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グレート草津

ぐれーとくさつ

グレート草津は、1.元ラグビー選手、プロレスラーの初代のリングネーム。2.元キックボクサー、空手家の2代目のリングネームで、1.の息子。(メイン画像は初代。)
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初代・草津正武

1942年2月13日生まれ、熊本県熊本市出身。

熊本工業高校、八幡製鐵所ラグビー選手として活躍。ポジションはロック(LO)。

社会人時代のサイズが189㎝、93㎏、100m走が11秒2というWTB並のスピードを武器にFWの中心選手となり、日本代表にもなった。(1963年のブリティッシュコロンビア州戦に出場し、日本代表キャップ1を獲得)


1965年7月30日に日本プロレスに入団。豊登から加藤清正にあやかった『草津清正』のリングネームを与えられ、ジャイアント馬場の付け人になった。

1966年3月21日、本間和夫戦でデビューするが、団体の体質に嫌気がさしてその年のうち4試合しか出場せず、退団。吉原功ヒロ・マツダ、同期の杉山恒治(後のサンダー杉山)とともに国際プロレスの旗揚げに参加する。

同年12月より、北米での武者修行を開始。アメリカのフロリダ地区ではタキ・ヤマグチ(Taki Yamaguchi)を、カナダのバンクーバー地区ではビッグ・クー(Big Ku)をリングネームにリングに上がった。


1968年1月3日、TBSの定期放送『TWWAプロレス中継』初回である日大講堂大会のメインイベントにおいて、ルー・テーズのTWWA世界ヘビー級選手権に3本勝負で挑戦したが、1本目にテーズのバックドロップを受けて後頭部を打ち、失神したまま2本目を放棄して敗退。これが俗に言う『草津バックドロップ失神事件』と呼ばれ、TBS側がプロレス入りから2年半足らずで国内試合経験の乏しかった草津をエース登用しようとして失敗した為に、草津のレスラー人生のみならず団体の運命をも決定づけた一戦として語られるようになってしまう。


1980年7月9日、地元である熊本大会での6人タッグマッチ(木村、草津、大木金太郎対ジプシー・ジョー、ランディ・タイラー、ロッキー・ブリューワー)の試合中、リング下の板が割れ、その隙間に走っていた草津の足が嵌って右足首を骨折。長期欠場を余儀なくされ、翌1981年8月に国際プロレスは活動を停止し、そのまま引退した。


早くから国際の幹部であり、現場責任者として、さらに活動停止時には営業本部長の職にあっったことから引退後静岡県三島市に住み、湯沸かし器製造会社の営業職に転身。

営業成績もよかったことから別の会社(健康食品会社)に移り営業取締役も務めていた。

2007年5月食道がんで入院。その後肺などにもがんが転移し療養していたが、2008年6月21日午後1時5分、多臓器不全のため66歳で死去。


2代目・草津賢治

1976年7月15日生まれ、静岡県三島市出身。

身長181cm、体重96kg。

草津正武の次男として生まれ、小学校・中学校とサッカーを経験。

天理高校に入学ラグビー部では1年生からレギュラーとなり2年・3年時には花園に出場。日本大学にスポーツ推薦で入学するが、その後空手の正道会館に入門。

1999年、第1回正道会館全日本ウェイト制重量級で3位入賞。アンディ・フグ率いるチーム・アンディの一員となった。

2000年1月25日、K-1 RISING 2000でデビュー予定が相手の病気欠場により不戦勝。

2000年3月19日、父親のリングネーム『グレート草津』を襲名し、K-1 BURNING 2000で空手出身のプロレスラー・松永光弘相手に改めて「デビュー戦」を行い、開始30秒でTKO勝ち。

K-1ではシリル・アビディ、中迫剛、ステファン・レコらと対戦した。

その後父親の看病のため休業に入っていたが、父親の死を機に引退を決意。

2008年11月21日、親交のあるマキシマムザホルモンらが出演したライブイベント「SKULLSHIT presents SKULLMANIA Vol.2 〜グレート草津FINAL〜」で引退試合を行った。

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