴では700年位の差がある点は要注意。
以下がその年で起きたニュースをイラン歴や和暦を使って換算した。

西暦イラン歴和暦主なニュース
1939年1317年~1318年昭和14年イランでの第二次世界大戦勃発
1979年1月31日1357年バフマン月11日昭和54年イラン・イスラム革命
1980年9月21日1359年シャハリーヴァル月31日昭和55年イラン・イラク戦争勃発
1988年8月20日1367年モルダード月29日昭和63年イラン・イラク戦争停戦
2001年9月11日1378年シャハリーヴァル月20日平成13年アメリカ同時多発テロ事件発生
2004年8月3日1383年モルダード月13日平成16年マフムード・アフマディーネジャード政権発足
2013年8月3日1392年モルダード月12日平成25年ハサン・ロウハーニー政権発足

イラン歴を詳しく知りたければイランラジオの冒頭の日時紹介の時に聞くことをお勧めする。

歴史

イランの名称

 古代ペルシア帝国(アケメネス朝、ハカーマニシュ朝)ではダレイオス1世碑文等で自らを「アルヤ」と称しており、紀元後1世紀に北インドを征服したクシャーン朝でもカニシュカ王等が自らの言葉を「アルヤの言葉」と称している。古代のインド・イラン系の人々の自称が「アルヤ」であったようで、これが拡大解釈されてインド・ヨーロッパ語族の始祖としての今日の「アーリア人」という名称の直接の起源と言える。

 3世紀にイラン高原を統一したサーサーン朝はかつてのペルセポリスの近くを発祥とした事もあって自らを古代ペルシア帝国の後裔と自認していた。サーサーン朝の初代皇帝アルダシール1世やその後を継いでイラン高原とメソポタミア平原を支配したシャープール1世はパルティア語と中期ペルシア語(パフラヴィー語)の合壁碑文をいくつか碑文を残しているが、そこで自らをパルティア語では「アルヤーンと非アルヤーンの諸王の王」、中期ペルシア語では「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」と名乗った。このパルティア語での「アルヤーン(Aryān, 'ry'n)」の中期ペルシア語形が「エーラーン(Ērān, 'yl'n :パフラヴィー語文では本来の r 音も l 音も、l の文字で筆写された)」である。サーサーン朝では自らの支配領域を他にも「エーラーン・シャフル(Ērān šahr)」とも呼んでおり、この「エーラーン(Ērān)」がイスラム化を経て近世ペルシア語(現代ペルシア語)での語形が「イーラーン( ايران 'yr'n,Īrān)」であり、現在の国名のイランはこの中期ペルシア語形・近世ペルシア語形を直接の起源とする。

しかしながら、アラブ征服経たイスラム時代以降しばらくは、「イーラーン」も「イーラーン・シャフル(エーラーン・シャフル)」も(当のイラン系のイスラム教徒達にとっても)サーサーン朝時代の歴史的な領域概念程度にしか認識されておらず、現実の地名的なものとはあまり考えられていなかった。
(「ペルシア人」という呼称は主にギリシア人・ローマ人達がパールサ地方から勃興した古代ペルシア帝国等に対して使っていた呼称で、サーサーン朝も同じパールサ地方(現在のファールス州、パールス州とも)から出現したことから以降もヨーロッパで使われた。中央アジアのソグド人も「パールス人=ペルシア人」と呼んでいた事から、唐等の中国方面では「波斯」と音写した)

ところが、モンゴル帝国とイルハン朝時代に古代への関心と現実の支配領域への関心が高まり、イラン高原周辺を地理的に指して「イランの地(Īrān Zamīn)」という言い方が用いられるようになった。これが続くティムール朝やサファヴィー朝でも使用され続け、現実の地理概念、地名としての「イラン」がイラン系の人々の間でも定着するようになった。

近現代

19世紀から20世紀初頭まで、イランはカージャール朝が治めていた。19世紀半ばに欧米からの影響で「ペルシア・ナショナリズム」が勃興し、「ペルシア人」の過去の顕彰が盛んになるようになった。しかし、この時期は欧米列強による「グレート・ゲーム」まっただ中であり、北方からはロシア、東方からはインド領等を通じてイギリスの外圧に晒された。

