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セクレタリアト

うまのようななにか

アメリカの元競走馬・種牡馬(1970年-1989年)。またの名を“ビッグ・レッド”(大きな赤い栗毛)。
目次 [非表示]

概要

史上9頭目のアメリカ競馬の三冠馬で、1972年・1973年のエクリプス賞年度代表馬、アメリカ殿堂馬。

同じく“ビッグ・レッド”の異名を持つマンノウォーと並んでアメリカ競馬を代表する馬。

その圧倒的すぎる実力や規格外のパフォーマンス、様々な馬場で活躍できる万能さで知られ、死後長い年月が経った現在でも世界競馬史上最強馬と名高く、サンデーサイレンスなどを除いて特に有名な海外馬の一頭である。


出自〜2歳時

“ビッグ・レッド”誕生秘話

出身はバージニア州・メドウイベントパークのステーブル。父ボールドルーラー、母サムシングロイヤル。父のボールドルーラーは33戦23勝でエクリプス賞年度代表馬にも選出された一流の競走馬であり、8度に渡ってリーディングサイアーに輝いたアメリカ屈指の大種牡馬でもある。

本馬が産まれた頃にはメドウステーブルの所有者クリストファー・チェナリー氏は病気を患っており、牧場の経営は娘のヘレン女史が行っていた。その為、セクレタリアトの生産者も実質彼女だった。


セクレタリアトの誕生に関しては、少し変わったエピソードがある。

ボールドルーラーの所有者の息子フィップス氏は、種付け料を無料にする代わりに誕生する子馬を賭けて生産者同士でコイントスをするという趣向を持っていた。

ヘレン女史は自身が所有するサムシングロイヤルとヘイスティマテルダの2頭の繁殖牝馬を対象に、1969年の秋にフィップス氏とコイントス勝負をした。結果はフィップス氏が勝利し、ヘイスティマテルダが1970年に生む子馬の所有権を獲得。負けたヘレン女史はサムシングロイヤルが同じく1970年に生む子馬の所有権を獲得した。

ちなみにフィップス氏はその後名牝シケーダとヘイスティマテルダを交換したが、シケーダは繁殖牝馬としてはあまり成功しなかった。


一方のサムシングロイヤルは翌1970年の3月30日午前0時10分に、燃えるような赤い栗毛が特徴的な一頭の牡馬を産んだ。この馬こそセクレタリアトである。生まれたばかりの彼を見た牧場の秘書は「とても美しい馬。これを見た人はみんな彼のことを気にいるだろう」と書き記した。

彼の馬名は幼少期までつけられていなかった。秘書は様々な馬名をジョッキークラブに申請したが全て棄却され、ヘレン女史が自身がかつて事務局に勤務していた事にちなんで、事務局を意味する「セクレタリアト」を申請し、受理された。


幼少期

2歳になるとセクレタリアトはフロリダ州に移動。ルシアン・ローリン師のもとで鍛え上げられた。

性格はとても大人しかったらしく、後に有名になって牧場の見学客が殺到しても平然としていたという。しかしその図太い性格のせいなのか、食欲旺盛で食べて寝てばかり、同厩のポニーと遊んでばかりの自由な生活を過ごしていた。ローリン師は「怠惰な馬でした」と述壊し、「のんびり屋」というあだ名がついた。そんなセクレタリアトを師がどうやって鍛え上げたかは謎に包まれている。

しかし目についたものを食べるぐらい大食漢で寝てばかりのセクレタリアトは太るようなことは決してなく、むしろ筋肉が増える一方であった。


マンノウォーの再来

1972年、セクレタリアトは7月にアケダクト競馬場のメイドン(未勝利戦)でデビュー。出遅れと道中の不利で4着になり、デビュー戦勝利とはならなかった。しかしゴール前で見せた末脚は凄まじく、その後の活躍を予感させるものとなった。

セクレタリアトは1週間後の同じくアケダクト競馬場のメイドンで6馬身差の圧勝で初勝利を上げる。競馬記者は「加速力、パワー、カリスマ性、馬体から出る魅力、全て非常に良い馬」と絶賛した。


