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概要

ウィリアム・ジェファーソン・クリントン(英語:William Jefferson Clinton、短縮形名:ビル・クリントン、愛称:ババ、1946年8月19日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第42代アメリカ合衆国大統領。アメリカ大統領としては、第2次世界大戦終結後に生を受けた最初の人物であり、平和と好景気を謳歌した時代の大統領であった。その事から高い人気があり、退任した時の支持率は68パーセントであった。


経歴

初期

1946年8月19日にアーカンソー州ホープにて、ウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニアとバージニア・デル・キャシディとの間に誕生する。同年5月に自動車事故で死去した父のウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニアと同じ名前が付けられ、ウィリアム・ジェファーソン・ブライス3世と呼ばれた。1968年6月にジョージタウン大学を卒業し、その後はオックスフォード大学とイェール大学ロースクールを経て、故郷のアーカンソー州に戻った。


政界

1974年11月に実施された中間選挙で連邦下院議員選挙に出馬し、アーカンソー州3区の民主党予備選挙で勝利する。本選挙では1972年6月に発生したウォーターゲート事件による追い風があったものの、共和党の現職の候補に対して僅差で敗北する。1977年1月にアーカンソー州司法長官に就任し、1979年1月まで務めた。


1979年1月に第40代アーカンソー州知事に就任し、選挙では新人同士の本選挙を制して初当選を果たした。32歳の若手知事として話題となり、在任中は州の教育水準の向上・道路の整備などに取り組んだ。1983年1月に再度州知事に就任し、1992年12月まで同職を全うした。


1992年アメリカ合衆国大統領選挙

1992年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党から出馬し、アル・ゴア上院議員を副大統領候補に内定させた。ゴア上院議員と共に、共和党ジョージ・H・W・ブッシュ大統領とダン・クエール副大統領のペアを370人の選挙人を獲得して破った。選挙戦の時は1988年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補で、ネガティブ・キャンペーンに敗北したマサチューセッツ州のマイケル・デュカキス州知事(当時)の選挙スタッフを重用して守りを固めた。日本ではこの大統領選挙が実施された時期に、テレビCMでケネディ大統領と握手したシーンが度々放送された。


大統領

1993年1月に大統領に就任し、ジミー・カーター以来12年ぶりに民主党の大統領が誕生した。クリントンの左派的色彩は中道・保守派から批判され、徐々に中道寄りへの修正を図った。1994年11月の中間選挙以後は政策の一貫性の無さがしばしば批判の対象にされ、その一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。


1996年アメリカ合衆国大統領選挙では、2期目の再選を目指して出馬した。同じくゴア副大統領と共に、共和党のボブ・ドール前上院議員とジャック・ケンプ前住宅都市開発長官のペアを379人の選挙人を獲得して破った。1997年1月に2期目の大統領に就任し、2001年1月に2期8年の任期を全うして退任した。


経済

1992年アメリカ合衆国大統領選挙でジョージ・H・W・ブッシュ大統領を「経済こそが問題なのだ、愚か者!」と揶揄したように、当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、これによってアメリカは戦後2番目に長い好景気となり、インフレ無き経済成長を達成した。


1996年7月に好景気を背景としてアトランタオリンピックを開催し、1994年11月に実施された中間選挙でニュート・ギングリッチ率いる共和党が上下両院を奪還すると、財政赤字の削減に動き出す。FRB(連邦準備制度理事会)のアラン・グリーンスパン議長の助言によって均衡財政を目指し、財政赤字を解消して2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は「クリントノミクス」と呼ばれる。


教育

学校へのPC導入などIT教育を推進し、同業界への利益誘導に貢献した。その他に就学前児童の早期教育プログラムの拡大と移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。1993年9月にアル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成IT化による生産性向上を推進した。


国民皆保険制度

ファーストレディのヒラリーが提案した医療保険制度改革を試みたが、民間保険会社や企業などからの反対活動で、この国民皆保険制度は成立させる事は出来なかった。


スキャンダル

1998年1月にモニカ・ルインスキーとの不倫が発覚し、同年12月に弾劾裁判に掛けられる程の事態に陥った。ただし連日のように報道機関がスキャンダルを報じる一方で、好景気に支えられた国民からの支持率は退任に至るまで60パーセント前後を維持していた。ルインスキーは1995年11月から1997年3月まで、9度に渡ってクリントンと性的関係を持った。


外交

この分野は不得意であった為、諸国との関係では協調と対立を繰り返し、必ずしも大きな成果を上げたとは言い難い。


日本

1989年7月から自動車を中心とした貿易摩擦を契機として、日米構造協議が実現した。1993年7月に初めて日本を訪問し、宮沢喜一首相との会談で「日米規制改革及び競争政策イニシアティブに基づく要望書(年次改革要望書)」が取り決められた。


政権の2期目からは日本との関係改善に動き、特に両国の安全保障問題に関して、概ね伝統的な同盟関係を基軸としながら深化を図った。1995年2月に策定されたジョセフ・ナイ国防次官補らによる「ナイ・イニシアティヴ」に基づき、冷戦後におけるアジア・太平洋への関与を再定義し、日米同盟をその機軸と位置付けた。1996年6月に日米防衛協力の為の指針を策定し、冷戦後における両国の同盟関係の新たな定義付けを実行した。


中華人民共和国

経済関係においては中国に友好的で、今後の主要貿易相手国として恒久的な最恵国待遇を与える一方で、同盟国の日本には貿易問題などで厳格な態度を取った。1996年9月に「チャイナゲート」と呼ばれる共産党政府から選挙資金を得た疑惑が浮上し、与党の民主党と野党の共和党からも追及される大騒動となった。


1998年6月に中国を訪問した時には、江沢民党総書記との会談で「台湾の独立不支持・2つの中国及び一中一台の不支持・台湾(中華民国)の国際連合などの国際機関への加盟不支持」(三つのノー)を表明した。結局クリントンは日本に立ち寄らず、9日間に渡って中国に滞在した為、日本からは「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)と非難され、日本の政財界に戦後共有されていた「民主党は反日・親中」という事実を改めて再確認させた。1996年3月に発生した第3次台湾海峡危機では、国内法である台湾関係法の優先に準じた対応を取った。


南北アメリカ

1994年1月にメキシコカナダと共に自由貿易圏を形成し、関税障壁を撤廃するNAFTA(北米自由貿易協定)を発効させた。


家族

1975年10月にアーカンソー州フェイエットビルヒラリー・ローダムと結婚し、1980年2月に娘のチェルシーが誕生した。


余談

  • 1976年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補であったジミー・カーターの選挙運動に参加した。
  • 2000年アメリカ合衆国大統領選挙にアル・ゴア副大統領が出馬するが、この選挙は裁判所の判断を必要とするほどの接戦であった。結果として一般投票では上回るも選挙人獲得数では及ばず、共和党ジョージ・W・ブッシュが勝利した。

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