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親記事「リアルチート」の項目が多岐に渡りすぎてページが重くなってしまったため、アスリートの項目をこちらに移動するものとする。


リアルチート級のスポーツ選手を追記したい場合はこちらにまとめてどうぞ。往年の名選手から最近の若手選手まで並べて記述しているが、現役選手に関してはある程度割り引いて読むことをおすすめする。競走馬などについてはリアルチート(人外)に記述している。

サッカー

サッカー草創期の選手で、黒人系で初めてブラジル代表に選ばれた。1919年のコパ・アメリカで彼のゴールで優勝したことでサッカー王国ブラジルが誕生したきっかけになった。

通算1329ゴールは、サッカーにおける生涯通算最多得点第1位である。


サッカー王国ブラジルの国民的英雄であり「サッカーの王様」「キング・ペレ」と称される伝説の名選手で、「20世紀最高のサッカー選手」の呼び声も高い。

ペレが背番号を10にしていたため、「サッカーにおけるエースナンバーは10番」として世界中に認知されたほど。

1958年のスウェーデン大会で17歳と239日で得点し、これはFIFAワールドカップ史上最年少得点でいまだに破られていない。


ペレと並ぶブラジルサッカーの天才。小さい頃にポリオにかかった影響で、左右の足の長さが違うなどといった障害を負ったが、それ故にドリブルの天才となった。足の長さが違うことによって生み出された不規則な動きのドリブルを止められるDFはいなかったといわれている。

しかし、最盛期は短く、引退後は酒癖の悪さが祟って零落していき49歳の若さで世を去った。

ブラジル国外での知名度は低いが、国内ではペレと比較される存在である。


元オランダ代表で世界を代表するファンタジスタ

選手としては「クライフターン」をはじめとする華麗なテクニックで観客を魅了し、個人技と組織戦術を融合させたオランダ代表の「トータルフットボール」の体現者として活躍。指導者としてもスペインの名門FCバルセロナの育成システムの基盤を作るなど、サッカー界に多大な影響をもたらした。

「0-0で引き分けるくらいなら3-4で美しく負けた方がマシ」はクライフのサッカー観を表す言葉として有名。


ドイツサッカー界とバイエルン・ミュンヘンにその名前を刻むレジェンド。

センターバックが自由自在にポジションを取る「スイーパー」がさらに積極的に攻撃参加するリベロ戦術を確立させた選手としても有名。

ピンチを迎えても動じずに最後列から味方選手を鼓舞し、抜群のキャプテンシーで君臨するその姿はオーストリア皇帝フランツ1世になぞらえ皇帝(カイザーベッケンバウアーと呼ばれた。

ゴールキーパーも含め守備的ポジションの選手の受賞が歴代5人しかいないバロンドールを、2度に渡り獲得(1972・76年)している。

監督としてもバイエルンに数々のタイトルをもたらし、代表監督として1990年イタリアワールドカップでドイツを3度目の世界王者に導くなど指導者になってからも飛び抜けていた。

キャプテン翼カール・ハインツ・シュナイダーの「サッカーは強い奴が勝つんじゃない。勝った者が強い奴なんだ」は元々ベッケンバウアーの言葉である。


アルゼンチンサッカー界(とナポリ)の英雄にして神。1986年ワールドカップにてハンドの反則を犯して得点するもののそれを「神の手」という無茶苦茶な理屈で誤魔化し、その直後の「五人抜きゴール」で全てを正当化してしまった。更にマラドーナ教という自信を神とする宗教(半ば冗談ではあるが)まで作られる有様。

没後、所属していたSSCナポリを初のセリエA制覇に導いた事を含め、数々の業績を称え本拠地のスタジアム名を彼の名前に替えられた事から、偉大なる伝説のひとつとして刻まれた。


1998年、母国開催だったワールドカップ・フランス大会において、フランスに初優勝をもたらした偉大なるレジェンド。

主にトップ下などの攻撃的MFとして活躍し、ファンタジックなパス、ドリブル技術に加え強靭な肉体、フィジカルと「フィールド全てをチェス盤を見るように真上から見ているようだ」とすら言われる広大な視野を持つ「現代版ファンタジスタ」の典型であった。

