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概要

ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン(ロシア語:Борис Николаевич Ельцин、読み:バリース・ニカラーイェヴィチ・イェリツィン、ラテン文字表記:Boris Nikolayevich Yeltsin、1931年2月1日 - 2007年4月23日)は、ロシア連邦の政治家。初代ロシア連邦大統領(在任:1991年7月10日 - 1999年12月31日)。大統領在任中に8月クーデターに対する抵抗を呼びかけ、ロシアの民主化を主導した評価と共に、後の強権・縁故政治に対する批判があった。


経歴

1931年2月1日にソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ブトカにて、ウラル地方の独立農民である家系に誕生した。1949年9月にウラル工科大学に入学し、1955年6月に同大学を卒業した。彼は製図だけで無く、数学・物理学・材料・土壌科学のコースを含む産業及び土木工学の流れに入った。マルクス・レーニン主義の教義を学び、言語を選択しなければならなかったのでドイツ語を選択したが、その言語に堪能になる事は無かった。1961年3月に共産党に入党し、1968年4月以来党の活動に専従した。


1985年3月にミハイル・ゴルバチョフが党書記長に就任した後、同年6月に党中央委員会政治局員候補兼書記に就任した。ブレジネフ派の大物であるヴィクトル・グリシンがモスクワ市の党第一書記を解任されると、1985年12月に後任のモスクワ市の党第一書記に就任した。ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、ゴルバチョフ政権におけるペレストロイカの遅れを強く非難した為、他の政治局員からのエリツィンに対する批判は、ゴルバチョフを驚愕させるほど強いものとなる。


1987年10月にブレジネフ派の大物のエゴール・リガチョフ公然と非難した為、リガチョフと対立して同年11月にモスクワ市の党第一書記を解任された。1988年2月に政治局員候補からも解任されるが、1989年3月の人民代議員大会選挙に、モスクワ選挙区から出馬・当選して政界復帰を果たした。その後は急進改革派の地域間代議員グループに属し、民主綱領派のリーダーとなる。1990年5月にロシア共和国の最高会議議長(実質は大統領)に就任し、同年7月に共産党を離党した。


1991年ロシア連邦大統領選挙では、副大統領候補にアレクサンドル・ルツコイを選出した。57.3パーセントの得票率を獲得・当選し、同年7月に大統領に就任した。1999年12月にテレビ演説で大統領の辞任を表明し、プーチン首相が大統領代行となった。辞任した後は表舞台からは姿を消し、悠々自適の年金生活を送ったという。2006年6月に全仏オープン7日目を夫妻で観戦し、シャラポワから帽子にサインしてもらう姿が撮られており、これが最後の公の姿となった。


2007年4月23日に長年の心臓疾患による多臓器不全(一部報道では心血管不全症とも)によって、モスクワの病院にて76歳で死去した。4月25日に救世主ハリストス大聖堂にて国葬が執行され、プーチンはこの日を「国民服喪の日」とする事を宣言した。この葬儀の後に遺体は軍の名誉をもって、ノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。


家族

1956年9月にナイーナ・ギーリナと結婚し、2人の子女が誕生した。


関連動画

World War II Red Square Victory Parade, 1995 Парад Победы

9 мая 1996г. Москва. Красная площадь. Военный парад.

9 мая 1997г. Москва. Красная площадь. Военный парад.


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ソ連 ロシア ロシア連邦大統領


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