その後は勝ち星を重ね5連勝。特に2歳馬の最重要戦ホープフルステークスではスタートで出遅れ最後方からの競馬となってしまったが、終盤で全馬をごぼう抜きして5馬身差つけて圧勝した。

7戦目のシャンペンステークスでは接触で2着降着となったが、ローレルフューチュリティ、ガーデンステートステークスを連勝した。出走したレースは殆ど後方からの競馬で、後方から差し切る迫力の追い込みは見る者に大きなインパクトを与えた。

この年は9戦7勝でシーズンを終え、最優秀2歳牡馬と共に、12戦全勝を記録した牝馬やアメリカ二冠を果たした同厩の馬などを抑えて2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選出された。この時点で一部からは早くも「マンノウォーの再来」と呼ばれるようになり、翌年のケンタッキーダービーの最有力候補に名乗りをあげた。



3歳時

純金馬

翌年の1月3日、闘病生活を続けていたクリストファー・チェナリー氏が逝去。これにより総額600万ドルの相続税を捻出するためにヘレン女史はセクレタリアトの種牡馬権を売却。一株19万ドル×32口、総額608万ドルという当時史上最高額の巨額のシンジケートが組まれたがすぐに完売となった。

(ちなみに金額をセクレタリアトの馬体重で割ると1オンス325ドルとなり、当時の純金1オンスの価格約100ドルの3倍に当たることから、純金より重い馬として「純金馬」と呼ばれるようになった。)


レースは3月から始動。ベイショアステークスを4馬身半差、ゴーサムステークスをレコードタイと連勝。

しかしケンタッキーダービーの前哨戦ウッドメモリアルステークスは直線で伸びを欠き3着に敗戦。ボールドルーラー産駒がスピード系でかつ三冠競走を一度も制していないことから、セクレタリアトに対して「スタミナ不足ではないか」という指摘が相次いだ(実際三冠競走は全てウッドメモリアルステークスよりも距離が長い)。この敗戦で翌日のレーティングはシャムという馬が1位になり、陣営は一抹の不安を抱えながら三冠競走に挑むこととなった。



常識外れの走り

まずは1冠目のケンタッキーダービーに出走。セクレタリアトは1番人気に支持されたが、前述のスタミナ面の懸念から、それまで単勝オッズ1倍台だったのに対し今回は単勝2.5倍だった。

セクレタリアトに先着しているシャム含め12頭の精鋭達が揃い、13万人もの観衆が見守る中スタート。セクレタリアトはいつも通り最後方に位置取り、終盤徐々に進出して直線で一気に加速。内で粘るシャムを突き放し2馬身半差をつけて、ノーザンダンサーの2分フラットを0.6秒更新し、初の2分切りとなる1分59秒4のレコードで快勝。シャムにリベンジを果たした。

シャムもハイペースで逃げてレコード並みの走破タイムだったのだから相手が悪かったとしか言いようがない。


余談だがアメリカは平坦で小回りな競馬場ばかりで、スタートから飛ばして押し切るのが勝つための常套手段と言われていた。今回のシャムが正にそれである。そんな中でスタートからゴールまで加速し続けるセクレタリアトのレースぶりは、アメリカ競馬界において常識からかけ離れたものであった。



2冠目のプリークネスステークスは回避馬が続出し6頭立てでのレースとなった。このレースではセクレタリアトは最後方から向こう正面で早め先頭という、また違った戦法を見せて観衆を驚かせた。ただこの作戦は直線で伸びずに垂れる危険性を孕んでいたが常識外れのセクレタリアトにそんな心配すら要らなかったようで、そのまま押し切りシャムに2馬身半差つけ2冠を達成。

ピムリコ競馬場の当時の副代表が「フォルクスワーゲンの車列の中にロールスロイスが混ざっているように見えた」と述べるほどこれまた圧倒的であった。

シャムも3着に6馬身つけていたのだから相手が悪かっ(ry


タイムは観衆の悪戯と思われる原因で競馬場の計測器が故障していたため手動で計測しており、1分54秒4とも1分53秒4とも言われ論争が続き、ピムリコ競馬場は1分54秒4を公式タイムとした。