1901年にイランでも石油が発見されると、イギリスによるアングロ・ペルシャン石油会社の設立で、イラン経済は本格的に外国支配の危機に直面することとなった。1905年に日露戦争でロシアが日本に敗れると、イランでは改革運動が活発化し、第1次立憲革命によって憲法と議会が設立された。しかし1907年に英露協商でカージャール朝の独立は認めるもののイギリスとロシアがイラン領内の勢力を南北で二分する協定が結ばれた事で、皇帝モハンマド・アリー・シャーが立憲派を弾圧した。ところが立憲派が鎮圧部隊を逆に打ち負かして首都テヘランに進軍した事でアリー・シャーがロシアへ亡命。アフマド・シャーが新たに即位したものの、国内は各地方政府が乱立する無政府状態に陥った。アフマド・シャーは幾度かイギリスやロシアの援助によってクーデター側を鎮圧したが、反英運動は年々高まる一方であった。
 第1次世界大戦が勃発するとオスマン朝がイラン領内に侵攻してさらに混乱は広がり、ロシア革命の影響でイギリスはイランを拠点にしてロシア領内に干渉するようになった。1921年、ペルシア・コサック師団の司令官であったカスピ海南部マーザンダラーン地方出身のレザー・ハーンがテヘランを占拠して、1919年に結ばれていたイギリス・イラン協定を破棄して治外法権を撤廃させた。さらにイラン国軍の司令官、首相となり、国民議会も運営されるようになる。
 1924年、国民からの支持を受けてレザー・ハーンは議会の承認を取り付けアフマド・シャーを退位させてカージャール朝は滅亡し、アフマド・シャーはフランスに亡命した。
 翌1925年、レザー・ハーンは自ら即位してレザー・シャー・パフレヴィーを名乗り、パフレヴィー朝が成立した。レザー・シャーは司法改革や国民銀行の設立、徴兵制等、国家の近代化を次々と断行した。財政面ではアメリカから財政顧問を招聘し、まだ女性蔑視の風潮を払拭するため女性解放や教育改革等も行った。
 ロシアやイギリスからの干渉に対抗するため対外政策にも力を注ぎ、1935年には国際連盟の加盟し国名も「ペルシア」から正式に「イラン」に改称している。1938年には首都テヘランとペルシア湾、カスピ海を結ぶイラン縦貫鉄道を設置させ、後に東部のホラーサーン地方の中心都市で国内屈指の巡礼地であるマシュハドまで延長させた。
このように急速な近代化を推進したが、その急速さと皇帝による独裁体制は国民からの支持と同時に反発も招いてもいた。特にイスラムを軽視する政策は保守的なウラマー層からは非難されていた。

 1939年、第二次世界大戦が勃発するとイランの中立を宣言したが、イギリスとソ連に対する懸念からレザー・シャーは枢軸国寄りな姿勢をとり、さらに政策面でも親ナチス・ドイツ的なものであったために、1941年にイギリスとソ連の連合軍によるイランへの侵攻を受ける。
これによってレザー・シャーは息子のモハンマド・レザーに譲位する事を条件に帝位を退かねばならなくなった。レザー・シャーはモーリシャス諸島、さらには南アフリカに亡命してヨハネスブルクで世を去った。

1945年、第二次世界大戦が終結し、イギリス軍、ソ連軍も撤退したが、北西部では一時期親ソ連の地方政府が樹立されたが、ソ連軍撤退直後にイラン軍に制圧され、イランの分裂は免れた。

 1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任した。モサッデクは国内の石油関連施設の国有化を強力に推進した。それまでイギリス資本であったアングロ・イラニアン石油会社のイラン国内の資産を国有化し、イラン南部の国内最大の石油精製拠点であったアーバーダーンにある石油生産設備から西側諸国を追い出した。またこれと併行して親ソ連政策も進めていたため、イギリスのMI6とアメリカのCIAは共同してモサッデクを失脚させ、親米英的な皇帝モハンマド・レザー・シャーの権力を回復させた。これによって皇帝モハンマド・レザーが主導する1960年代の「白色革命」に繋がる。

モハンマド・レザーが推進する白色革命は、この時期の世界各地の第三諸国で見られたいわゆる「開発独裁」のひとつで、欧米からの資本と国内資源を使った「上からの改革」や開発によって国家の近代化と国力の増加を目指すものであった。同時に、政治や経済の権力が統治者個人に集中する「独裁体制」によって政権を安定させるため、欧米、特にアメリカは経済関係の安定化と対ソ連政策を狙って国内の経済発展や政府の諸政策に対する不満を封じるため、反対派への弾圧等に積極的に関与・協力した。イランにおいてもアメリカとの経済や治安や軍事関係でのCIA等とのこの種の関係は強化され続けた。現在に続く、イランのアメリカへの不信は、主にこの時期の石油利権や特にCIAを介したイラン国民への弾圧政策の積極的な加担に求められる。