今も「サッカー史上最高の攻撃的MF」の呼び声も高い。


アルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナの後継者と名高いサッカー選手。

サッカー選手としては小柄ながら卓越したテクニックでゴールを量産し、過去の大選手でさえ通算で3回が限度だったバロンドール(世界最優秀選手賞)を8度受賞している。

2022年カタールワールドカップでは代表引退も考える中、決勝戦で次世代ストライカーエムバペと激しい点取り合戦を繰り広げた挙句PK戦まで引っ張り、最終的に勝利してマラドーナ以来36年ぶりに自国へ優勝トロフィーを持ち帰るというリアルで漫画のようなサクセスストーリーを仕上げてしまった。


ポルトガルのサッカー選手。

バロンドール受賞5回、イングランドスペインで得点王を獲得するなど、メッシと共に現代のサッカー界では抜きん出た存在。

中でも、欧州最強クラブ決定戦であるUEFAチャンピオンズリーグでは6大会連続得点王というズバ抜けた記録を持つ。

しかも5回目は決勝で2得点し、ライバルのメッシを追い抜くと言うドラマ性まで付いてきた。


70年代後半から80年代、ブンデスリーガで活躍した日本人選手のパイオニア。

1.FCケルン在籍時は1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献し、ヴェルダー・ブレーメン在籍時はサイドバック守備的MF、攻撃的MF、左ウィング、FWなど左のポジションを全てこなし、その運動量と的確な守備、戦術眼、正確なキックとシュートはブレーメンサポーターから「東洋のコンピューター」と呼ばれ親しまれた。当時のレーハーゲル監督は「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめたほど。

帰国を決断した際もブレーメンから契約延長の申し出があった事からも、奥寺がブレーメン首脳陣からいかに評価されていたかが理解出来る。


日本のプロサッカー選手。通称「キング・カズ」。

長年Jリーグで精力的にプレイを続け、56歳という年長者ながらも現在も現役を続けており、Jリーグ連続得点記録18年という大記録を打ち立てる。また、50歳14日というプロリーグ最年長得点記録(2023年12月現在)の持ち主で、この記録はギネス世界記録に認定された。

また、2011年の東日本大震災のチャリティーマッチでは試合前に「試合でゴールを決めてカズダンスを踊る」と宣言。結果、後半37分に宣言通り見事ゴールを決め、カズダンスを披露して観客を熱狂させるという奇跡を起こした。


日本の女子サッカー選手。

15歳で代表デビューを果たし、20年以上にわたり女子サッカーの最前線で活躍し続けた。国際Aマッチ出場数とゴール数は共に男女通じて日本人最多であり、2011年の女子ワールドカップでは得点王とMVPに輝く活躍を見せ、なでしこジャパンのワールドカップ初優勝に貢献。翌2012年には女子のバロンドールにあたるFIFA最優秀選手賞を受賞するなど女子サッカー界におけるレジェンドと呼べる存在。

2015年シーズン一杯をもって現役引退を発表。現役最後となった皇后杯決勝では今シーズン初得点がこの試合唯一のゴール(決勝点)となる、千両役者の大活躍を見せた

女子選手としてはあらゆる能力に優れたオールラウンドプレイヤーであると同時に、男気あふれたリーダーシップでチームメイトを鼓舞することから一部のファンからは尊敬をこめて「兄貴」と呼ばれている。


野球・ソフトボール

端的に言うならば「メジャーリーグで一番多く投げた投手

先発登板数815試合に始まり749完投数、511勝、316敗、対戦打者数29565、通算投球7356.0イニング、7092被安打、自責点2147と「投げ続けることで増える名投手の証」のメジャーリーグ最多記録を総なめしている。