それから39年後の2012年6月19日、ヘレン女史を交えて行った最新技術での解析により1分53秒0と結論づけた。勿論レコードである。



2代目ビッグ・レッド誕生

1948年のサイテーション以来25年振りのアメリカ競馬三冠に王手をかけたセクレタリアト。この時点でセクレタリアトはかなりの有名馬になっており、ベルモンドSの前週には『タイム』誌含む大手雑誌がこぞって彼を表紙にした。


レースの数日前、セクレタリアトの鞍上ロン・ターコット騎手とローレン師は外食に出掛けた。その席でターコット騎手は冗談っぽくこう述べる。

「もし負けたら、私は首を吊らなければならないでしょう」

これに対しローレン師は、

「セクレタリアトは歴史上最も偉大な競走馬。もし負けたら、私はアメリカ中のあらゆる馬や調教師に関する本や資料を集めて全て川に投げ捨てる」

と、競馬との関わりを断つとも取れるような発言をしたという。そのぐらい陣営にとっても絶対に負けられないレースだったであろう。


1973年6月9日、三冠を掛けたベルモンドステークスの日を迎えた。セクレタリアト、シャム含めた5頭立てでのレース。セクレタリアトは単勝オッズ1.1倍の断然1番人気に支持された。ベルモンドパーク競馬場には歴史的瞬間を見届けようと6万7千人の競馬ファンが詰め掛け、テレビ中継の視聴率は何と50%に到達。最早「三冠は確実」とまでにセクレタリアトの三冠達成に向けてボルテージは最高潮に達していた。



そんな期待と重圧の中、彼は競馬の歴史上に永久に残るであろう伝説のパフォーマンスを披露する。


(まあ有名なレースなので知っている人も多いと思うが、せっかくなので書き記しておく。)



ゲートが開くとセクレタリアトは出遅れ、シャムが好スタートを切って先頭でレースを進めようとする。しかし内からシャムと競り合ったかと思えば、猛然と逃げようとする馬が一頭。


セクレタリアトである。


彼は得意とする最後方から差し切る追込み戦法をなぜか捨て、今回は何と逃げに打って出たのである。

観客がどよめく中、セクレタリアト相手に連続2着とこちらももう負けられなかったシャムは好きにはさせまいと必死に追走。開始早々に始まった2頭の競り合いに、後続はすぐさま置き去りにされた。

セクレタリアトの前半半マイル(800m)は衝撃の46秒2。前代未聞の殺人的ハイペースにシャムも向こう正面の中間あたりで早くも力尽き後退。後続の馬も全くついて行くことができず、セクレタリアトの完全な一人旅となった。

これには実況も思わず「戦闘機のような凄まじい勢いだ!」と絶叫。驀進し続けたセクレタリアトは直線の入り口地点で既に10〜20馬身と絶望的な差をつけた。

が、あろうことかセクレタリアトは直線で更に加速したのである。

最早サラブレッドの極地に達したと言っても過言ではない走りをしたセクレタリアトは、そのままターコット騎手が思わず後方を振り返る程に差を広げゴール。結果、2番手に31馬身差という歴史的大差をつけ、実に25年振り、史上9頭目のアメリカ競馬三冠を達成した。

ベルモンドパーク競馬場に詰めかけた6万7千人の観衆は、目の前で達成された快挙とあまりにも衝撃的なレースに熱狂した。


勝ち時計は2分24秒0。これは従来のレースレコードを2秒6、全米レコードを2秒2更新するダート12ハロン(2400m)のワールドレコードである。未だに24秒台どころか25秒台すら現れず、26秒台も指で数えられるぐらいなので、この記録は今後破られる事のない不滅のアルティメットレコードとされる。