 1960年代のイランは今とは異なり親米であった。しかし、アメリカがイランの民主主義を邪魔した話は有名である。
 そして王朝によりイラン人は苦しめられており、その際に石油利権はアメリカ合衆国に牛られて格差は拡大した。
 その頃のイランは、今と異なりアメリカ風の衣装を着ていた人が多く、当然ながらイスラム教に反する服装だった。
 それを防ぐためにルーホッラー・ホメイニー師が、いつ革命を起こそうかと考えていた為、王朝への批判を展開していた。
 だが、ホメイニー師は後にイランから追放され、イラクフランス経由で身をひそめる。
 そして1970年代前半にはシャー王朝に対する批判が激増し、後に亡命した。
 1979年にはホメイニー師によるイラン・イスラム革命により、反米体制になりアメリカの傀儡王朝に苦しめられた結果からアメリカ大使館には物凄い、反米の壁画が掲載している。
 また、イスラム教の規範順守を厳格化し、特に視覚効果が高いものとしては、女性の肌の露出をしないような服装になったのは、欧米化に対する反動の側面が強かった。それまで飲酒についても規制がやや緩めであったが、革命以降完全に禁止され、違反者は厳罰されるようになった。
 だが翌年の1980年には当時、親米政権だったサダム・フセイン政権がシーア派が半数を占めるイラクがイスラム革命の余波を及ぶことを懸念し、イランを攻撃した。
 その際にアメリカがイラクを支援したのは有名な話である。
 その後、1988年に停戦が実現したものの直後にホメイニー師が死去し、イラン・イスラム革命からの戦時体制からの転換と戦後復興が課題となった。特にアメリカ大使館占拠事件以来、アメリカからの経済制裁が続行していたため、石油施設の復旧やヨーロッパや日本、中国などとの貿易を拡大する必要に迫られた。1990年代はイランイラク戦争後の経済復興が中心課題であったが、それらが一段落した90年代後半に大統領となったのが革命政府の外交分野で活躍していた法学者出身のモハンマド・ハータミーであった。

ハータミーは革命政権を支えたひとりであったが、いわゆる改革派の政治家のひとりで、闇雲な保守主義や外交関係の閉塞については批判的であった。冷戦終結後に東欧アフリカ等で続発した民族紛争とパレスチナ等でイスラム過激派の勃興が相次ぐなか、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』がベストセラーになり、イスラムと欧米諸国の対立、「文明の衝突」が必然とする言説が流布したが、ハータミーは外交政策を進めるなかで、むしろ「文明間の対話」こそが重要であると国際社会に訴えた。
しかし、2001年におきたアメリカの同時多発テロ事件や、アメリカのブッシュ(Jr.)大統領によるシリア、北朝鮮と並ぶイランへの「悪の枢軸」発言、さらにはアメリカによるイラク戦争の勃発によって、徐々にイランは国際的な孤立化を再び深め、イランの国内経済も退潮を余儀なくされた。

こうしたなかで、欧米等の国際社会に対する失望感がイラン国内に漂うようになり、2004年の大統領選挙で、ハータミーら改革派を抑えてイラン革命防衛隊の出身で保守派の支持を集めたマフムード・アフマディーネジャードが大統領になって国内の反米ムードが再び強まった。
テヘラン市長を勤めたアフマディーネジャードはハータミーが結果的に失敗した国内経済の復興と対欧米への強硬姿勢を外交方針に掲げたが、アメリカの経済制裁による国内経済への影響力を払拭する事は出来ず、2期8年大統領を勤めたものの、三期目は果たせず、2012年の大統領選挙では再び改革派が優勢を占め、ハサン・ロウハーニーが大統領に就任した。ロウハーニーはアフマディーネジャード時代に退潮したアメリカを含む欧米との関係改善を目指しており、国内の規制緩和にも意欲的で、前政権時代はやや退潮していたムスリム女性の社会進出もまた進み始めている。

 現在は、政権交替と重なった事もあって、2010年から続いた「アラブの春」による政治的混乱は生じておらず、シリア内戦に伴いアメリカやサウジアラビア等も対立しているISILからロシアと共にイラクシリアを護っている国である。

地理

イランの総面積は1648平方kmで、大部分の地域は乾燥気候であるが標高1,000m以上あるイラン高原に立地した国である。高原性の気候である事から、やや緯度が低めであるが四季がある。

