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概要

本名:エリック・パトリック・クラプトン(Eric Patrick Clapton)

イングランド出身のギタリスト歌手チョーキングを多用することから指の動きが遅く見え、「スローハンド」の渾名がある。

20歳で既に、「ギターの神」と呼ばれるほどだったが、常にファッショナブルで人当たりが良い。波乱に満ちた人生を送ってきたが、友人には恵まれている。

日本ではジェフ・ベックジミー・ペイジと共に3大ギタリストとされる。「ローリング・ストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大なギタリスト100人」では2003年4位、2011年2位。


経歴

1945年3月30日、サリー州リプリー村で私生児として誕生。実母パトリシアは16歳でエリックを出産。実父はイギリス駐留のカナダ軍兵士エドワード・フライアで妻帯者だった。パトリシアの実父の姓をとってエリック・クラプトンと名づけられる。


1947年、実母は別のカナダ兵と一緒になるためエリックを捨てて家を出て行く。ミッチェル夫妻(祖母と義理の祖父)を父母として育つ。


1951年、自分の出生の秘密について知る。


1954年、実母が新しい夫との間に儲けた2人の子を連れてミッチェル夫妻の元へ現れる。「ママと呼んでいい?」と尋ねたエリックに実母は「育ててくれたローズ(祖母)をお母さんと呼ぶべき」と答え、これが生涯のトラウマとなる。


1956年、隣村のセカンダリー・スクールに入学。音楽とファッションに夢中になり、「ルーニーズ(キチガイ)」と呼ばれる。


1958年、誕生日にミッチェル夫妻から中古のアコースティック・ギターを贈られ、ブルースに熱中する。


1961年、アート・スクールに入学。路上でギターを演奏するようになる。


1962年、最初のエレキギターケイ・ジャズ2を入手。


1963年、R&Bバンド、ルースターズに加入。その後ケイシー・ジョーンズ・アンド・ジ・エンジニアズを経て、トニー・トップ・トーパムの後任としてヤードバーズに加入。

ヤードバーズはサニー・ボーイ・ウィリアムソン2ライス・ミラー)のロンドン公演でバックを務めたが、エリック・クラプトンが「本当はライス・ミラーなんでしょ」と知識をひけらかしたため、サニー・ボーイが「ぶっ殺す!」とナイフを持ち出して暴れる修羅場となってしまい、その後の公演はビクビクして過ごすことになった。


1965年、ヤードバーズのライブは人気だったがヒット曲に恵まれず、マネージャーの意向でポップな「フォー・ユア・ラブ」を発表。大ヒットするが、エリック・クラプトンは路線変更が気に入らず脱退。

その後加入したジョン・メイオール・ブルースブレイカーズは、人気バンドとなる。ヤードバーズ時代と桁違いの激しいプレイに、ロンドン中に「CLAPTON IS GOD」の落書きが出現。


1966年、ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのアルバム「ブルースブレイカーズ・ジョン・メイオール・ウイズ・エリック・クラプトン」がヒットする。

ブルースブレイカーズでの居心地が悪くなってきた頃、グレアム・ボンド・オーガニゼーションジンジャー・ベイカーからバンド結成の話を持ち掛けられ、ジャック・ブルースも一緒ならという条件で承諾。ジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースは犬猿の仲だっだが、エリック・クラプトンは知らなかった。

彼らはイギリスのミュージシャンの間で「cream of the crop(選りすぐりのもの)」と呼ばれていた事から、バンド名はクリームとなった。1stアルバム「フレッシュ・クリーム」が発表された。


1967年、2ndアルバム「カラフル・クリーム」が発表された。


1968年、3rdアルバム「クリームの素晴らしき世界」が発表された。

メンバーの人間関係の悪化により、クリームは解散。

ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(作詞作曲:ジョージ・ハリスン)でギターを演奏。


1969年、エリック・クラプトンはスティーヴ・ウィンウッドとバンド結成を構想し、ジンジャー・ベイカーも招かれた。ブラインド・フェイスが結成され、「スーパー・ジャイアンツ」を発表。大ヒットとなる。

アメリカ・ツアーでは、バンドのレパートリーが少ないためクリーム時代の曲も演奏する派目になり、エリック・クラプトンはこの状況に嫌気が差し、前座のデラニー&ボニーと過ごす時間が増え、半年ももたずにブラインド・フェイスは解散した。