ちなみに、三冠競走全てにおいて、50年以上が経過した現在でもセクレタリアトのレコードはただの一つも破られていない


これまで後方の競馬をしてきたセクレタリアトがなぜ大逃げをしたのかは実はあまりわかっていない。しかしローレン師が「ロニー(ターコット騎手の呼び名)がセクレタリアトをどのように走らせるつもりなのか理解したのは向こう正面。この時銃を持っていたら、私は彼を撃っていた」と言うように、陣営が思っていたものとは全く異なる走りだったようである。


※実際の映像




こうして伝説のレースを終えて三冠馬となったセクレタリアトは2代目となる“ビッグ・レッド”の称号を獲得。雑誌大手『タイム』では表紙と共に5ページの特集が組まれ、アメリカ国民や世界中の競馬ファンに広く知られるようになった。



まさかの敗戦

最強の三冠馬が誕生したという事で、セクレタリアトの元には出走依頼が殺到したという。しかしセクレタリアトは3歳で引退することが決まっているので、ヘレン女史とローレン師は出来るだけ出走しようと緻密なスケジュールを組み上げた。


ベルモントステークスの3週間後のアーリントン招待ステークスは疲れからかあまり本気ではなかったが、後方から早め先頭で抜け出して9馬身差で勝利。タイムもレコードに肉薄しており、流石の走りを見せた。


ところが次走のホイットニーステークスでは叩き合いの末、無名だった馬に1馬身差の2着に敗れてしまう。

実はこのサラトガ競馬場は「チャンピオンの墓場」と言われる程これまで番狂わせを起こしており、かのマンノウォーが生涯唯一の敗北を喫したのも、アメリカ三冠馬のギャラントフォックスが単勝101倍の伏兵に敗れたのもサラトガ競馬場でのレースだった。

敗因はウイルス性疾患による体調不良とされている。特に下痢の症状が酷く、本来ならば回避すべきなのだが強引に出走させたのこと。逆によく走れたな...

この敗戦で安易に出走させることが出来なくなり、スケジュールにも狂いが生じた。


6週間の休養を経てのマールボロカップ招待ハンデキャップでは、当時を代表する5頭の優駿が揃う中でワールドレコードで圧勝。

しかしウッドワードステークスでは4馬身半差つけられて完敗した。重馬場に対応できなかったとも言われたが、セクレタリアトは過去に同じく重馬場のレースで圧勝しているので、実際のところ敗因ははっきりしていない。ちなみに、このレースで勝利したプルーブアウトは次走ジョッキークラブ金杯(当時3200m・ブリーダーズカップ創設前はアメリカ最大の競走だった)を勝ってあり、長距離と重馬場を非常に得意とした馬だった。


さらば“ビッグ・レッド”

次走は「芝でも走れる万能さを見せたい」という事で当初のスケジュール通り芝のレースに挑戦すると発表し、マンノウォーステークスに出走。ターコット騎手は「ダートより芝の方が走れるかもしれない」と発言しており、自信を覗かせていた。

マンノウォーSはGIレースということもあり、芝のGI戦線を勝ち上がってきた優駿達が立ちはだかったが、結果は逃げてコースレコードを更新する5馬身差で圧勝。宣言通り、芝適正も完璧であることを証明した。


20日後、ターコット騎手とローリン師の母国カナダに遠征し、同じく芝のカナディアンインターナショナルチャンピオンシップステークスに出走。これがラストラン。

アメリカの英雄が凱旋するとのことで、カナダの人々はセクレタリアトを熱烈に歓迎し、地元のテレビ局によるセクレタリアトのドキュメンタリーも作成された。

騎乗停止処分を受けたターコット騎手に代わり、エディー・メイプル騎手が最初で最後のコンビを組む。11頭立てで行われたこのレースを、セクレタリアトは最後まで圧巻の走りを見せ、6馬身半差の圧勝で有終の美を飾った。


その後ニューヨークのアケダクト競馬場にて引退式を行い、多くの人々に惜しまれつつ、セクレタリアトは通算成績21戦16勝で短い競争生活に終止符を打った。

3歳時の成績は12戦9勝で、2年連続でエクリプス賞年度代表馬、最優秀3歳牡馬、更には芝レースで圧勝したことにより最優秀芝牡馬も受賞。芝ダート両方において頂点に輝いた。

