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経歴

1918年3月10日、バーデン州ガッゲナウに生まれる。

1936年に陸軍に入隊するも1938年に空軍に転属する。

1939年の第二次世界大戦勃発時には第52戦闘航空団第2飛行隊の少尉であり、航空団最年少の将校だった。

1940年7月、バトル・オブ・ブリテンの激戦で将校の損失があいつぎ第3飛行隊第8中隊長に任命され、後に中尉に昇進。部隊は戦力回復の為に本国に後退。

1941年5月からのクレタ島攻略戦に参加。

6月からのソ連侵攻作戦バルバロッサはルーマニアにて迎え、製油工場の防衛にあたっていた。

11月28日、37機目を撃墜するも自身も撃墜され背骨を三箇所で骨折する重傷を負い、後にブカレストの病院からウィーン大学の病院へと入院する。

1942年8月、第52戦闘航空団に復帰。

9月3日、65機の撃墜に対し騎士十字章、10月28日には101機目の撃墜に対して柏葉付騎士十字章を受勲。

1943年4月、大尉に昇進。7月、第3飛行隊長に任命され、11月には少佐に昇進し、ヴァルター・ノヴォトニーに次いで250機目の撃墜を果たす。

1944年3月に西部戦線の第11戦闘航空団に転属となり第2飛行隊長となる。

5月にP-47撃墜され左親指を失い、更にヂフテリアに感染したことから入院が長引く。

11月に退院後、中隊長訓練と実戦を並行する部隊指揮官を経て1945年3月に第300戦闘航空団司令に就任。その地位で終戦を迎えた。

戦後は軍国主義者と冷遇され職を転々とした末にジーメンス社に就職し、1953年に退職するまでにドイツ南代表までなる。

1956年1月、新生ドイツ連邦空軍に少佐として復帰。F104戦闘機導入などに尽力。戦闘爆撃隊総監、戦闘航空部隊総監、空軍総監、NATOドイツ国防軍代表などを歴任し、最終階級は中将として1975年10月に退役。

2009年10月4日、バートライヘンハルにて心臓発作により死去。



逸話

●ラルの275機のスコアは、エーリヒ・ハルトマンゲルハルト・バルクホルンに次いでドイツ空軍第三位の撃墜数であった。だが、その為に彼自身も8回撃墜されている。


ハンス・ヨアヒム・マルセイユなどに比べ知名度は低いとされるが、見越し射撃の名手であり、220撃墜のエースであるハインツ・ベアーは見越し射撃の偏角が大きかろうと命中させる腕前はドイツ空軍一だとラルを評価したという。


●負傷から復帰してでの東部戦線でのラルの第52戦闘航空団の日々は、自分の飛行隊の集まりにもあまり参加せず、早くに就寝し、早朝から出撃してスコアを伸ばそうとするものであったという。


●1941年11月28日に撃墜され背骨を三カ所骨折した折は収容されたブカレストの病院で今後の飛行操縦は不可能と診断され、複雑な神経科の治療が必要な為にその専門教授がいるウィーン大学の病院に移されたが、そこで知り合った女医が後のラルの妻であるヘルダだった。


Bf109戦闘機を機体の隅々から武装まで信頼感があると気に入っており、Fw190は主翼の機関砲は高いGがかかり故障する可能性があるのが気に入らず、機体の中心軸近くに三門の銃砲を集中的に装備したBf109は照準の腕さえ良ければ集中的に弾丸を撃ち込め、集中して撃ち込まれたドイツの高性能の銃弾の破壊力は凄まじいかだらとしている。


関連タグ

ドイツ軍 ナチス JG52


グンドュラ・ラル(「ストライクウィッチーズ」で彼がイメージモデルとなったキャラクター)

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