面積は中東ではサウジアラビアに次いで2番目に広く、北部を東西に連なるアルボルズ山脈と北西部から南部に連なるザグロス山脈の大きなふたつの山脈があり、その間を中部から南東部に広がる広大なカヴィール沙漠がパキスタンアフガニスタン国境まで続く。これらの山脈は標高5,000mクラスの山々が連なり、万年雪で覆われているところも多いため、これらの山間地域や麓では灌漑設備をともなった農地や都市が古代から築かれた。また灌漑が行き届かないところでも天水農耕や遊牧が盛んであり、テュルク系やイラン系の遊牧民がこれらの高原部や草原部で生活している。
アルボルズ山脈では冬は雪に覆われるため、首都のテヘラン近くにはスキー場もある。

北東部のホラーサーン地方は、中央アジア等でも一般的なカナート農法の発祥地とされているところで、現在でも高山から地下水路を掘削して農地を灌漑するカナートが多数存在する。古代から各種の果樹栽培が盛んな土地で、小麦、大麦といった穀物生産も盛んだが、ブドウ柘榴アーモンドピスタチオの発祥もこのイラン高原周辺といわれている。(「レモン」もペルシア語の「リームーン」から来ている)

国内の大半は乾燥地域だが、北部のアルボルズ山脈北麓でもあるカスピ海沿岸部は中東では珍しく湿潤地域で、柑橘類木綿の栽培、養蚕も盛んである。

古代から羊毛を主体とした織産業が盛んで、絨毯の発祥地ともされている。特にペルシア絨毯大航海時代前後からヨーロッパから盛んに買い付けされていた重要産業の一つで、サーサーン朝によって養蚕が奨励されてからは羊毛以外にもシルク絨毯も日常的に生産・消費されている。

北部にカスピ海、南部にペルシャ湾オマーン海インド洋が広がっており、ペルシャ湾の向こうに湾岸諸国サウジアラビアが存在している。
西に行くとイラク、北西部にはトルコアルメニアアゼルバイジャンとも国境を接している。東に行くとアフガニスタンパキスタンが存在している。

首都テヘランは、アルボルズ山脈南麓に開かれた都市である。中世までイラン高原の中核都市の一つであったレイ(Rayy)の北の郊外にあった1村落であったが、モンゴル帝国軍の侵攻によってレイが破壊された後は振るわず、18世紀末にカージャール朝の都が置かれた事で発展した。カスピ海から少し南側にあり海に面していないが、イラン高原からカスピ海沿岸の主要都市アーモル等を結ぶ街道筋が隣接していた事もあって、歴史的にカスピ海沿岸の諸勢力とも多く関わって来た。またテヘラン自体が中東最大の都市であり、人口は東京より多く1400万人であり、緯度は北緯35度で東松山市松本市大津市天津などと同じ緯度である。モータリゼーションの発達と人口増加で、近年ではテヘラン周辺の上下水道の整備や大気汚染の深刻化が問題となっている。

人口

イランの人口は約8000万人でこれはドイツに並ぶ数字であり、移民を除いたドイツ人よりも多く、30歳以下の若者が3分の2を占める。
識字率は80%越えで中東では最も高い数字である。
しかし、中東の中では出生率が低く、数字としては1.92であるが、日本ドイツ南欧韓国中国シンガポール等より高い。
中東で女性の社会進出が最も進んでいる国でもあり、イスラム教の戒律を守りながらも政治や経済等の各方面で活躍する女性も多い。1988年のイランイラク戦争の停戦ののち、現在では若年層が人口の半分まで増加している事もあって以前ほど戒律は厳格でなくなっている。また革命を主導していた年齢層も現在では中堅世代になり、さらにはその中堅世代でも改革派と保守派の対立もあり、社会全体で規制緩和の動きが見られる。

宗教

イスラム教シーア派十二イマーム派を国教としており、基本的に戒律は厳しめである。ただし、国内には国境周辺のクルド人やアラブ人でスンナ派住民が多く、アフガン紛争の難民達もスンナ派である場合が多い。またペルシア語話者であるペルシア人以外にも首都テヘラン周辺にはテュルク系のアゼリー語(アゼルバイジャン語)を話すアゼリー人達もカージャール朝以前から日常的に混在している。また、キリスト教の一派アルメニア教会を信奉するアルメニア人も北西部中心に多くおり、ユダヤ人やゾロアスター教徒も古くから多数存在する。そのため、現在のイランはシーア派十二イマーム派を国教とする「イスラム共和国」ではあるが、多民族・多宗教の国であることも自認している。