そして、これだけ投げているにもかかわらず肩や肘に痛みを感じたことさえないという、昨今の投手の故障事情からは考えられない特異体質だったという。

彼の偉業は「サイ・ヤング賞」として称えられている。


野球」というスポーツにおいて、最強クラスのリアルチート。「野球の神様」と呼ぶ人も多い。

ここでその偉業を列挙するととんでもないことになるので、当該記事を参照されたし。


1900年代初頭に活躍した名選手で、9年連続含む首位打者12回、メジャー歴代最高記録となる通算打率.366を持つメジャーを代表するヒットメーカー。

同年代に活躍したベーブ・ルースとは容姿やプレースタイルが対照的で、色々と破天荒だったことから何かと比較される存在だった。


メジャーリーグのシーズン最多奪三振記録(383)・通算最多奪三振記録(5714)保持者。

現役時代は100マイル(約160km/h)を超える剛速球を武器に三振を積み重ねた。制球難でも知られ、暴投数277と与四球数2795も歴代最多である。ただし、これは当時としては画期的だった独自のトレーニング法で40代半ばまで現役を続けられた賜物である。42歳でも94マイル(約152km/h)をマークし、当時評論家として取材に来た鈴木啓二を驚嘆させた事も。

また、歴代最多となる7度のノーヒットノーランを達成している。


世界最多となる通算1406盗塁を記録した世界の盗塁王。

1982年にはメジャー記録となるシーズン130盗塁を達成している。長いメジャーリーグの歴史でも1000盗塁以上記録した選手は他におらず、出塁率も高かったことから「メジャーリーグ史上最高のリードオフマン」の一人とされている。


1990年代から2000年代にかけて活躍した剛腕サウスポー。

メジャーでも珍しい208cmの長身に、サイドスローに近いフォームから繰り出す最速164km/hのストレートと高速スライダーを武器に三振を量産した。

若い頃は制球難で伸び悩むも、ライアンの指導を受けたことで30代になってから覚醒し、サウスポーでは歴代最多となる5度のサイ・ヤング賞受賞、歴代2位の通算4875奪三振を記録した。

2004年には史上最年長となる40歳で完全試合達成を成し遂げている。


メジャーリーグ最多記録となる通算762本塁打、2001年にシーズン最多の73本塁打を放ったメジャーを代表する大打者。

パワーだけでなく若い頃は盗塁も多く決め、史上唯一の500本塁打500盗塁を達成している。

全盛期はあまりにも手がつけられず、満塁でありながら敬遠されたこともある。

薬物使用疑惑により記録を無効にすべきという声もあるが、薬物を使用してもこれほどの成績は残せないと擁護する声も多い。


パナマ出身の元メジャーリーガー。

名門ニューヨーク・ヤンキース一筋でプレーし、歴代最多の通算652セーブを記録したメジャーを代表するクローザー。

投げる球種はカットボールのみという、メジャーでもまれな「1球種で成功したピッチャー」であり、史上初の得票率100%でアメリカ野球殿堂入りを果たした。


1950年代から60年代にかけて活躍した「鉄腕」と称された伝説の名投手。

1961年にはプロ野球最多タイ記録となるシーズン42勝を記録。1957年に打ち立てたシーズン20連勝は2013年に田中将大が更新するまで56年間破られなかった。

特に1958年の巨人との日本シリーズでは、ほぼ一人で投げぬき西鉄の優勝に貢献し、翌日の新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが躍った。

また、監督時代には後述の落合博満を開花させたという功績を残している。


日本プロ野球が誇る「世界のホームラン王」。

通算本塁打868本はいまだ破られていない世界最多記録。代名詞の「一本足打法」でホームランを積み重ね、三冠王2回、本塁打王15回、シーズンMVP9回など数々のタイトルを手にし、長嶋茂雄と共に巨人のV9に貢献。また、スポーツ選手としては初の国民栄誉賞の受賞者である。