翌年にはアメリカ競馬の殿堂入りも果たした。


種牡馬時代

引退後はクレイボーンファームで種牡馬入りし、勿論種牡馬としても絶大な期待をかけられた。

クレイボーンファームの元にはファンが殺到したが、マナーの悪いファンも出てきたために経営者のハンコック氏は公開を中止してしまった。

ご存じの方もいると思うが、これは日本においても深刻な問題となっており、代表的な事例だと三冠馬のシンボリルドルフも鬣を切られたことで公開中止になっている。


話を戻す。種牡馬成績はと言うと、牝馬ダートの最高峰・BCディスタフを勝ち年度代表馬に選出されたレディーズシークレット、アメリカ二冠馬リズンスターなどを排出。当初の期待からは大人しめの産駒の活躍ではあるが、それでも1978年には2歳リーディングサイアーに、1992年にリーディングブルードメアサイアーに輝くなど十分な成功と言える。

それ以上に母の父としての成績が優秀で、ストームキャット、エーピーインディ、ゴーンウェストなどが種牡馬として大成功している。

残念ながらリズンスターが種牡馬として不振に終わり直系はほぼ途絶えてしまったが、彼の血は現代の競馬界においても影響力を及ぼしている。


日本の競馬においても、産駒は持込及び外国産馬として出走している。

持込馬ではセクレファスターが種牡馬入りし、1989年阪神大賞典と1991年京都大障害(春)を制したナムラモノノフと1997年のカブトヤマ記念等を制したテイエムオオアラシを輩出。テイエムオオアラシは引退後に小倉競馬場の誘導馬となり、誘導馬引退後はセラピーホースとして余生を送っている。


外国産馬として走ったヒシマサルはきさらぎ賞・毎日杯・京都4歳特別を制し、

後に種牡馬入りしたものの目立った成績は残せなかった。

なお、「ヒシマサル」の名を持つ競走馬は現在まで3頭登録されているが

本馬は「2代目」である。


なお、半兄のファーストファミリー(父・ファーストランディング)は

日本に輸入され、1980年の有馬記念を制し同年及び翌1981年の年度代表馬に輝いた

ホウヨウボーイホッカイドウ競馬伝説の最強馬と称される

コトノアサブキを輩出。

しかしホウヨウボーイは種牡馬1年目に胃破裂が原因で早逝、後継種牡馬となったコトノアサブキもトウカイテイオーが制した1991年の日本ダービーで5着に入ったソーエームテキを輩出したが、1999年に用途変更となりその後の動向は不明となっている。




1989年の秋頃に蹄葉炎を発症。治療を受けるが4本足全てが蹄葉炎になるほど悪化。手の施しようが無くなり、10月4日の正午過ぎに安楽死の処置が取られた。19歳没。遺体はクレイボーンファームに埋葬された。

通常、衛生上の問題により頭と心臓、そして蹄だけが土葬されるのだが、セクレタリアトは遺体全てが土葬された。これはかなり稀で名誉なこととされている。

(日本ではそもそも土葬すること自体が稀)



特徴・強み

・等速ストライド

セクレタリアトを最も象徴する特徴の一つ。サラブレッド離れした筋力と無尽蔵のスタミナ、バネがついたような独特のフォームから繰り出される爆発的な加速力を生み出していたのが等速ストライドと呼ばれる走法。

この走法はセクレタリアトの万能さにも直結した。通常、サラブレッドは前脚と後脚の距離が短い、つまり胴が短いほどストライドが短くスプリンター向きに、胴が長いほどストライドが長くステイヤー向きになる。ところがセクレタリアトはこうした短長を自らが自在に変えることが出来たので、距離や馬場、レース状況関係なしに活躍できた。レース前の最終追い切りで、芝・ダート問わず5ハロン56秒台後半〜57秒台を常にマークしていたことからも、彼の非凡な競走能力が窺える。