世界的に見ても唯一のイスラム教シーア派の国家であるため、周辺のイスラム諸国とは何かしら対立関係を抱えている場合が多い。さらに湾岸諸国やサウジアラビアは専制的な君主国家が多いため、イラン・イスラム革命以降、ペルシア湾沿岸のシーア派住民の民衆暴動が体制打倒に向う事を常に警戒している側面も強い。

イラン国外のシーア派との関係についても、もともとシーア派の発祥地は隣国のイラクであり、アリーが政府をおいたクーファや廟墓のあるナジャフ、カルバラーなどの殉教地等のシーア派の旧蹟の多くもイラクにあるため、今日でもイラク南部はシーア派の住民がほとんどである。しかし、アラブ征服の前線がイラン高原や中央アジアであったため、イラン高原ではアリー家の後裔達が多数移住していた。ウマイヤ朝を打倒したアッバース革命の直接の軍事力はイラン高原と中央アジアを根拠地としたホラーサーン軍団であり、これにアリー家の人々も参加した事でアッバース朝は成立した。イラン高原はこういった背景を持っていたため、アリー家の後裔だけでなくアリー家を信奉する人々やシーア派自体がもともと多かった土地でもあった。

イランのイスラム革命はホメイニー師が唱導する「イスラム法学者の統治(ヴィラーヤテ・ファギーフ)」を基本理念としていた。しかし、同じシーア派でもイスラム法学者はじめ伝統的なイスラムの知識階層であるウラマー層では、改革派や保守派のなかでも「ウラマーとは民衆とともに生きるべきであり、あるいは民衆の側に立って政府を糺すべき立場であった、積極的に政府に関与し政治を専断すべきではない」とする意見も多かった。そのため、2000年代のイラク戦争で度々米軍やイラク暫定政府とイラク国民との仲裁にあたったイラクのシーア派十二イマーム派の重鎮であったスィースターニー師は、ホメイニー師の唱える「イスラム法学者の統治」には概して批判的なウラマーでもあった。

イラン・イスラム革命の前後からイランのシーア派指導者がイラク側に亡命する事も多く、政治的な主張の異なるシーア派指導者たちがイラク南部で同居する場合も多く見られた。ホメイニー師が唱導する「イスラム法学者の統治」に共鳴するイラクのシーア派住民も多く、イラクのサドル派のシーア派住民等が「イスラム政権の樹立」を掲げるのも、この影響のひとつである。


上述のように、イスラム教シーア派十二イマーム派を国教としており、基本的に戒律は厳しめであり、外にいる時では女性は肌の露出を控えなければならない。女性の場合は外国人でも非イスラム教徒でもへジャブを着用しなければならず、豚肉や酒は表向きは販売されていない。
しかし、イラン革命直後の全身黒い衣装で覆うようなチャードル姿の女性は減少傾向にあり、外出時のヘジャーブの着用は一応遵守しながらも、近年のイラン女性では年齢を問わず洋装その他の服装に柄物のヘジャーブを思い思いに着こなすスタイルが一般的である。しかし、裏ではイスラム法を守っていない人も存在する。

イスラム教諸国でありがちなメディアにおける歴史上の人物に対する露出を偶像崇拝視する問題もイランではそれほどは見られない。イラン革命の指導者であるホメイニー師の肖像画が街中で飾られている事や、シーア派の聖人崇敬の中心でもあるイマーム・アリーやその家族の肖像が室内に飾られる事もイラン国内では普通で、これらは基本的に「偶像崇拝」と見なされていないためである。

シーア派では(スンナ派の正統カリフでもある)アリーの次男イマーム・ホセインがウマイヤ朝軍に惨殺された「カルバラーの悲劇」を悼むアーシューラーの儀式が毎年行われるが、イランでは古くからこの殉教再現劇が盛んであり、また古代イラン世界を題材にした『シャー・ナーメ』の朗読劇も盛んであった。イランではこの種の過去のイスラムの聖人や歴史上の偉人達を演劇や詩文の朗読劇で追慕する習慣が根付いている。預言者ムハンマドの映画制作もこの種の伝統と習慣の延長で出て来たと理解する事も可能である。