…つーか、王選手を称える賞がなかったから国民栄誉賞が作られたというのが本当のところ


関西方面の諸兄には「解説がおもろいオッサン」という印象が強いが、現役時代は快足で鳴らし阪急の黄金時代を牽引した野球選手。

シーズン106盗塁、通算1065盗塁、13年連続盗塁王日本プロ野球においては今なお破られていない大記録。

また、盗塁を阻止しやすくする投法「クイックモーション」は、韋駄天っぷりを遺憾なく発揮していた頃に別球団で活躍していた野村克也氏が対福本用戦術として編み出したモノ

ちなみに後述するイチローよりも先に国民栄誉賞を蹴った男。その理由については当該記事を参照されたし。


昭和後期から平成初期を代表する、プロ野球史上最高の右打者の一人とされる稀代の天才打者。

高い長打力に加え、バットをゆっくりと構えた「神主打法」で広角に打ち分ける卓越したバッティング技術の持ち主。

プロ4年目の1982年に当時史上最年少となる28歳で三冠王を獲得。その後1985、1986年にも三冠王を獲得しており、3度の三冠王はプロ野球唯一であり、メジャーでも達成者がいない大記録である。

また、プロ野球史上初の1億円プレイヤーでもある。


左足を大きく上げる独特の投球フォーム「マサカリ投法」から繰り出す150km/h超えのストレートと落差の大きなフォークボールを武器に活躍した名投手。

現役時代は奪三振に強いこだわりを持ち、当時のパ・リーグを代表するロッテのエースであった。

ここで終われば名投手ではあるがチートと呼ぶほどではない。村田の凄い所は引退後に作った数々の伝説である。プロを目指す子供達にプロの凄さを伝えるため、同年代ではとてもこなせない鉄人トレーニングを積み重ね、年齢を越えた鋼の肉体を作り上げ、50代後半で140km超えのストレートを披露し、2013年の始球式では63歳で135km(しかもストライクゾーン)を記録する超人ぶりを見せている。現役時代に顕著な活躍をした選手は数多くいれど、引退後にこれだけの伝説を多く残した選手はそうはいないだろう。


中日ドラゴンズで活躍した技巧派左腕投手。本名「山本昌広」。

生きた化石」「シーラカンス」と称され、投手の持つ「○○最年長記録」を度々更新。

現役晩年は「投げるだけで記録が成立する」という状況にすらなっており、それでいてチームの戦力として一軍で投げ続けるという離れ業をやってのけていた。

2015年にはプロ野球史上初の50歳登板を果たし、32年の現役生活に幕を下ろした。

なお、田中将大は、彼がプロ入り3年目の時に生誕しており、さらにそれより若い世代の大谷翔平藤浪晋太郎らの台頭もあって「父と子」と言われることも多く、実際彼には娘がいるが、その娘は彼らと近い世代である。

ノーヒットノーラン最年長記録・沢村賞・名球会入りと数々の功績を持つ。

誰が言ったか、「プロ野球の歴史80年、山本昌の歴史30年」


日本人2人目のメジャーリーガーで、多くの業績によりMLBが日本人選手を気軽に受け入れるきっかけを作った先駆者(パイオニア)。

現在も最多である8球団からの1位指名の末近鉄に入団し、独特の「トルネード投法」から繰り出される速球と落差の激しいフォークボールで三振を量産し、1年目のシーズンに最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、沢村賞、新人王、ベストナイン、リーグMVPという個人タイトルを総なめにした。その後も4年目まで200奪三振以上で4年連続奪三振王を獲得し、入団から5年間の奪三振は1204にものぼる。

その後首脳陣との対立により紆余曲折を経てロサンゼルス・ドジャースへと移籍すると、MLB1年目ながらオールスターゲームの先発投手という大役を務める等活躍を見せ、奪三振王、防御率2位等の好成績で新人王を獲得した。その後の現役生活でも、史上4人目となる両リーグでのノーヒットノーランを達成する(どちらの球場(クアーズフィールドカムデン・ヤーズ)でも、ノーヒットノーランを達成したのは現在でも彼しかいない)等の業績を残し、引退後の2014年には、日本在籍わずか5年ながらNPBの殿堂入りを果たしている。