ニューヨーク競馬協会のギルマン博士は「私が見てきたサラブレッドの中で最もパーフェクトな走法」と評価している。


・脅威の代謝能力

セクレタリアトは先述した通り大量に食べて寝るという生活を過ごしていながら、欠点のない馬体を常に保っていた。

通常のサラブレッドならこんな生活を送っていれば馬体重が大幅に増加してしまうが、セクレタリアトの場合脅威の代謝能力により摂取した養分が脂肪に行くことなく馬体の維持や筋肉の増強になっていると言われていた。

実際、3歳時のセクレタリアトの胸囲は199.2cmに達しておりレースごとに成長していったので、腹帯をレースの度に新調し、鞍もセクレタリアトに合った特別なものを使用していた。


・巨大な心臓と頑丈な馬体

死亡後にケンタッキー大学でセクレタリアトの解剖をしたところ、心臓の重さが10kg弱と通常のサラブレッドの心臓の重さより倍以上あることがわかった(通常の重さは約4kgである)。病気などで大きくなったわけではなく、これがセクレタリアトの原動力となっていたといわれている。

また、馬体重530kg程度の巨体自慢のセクレタリアトだったが故障とは一切無縁の無事之名馬でもあった。



死後

1999年に「20世紀アメリカ名馬100選」でマンノウォーに次ぐ2位にランクイン。同年にはアメリカ郵便公社がセクレタリアトの肖像が印刷された33セントの記念切手を発表。

「20世紀世界の平地競走馬トップ200」でフランスのシーバードに次ぐ2位に。

「20世紀のアスリートベスト10」では競走馬ながら選出され、「20世紀のトップアスリートベスト100」では競馬関係で最高順位となる35位にランクインした。


2010年には、ファンを最も興奮させた馬に送られる賞として「セクレタリアト民衆の声賞」が新設。史上初の牝馬でのBCクラシック制覇を果たしたゼニヤッタが初代受賞馬に選ばれ、ヘレン女史から賞が贈られた。


アーリントンパーク競馬場では、毎年夏にセクレタリアトを記念して「セクレタリアトステークス(G1)」が開催されている。またベルモントパーク競馬場には1/3の大きさの銅像が、ケンタッキー・ホース・パークなどに実物大の銅像がそれぞれ鎮座している。


彼の生涯を再現した映画も「セクレタリアト/奇跡のサラブレッド」と題してディズニーにより公開されている(日本未公開作品)。本編の主人公はセクレタリアトよりもむしろヘレン女史の方であり、本人も映画にカメオ出演している。興味のある方は是非。



関係者のその後についてもここで少し触れておく。

ヘレン女史はセクレタリアトの死後も映画などを含めて精力的に活動しており、ジョッキークラブで初の女性会員になり、1976年〜1984年まではサレブレッド生産者・馬主協会の会長を務めた。こうした長年の競馬関係への貢献に対し、2005年にエクリプス賞功労賞を受賞。2017年に自らの役目を終えるかのように安らかな眠りについた。


ターコット騎手はセクレタリアトの三冠により、史上二人目の2年連続ケンタッキーダービー制覇を達成。また、2年間で5つのアメリカクラシック制覇というのはターコット騎手が初であった。これらの功績が称えられ、1974年に競馬関係者では初のカナダ勲章(日本の国民栄誉賞に当たる)を授与された。

しかし1978年に落馬事故で下半身不随になり引退。通算成績20281戦3032勝・内GI級競走62勝。引退後すぐにアメリカ競馬の殿堂入りが発表され、1980年にカナダスポーツの殿堂入りも果たした。




死後30年以上経った今でもセクレタリアトの人気は高い。ファンサイトも立ち上がっており、彼のぬいぐるみも未だに販売されている。



世界競馬史上最強馬・究極のサラブレッドと言われた名馬セクレタリアト。彼の残した伝説の数々は、現在もアメリカの競馬史に煌々と輝き続けている。




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シアトルスルー:同じボールドルーラー系の後輩アメリカ三冠馬。

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