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歴史は紀元前数千年前にまで遡り、大型化すると単純な帆も装備するようになった。

古代ギリシャなどで使われた三段櫂船などが有名である。


人力であるため当然ながら遠洋航海に不向きであり、また多数の漕ぎ手を必要とすることなどから、大航海時代を迎えると徐々に帆船に取って代わられた。

しかし風の止むことが多い地中海では帆船より有利で、また航続距離も漕ぎ手を交代させながら漕ぐことである程度は伸ばせるため、18世紀頃まで使われ続けている。

三本のマストを持った帆船とのハーフとも言える「ガレアス船」も作られた。


漕ぎ手

ガレー船は奴隷を鎖で船に繋いで漕がせるイメージもあるが、実際の所は奴隷ばかりが漕ぎ手になったわけではない。

特に古代のガレー船は多数のオールを持っていたため、それらが互いにぶつからないよう息を合わせて漕ぐ必要があり、体力だけでなく技術を必要としたのである。


例えば古代ギリシャで屈指の海軍力を持っていたアテナイでは自由民を漕ぎ手にしていた。

当時の法律では徴兵された市民は武器・防具を自費で賄うことになっており、その金を払えない無産市民はガレー船の漕ぎ手にされたのである。

彼らがサラミスの海戦で勝利に貢献したことから、無産市民も政治への発言力を持つようになった。

その他、奴隷ではないが市民権を与えられていない在留外国人も漕ぎ手にされた。

しかしアテナイでもやがて自由民だけでは漕ぎ手を賄えなくなり、奴隷が使われるようになった。


後に長いオールを数人で動かす方式になると難易度が下がり、奴隷や囚人などの練度・戦意の低い漕ぎ手を使いやすくなった。

中世のオスマン帝国やバルバリア(イスラム教徒の海賊)では捕虜にしたキリスト教徒に漕がせており、同じようにキリスト教国では捕虜のイスラム教徒に漕がせていた。


またヴェネツィア共和国ではガレー船の漕ぎ手が荷物置き場を利用して個人的な交易品を仕入れ、副業として売りさばくことを許可されていた。

上手くやれば給金より稼げるため、体力に自信のある者には人気の職業だったという。

しかし給料の値上がりなどから漕ぎ手の確保が難しくなり、やがて奴隷・囚人を使うことが増えてきた。


ガレー船の戦い方

古代の海戦は敵艦へ乗り込んで白兵戦を行うのが主な戦法で、漕ぎ手が自由民の場合は戦闘員を兼ねる場合もあった。

しかし熟練した漕ぎ手は貴重なため、実際に戦闘に参加させることは少なかったという。

ギリシャの三段櫂船は比較的小柄で、漕ぎ手は60〜170人乗っていたのに対し、その他の乗組員は30人程度だったため、白兵戦よりも衝角による突撃に向いていた。

ギリシャよりも操船技術が劣っていたローマ軍では衝角攻撃より白兵戦を重視し、多数の戦闘員が搭乗できる船を使っていた。

またローマ軍は『コルウス』と呼ばれるスパイクの付いた折りたたみ式の橋を装備し、これを敵船へ打ち込んでスムーズな移乗攻撃を可能とした(船の安定性を損なうため、あまり使われなかったという説もある)。

もちろん弓矢などの飛び道具も使われ、投石機も装備された。

アレクサンドロス大王によるティルス攻囲戦では二隻のガレー船を横に連結して双胴船とし、その上に破城槌まで搭載したケースもある。


時代が下がると大砲も装備されるようになったが、舷側からオールが突き出ている構造上、搭載できる数は帆船よりかなり少なかった。


キリスト教国による神聖同盟とオスマン帝国の大艦隊が激突したレパントの海戦(1571年)では神聖同盟がガレアス船を投入した。

これは三本のマスト(全て縦帆が、フォアマストのみ横帆の物が多かった)と高い乾舷を持つ、帆船とのハーフと言える船だった。

軍用のガレアスは普通のガレー船より遥かに重武装だったが、それ故に鈍重で操船が難しいため海上砲台として使うしかなかった。

レパントの海戦でも交戦区域まで普通のガレー船で曳航しなければならなかったが、戦闘が始まるとその火力を十分に発揮して勝利に貢献した。


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