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セルジューク朝

せるじゅーくちょう

中央アジアから誕生したイスラム王朝。現在のトルコ共和国の領域を支配していた。

概要

現在のトルコ共和国の遠祖となったテュルク系民族(要はトルコ語系の民族のことだが、現代のトルコ人と区別するときはこう表記する)の王朝。全盛期には、中央アジアからイランイラクアナトリア(今のトルコにあたる)等を支配した。


十世紀ごろ、アムダリヤ川の北側のトゥーラーン(現在で言うウズベキスタン周辺)地方はテュルク系民族が支配するようになっていた。彼らのうちセルジュークという人物はイスラム教に改宗して勢力を広めていった。その子孫であるトゥグリル・ベグ率いる一隊はアムダリヤ川を渡って1038年にニーシャプールを占領し、支配者となった。これが一般にセルジューク朝の建国とみなされる。


トゥグリル・ベグはその後、イラン高原を制圧する。そのころアッバース朝カリフは、イスラム教主流派であるスンニ派の長でありながら彼らにとっての異端シーア派であるブワイフ朝に首都バグダッドを支配されていた。スンニ派に属していたトゥグリル・ベグにとってこれは格好の介入の大義名分となった。彼はカリフに忠誠を誓って1055年にバグダッドに入場し、カリフから世俗の支配者としてスルタン(王もしくは皇帝などと邦訳される地位)の称号を与えられた。1063年にトゥグリル・ベグは世を去るが、2代目スルタンとなったアルプ・アルスラーンが1071年マラズギルトの戦いで東ローマ帝国を破ってアナトリアを奪取する。アナトリアには多くのテュルク系民族が入植し、イスラム化が進んだ。これが現在のトルコの始まりである。


第3代のマリク・シャーは全権を名宰相ニザームルムルクに委ね、領土は中央アジアから地中海にまで拡大して最盛期となった。イラン・イラクなどの中心部を支配する本家を大セルジューク朝と呼び、シリア、アナトリア等には分家を送り込んで地方政権として支配した。

セルジューク朝はエルサレムをも支配下に置くが、これによってキリスト教徒の巡礼がイスラム教徒によって妨害されているという風聞が西欧に届き、東ローマ帝国からローマ教皇への援軍要請もあって第一回の十字軍が編成されることになった。

だがニザームルムルクの暗殺とマリク・シャーの病死が相次ぎ、その後のセルジューク朝はスルタンの座を巡って後継者が内乱を繰り返すようになった。

こうして地中海沿岸は十字軍が立てたキリスト教徒諸国に奪われ、イランはホラズムに奪われて1157年に大セルジューク朝は崩壊した。

ただしアナトリアには分家の地方政権であったルーム・セルジューク朝がその後も継続することになる。

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