今や誰もが知る野球界随一の安打製造機

オリックス時代に7年連続首位打者メジャー10年連続200安打単一シーズン最多262安打というアンタッチャブルレコードの持ち主。現代のサムライ

現役時代は世界記録にストイックに挑戦し続け、2016年には日米通算ながらピート・ローズが保持するメジャー通算4256安打を超え、日本人選手初メジャー通算3000安打(ついでにメジャー通算500盗塁)を達成した。

バットの根本から先端まで使ってヒットを打つバットコントロール、神速の盗塁と内野安打を生み出す脚力及び走塁技術、「エリア51」と称される広大な守備範囲高精度高速遠距離送球レーザービーム」と、走攻守全てにおいて世界最高峰の武器を持っている。器用万能の言葉がこの上なく似合う。

27歳でメジャーデビューしてこれだけの記録を積み重ね、42歳にして3000安打目を三塁打で決める野球界の仙人

ちなみに国民栄誉賞の授与を三度にわたり辞退しており、本人曰く「人生の幕を下ろしたときにいただけるよう励みます」とのこと。


平成時代を代表する屈指の強打者。NPB、MLB通算の本塁打は507で、2020年終了時点で歴代7位。

星稜高校時代から既に強打者として世間から注目され、その恐怖の余り、対戦相手校が、未だに語り種となっている5打席連続敬遠を仕掛けた程。NPB時代は稀代のホームランバッターとして名を馳せており、NPBでの実働は10年だが本塁打王・打点王・最高出塁率のタイトルに3度も輝き、ベストナインも1995年から8年連続受賞。更には首位打者にも1回輝くなど、三冠王には惜しくも届かなかったとは言え、アベレージヒッターとしても優秀だった。大舞台にも強く、2000年に日本シリーズMVPを獲得している。

MLBでは中距離打者にシフトした関係でホームランは大きく減少した(とはいえコンスタントに20本前後は打つことが多かった)が、チャンスに強い打撃でチームを支え、ヤンキースのクリーンナップを任された。中でも2009年にはここ一番での勝負強さが光り、これまでで日本人選手唯一のワールドシリーズMVPを獲得した

シーズンホームラン数はNPBにおいて50本、MLBにおいて31本が最多(日本人選手として前者は歴代3位、後者においては2位)。MLBでの記録そのものやインパクトこそイチローおよび大谷翔平らの前では埋もれがちだが、野手での数少ないMLB成功者には違いなく、イチロー共々野手としてのMLB挑戦者のパイオニアとして十二分すぎる役割を果たした。


日本のソフトボール選手。

体感速度160-170km/hに匹敵するとされる豪腕投手で、驚異的なスタミナ・メンタルも併せ持つ。

20代前半の頃から日本代表のエースとして活躍し、2008年の北京オリンピックでは準決勝から決勝までの3試合全てに完投し、2日間3試合413球を投げ抜きソフトボール初の金メダルの立役者となった。この活躍は「上野の413球」と呼ばれている。

北京オリンピックを最後にソフトボールは正式競技から外れてしまうも復活を信じ現役を続行。13年ぶりの復活となった2021年の東京オリンピックでは、39歳のベテラン投手とは思えない圧巻のピッチングで、13年越しのオリンピック連覇を成し遂げた。


長いプロ野球の歴史の中でも非常に珍しい二刀流選手(two-way player)。

高校時代は「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれ速球豪打で鳴らしていたが、(多少のトラブルがあったにせよ)プロ入り後は投打共にさらに磨きがかかった。

日本ハムでは「投打二刀流」として調整を重ね、投手としては日本人最速の165km/hを記録し、打者としても2桁ホームランを放つ。「2桁勝利・2桁ホームラン・3桁安打を1人が1年で同時に達成する」という怪物級の記録を叩き出した。

2018年からはMLBロサンゼルス・エンゼルスに移籍し、ここでも新人王・日本人初のサイクル安打達成・満票MVPの獲得・ベーブ・ルース以来104年振り2人目となるメジャーでの2桁勝利・2桁本塁打の達成・MLB初の同一シーズン規定投球回数・規定打席数同時到達・日本人初のホームラン王獲得など、今なお信じられないような活躍を残す「生きる伝説」