エリック・クラプトンはプラスティック・オノ・バンドデラニー&ボニー&フレンズに客演した。


1970年、デラニー&ボニー&フレンズからボビー・ウィットロックカール・レイドルジム・ゴードンを引き抜き、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。オールマン・ブラザーズ・バンドからデュアン・オールマンをゲストに呼び、アルバム「いとしのレイラ」を発表した。

シングル・カットされた「いとしのレイラ」は、親友ジョージ・ハリスンの妻、パティ・ボイドを恋慕する内容。


1971年、2ndアルバムのレコーディング中に人間関係が悪化し、デレク・アンド・ザ・ドミノスは解散した。

エリック・クラプトンは精神を病み、ジョージ・ハリスン主催によるバングラデシュ・コンサートを最後に、ヘロインに溺れ音楽活動から遠ざかった。


1973年、エリック・クラプトンの現況を心配した友人たち(ピート・タウンゼントロン・ウッド、スティーヴ・ウィンウッド等)が、レインボー・シアターでのイギリスのEC加入を祝うコンサートに出演させ、この模様はライブアルバム「レインボー・コンサート」として発表された。


1974年、アルバム「461 オーシャン・ブールヴァード」を発表。クリーム時代とは真逆のレイドバックした演奏と歌を聴くことができる。

シングル・カットされたボブ・マーリーのカバー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は、ビルボードHOT100で1位を記録した。


1976年、イギリスのバーミンガムで公演中、極右政治家であり移民排斥の活動を行なっていたイーノック・パウエルを支持することを表明し、「外国人のクソ野郎共はこの国から出て行け」、「wogs(中東アフリカ系の人々を揶揄する差別用語)は祖国に送り返せ」、「イギリス白人による白人のための国だ」といった趣旨の差別発言を放ち、会場を凍りつかせた。

この発言は即座に大論争を巻き起こし、彼は同じく差別発言を放ったロッド・スチュワートらと共に厳しく非難された。

クラプトンは後年、自身が差別主義者であったことを認め、自伝やインタビューの中で何度か謝罪した。

しかし、この事件はクラプトンの華々しいキャリアに暗い影を落とすこととなり、彼は数十年が経った今でも差別主義者として非難され続けている。


1977年、ソロとしての代表作と評されるアルバム「スローハンド」を発表。「ワンダフル・トゥナイト」、「コカイン」、「レイ・ダウン・サリー」などが収録されている。

シングル・カットされた「ワンダフル・トゥナイト」は、パティ・ボイドを恋慕する内容。


1979年、パティ・ボイドと結婚。


1985年、ライブ・エイドに出演。

イボンヌ・ケリーが娘ルースを出産。


1986年、アルバム「オーガスト」を発表。YMOの「ビハインド・ザ・マスク」のカバー(マイケル・ジャクソンのアレンジ)が収録されている。

ロリ・デル・サントが息子コナーを出産。


1989年、パティ・ボイドと離婚。


1991年、ニューヨークコンドミニアムで息子コナーが転落死。


1992年、映画「ラッシュ」のサウンドトラックを担当。「ティアーズ・イン・ヘヴン」が収録されている。

MTVアンプラグドでのパフォーマンスを収録した「アンプラグド~アコースティック・クラプトン」を発表。このアルバムの大ヒットにより、ミュージシャンの間でアンプラグド・アルバムが流行した。


1994年、自らの原点への回帰を目指した全編ブルースのカバー・アルバム「フロム・ザ・クレイドル」を発表。


1998年、アルバム「ピルグリム」を発表。ワイノナ・ジャッドのカバー「チェンジ・ザ・ワールド」が収録されている。


2002年、メリア・マッケナリーと結婚。


2005年、アルバム「バック・ホーム」を発表。愛・地球博のために作られた「セイ・ホワット・ユー・ウィル」が収録されている。


関連動画

Layla

デレク・アンド・ザ・ドミノス時代のヒット曲。三菱自動車のCMにも使われた。


Change the world

アメリカのカントリー歌手、ワイノナ・ジャッドの「チェンジ・ザ・ワールド」のカバー。


関連タグ

洋楽 ロック ブルース ギタリスト 歌手

ジェフ・ベック ジミー・ペイジ

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