治安に関する誤解と真実

多くの人々からは、イラン戦争紛争が絶えず危険で治安が悪いというイメージを持たれており、かつてアメリカジョージ・ブッシュ前大統領は、イランをイラク北朝鮮と共に大量破壊兵器を保持しているとして『悪の中枢』と呼んでいた。
アメリカと結びつきが強い日本においても、このイメージは現在も蔓延しているとされる。

しかし、実際にイラン旅行に出向いた人々の反応はそれとは全くの逆であり、イランの治安は非常に良く、首都テヘランや観光名に至っては夜中に外に出歩いても安全だという。
日本人旅行者が話すには、下手をすれば世界一治安が良い国と言われる日本と同レベルではないかと思うほどだという。

イラン現地の日本政府関係者の話によれば、「イランは中東の中で1番治安良いですよ。ドバイを入れてもNo1だと個人的には思ってます」とのことだという。
また、イランは非常に親日的で、日本人に対しては特に友好的だという。

外部リンク
その1その2その3その4その5

通貨

通貨はイランリアルが採用される。
1リアルは約40円であり、紙幣の顔はルーホッラー・ホメイニーさんが採用される。
因みに換金は中国元ロシアルーブルを所持しておくと楽。
中国元は日本では1元から、ロシアルーブルは100ルーブルで変えるので、1元は約920リアル、1ルーブルは約80リアルになる。

イランラジオ

イラン・イスラム共和国国際放送を参照。

外交関係

ロシアと北朝鮮との関係。

ロシア北朝鮮とは長らく友好関係を築いており中でもロシアとは特別な関係になりつつある。
ロシアに関してはソ連時代、特にイスラム革命前の頃は仲が悪かったがロシアになり、イラン自体もイスラム革命を行ってから反米列強として協力するようになり、現在は物々交換を行うほど仲が良く、貿易決済ではルーブルイランリアルの相互決済に移行し、米ドルユーロが排除する動きがみられる。
 ロシアとイランは上海協力機構の加盟国であるが、イランはオブザーバー国、ロシアは正式加盟国として扱われる。(但し、イランの正式加盟国の昇格は検討されている。)
 北朝鮮との関係も良好だが、核の暴走に関してはさすがに北朝鮮を批判している。
 だが、かの有名なマフムード・アフマディーネジャードの頃にイランとの関係強化したことは事実であり、現在も北朝鮮とはミサイル開発などで協力している。
 北朝鮮とイランの共通点としてサウジアラビアシオニスト政権イスラエルとは国交を結んでいない点である。
 なのでこの3国で米帝欧州に関する批判が多く展開されており、メディアの報道でもそれが伺える。

日本とイランの関係。

 イランの日本との関係は基本的には非常に良好だが、対イラン制裁やアメリカ追従政策に関しては批判する傾向が強い。
 だが、原爆投下に関してはロシアと同様にアメリカを非難しているので、アメリカから離れた日本なら両国の関係は更に良好になるだろう。
 ちなみにイランが超親日的である理由に、石油国有化の際に日本との取引間で起きた日章丸事件が挙げられることが多く、この事件の詳細は国民的ベストセラーとなった百田尚樹氏の小説『海賊とよばれた男』でも大々的に取り上げられているため、再び認知されるようになった。
 また、英語は喋れないが、日本語が喋れる人は多く、日本の事を好意的に見る人も多く、その事をイランラジオのラジオ日誌でも報じている。
 イラン制裁解除は再び関係改善等に動き出しており、石油などの貿易決済に米ドルユーロを止めて日本円イランリアルの相互決済が検討されている。

中国とイランの関係

中国とイランは上海協力機構の関係等で比較的良好である。
特にイラン産原油取引では、中国は一番の大口顧客であるので、米ドルを止めて中国元イランリアルの相互決済に移行している。
但し、中東の問題では中国は、欧米側につくかロシア、イラン側につくかで動いているので完全にイランの味方をしてくれるとは限らない。
現にシリア問題でアサド政権を支持するロシアイラン北朝鮮側と反体制を支援する欧米側につくかが不透明だからである。
尚、石油取引を行っているものの、両国の自由貿易協定はなされていない。

そして米ドル排除へ。

 そのイランも米ドル決済排除が加速化しており、ロシア中国を始めとする国で米ドル貿易を排除している。
 特に石油取引の決済では、自国通貨同士の決済を進めているが、ロシアと異なりユーロの決済を除外しているかは現時点では不明だったが、ロシアとの決済ではユーロも除外することが決まった。
その為、ロシアとの決済ではルーブルイランリアル(ホメイニーさんの紙幣)の相互決済を進めており、米ドルユーロの排除が確定した。

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