その群を抜いた活躍ぶりから「リアル茂野吾郎」、「現代のベーブ・ルース」などと様々な場所で騒がれている。


バスケットボール

アメリカが誇るバスケットボールの神様

全盛期には他の選手が決して真似できないような空中プレイで世界中を魅了した。

1992年のバルセロナ五輪でバスケットボールが正式種目として採用された際、NBAのスター選手を集めたドリームチーム(夢の軍団)」と称された代表のエースとして、見事アメリカに金メダルをもたらしている。


ジョーダン以降のNBAを牽引したスーパースター。

正確無比なシュートで相手を確実に仕留めることから「ブラックマンバ」と呼ばれた。


NBA史上最強のセンターと言われるプレイヤー。愛称は「シャック」。

身長216センチ、体重147キロの巨体から圧倒的なパワーで繰り出されるプレイでゴールを2度破壊。耐久性の高いゴールの導入を余儀なくさせる、ルール自体を改正させる等、大きな影響を残した。


現在のNBAを代表する名プレーヤー。

バスケット選手として必要な能力を全て兼ね備えていることから「キング」と呼ばれる。


NBAの歴史上最高とも称されるシューター。

彼が放つ3ポイントシュートはNBAのオフェンスに革命をもたらしたと言われている。


テニス

スイスの元プロテニスプレーヤー。数々の歴代最多記録を持ち「史上最高のテニスプレーヤー」と称されている。本国スイスでは「フェデラーの悪口を言えば罰金」とジョークが作られるほどである。


スペインのプロテニスプレイヤー。クレーコートでは圧倒的な勝率を誇り「クレーキング」「赤土の王者」と呼ばれる。


セルビアのプロテニスプレーヤー。長らくフェデラー・ナダルの壁に阻まれていたが、徐々に頭角を現し四大大会(グランドスラム)最多優勝記録を更新した。


日本の車いすテニス選手。四大大会通算50回(シングルス28回、ダブルス22回)の優勝を記録し、パラリンピックでも4つの金メダルを獲得するなど、車いすテニスにおける数々の記録を打ち立てている。


卓球

中国の卓球選手。オリンピックでは個人・団体合わせ5つの金メダル、世界選手権個人3連覇など数々の世界大会を制しており、卓球界史上最高の選手と称されている。


北欧の卓球王国・スウェーデンの国民的英雄。史上最高の卓球選手との呼び声も高く、『KoTT』と呼ばれる。オールラウンドスタイルで長きに渡り王座に君臨した。世界選手権2回優勝、バルセロナ五輪金。80年代後半~90年代スウェーデン黄金時代を築く。無敵のストレートサーブで数多の選手を沈める様は圧巻。


ゴルフ

アメリカのプロゴルファー。プロデビューから瞬く間にゴルフ界の頂点に上り詰めたスーパースター。生涯獲得賞金は1億ドルを超えている


アメリカンフットボール

1977生のアメリカのアメフト選手。ポジションはクォーターバック

アメフトの名門ミシガン大学に在籍はしていたものの、絶対的なエースでなかったことや体格が貧弱であったことからドラフトでは6巡目全体199位という下位でNFLニューイングランド・ペイトリオッツに拾われる。ところが、そこで実力を発揮。入団2年目でチームに初の全米制覇(スーパーボウル優勝)という栄誉をもたらすと、チームに計6回に及びスーパーボウルをもたらした。

更に2020年にタンパベイ・バッカニアーズに移籍すると移籍初年で全米制覇を果たした。個人で計7回の全米制覇を果たすという化け物で、「GOAT」(Greatest of All timeの略)や「史上最強の掘り出し物」といった声も高い。

ちなみに、他のチームにはペイトン・マニングやドリュー・ブリーズ、アーロン・ロジャースといった殿堂クラスの人材がおり、その中で打ち立てた記録である。そんな彼らでも1回でも全米制覇できればいいほうなので、どれだけチートだということがわかる。


格闘技

ボクシング

アメリカ出身の元世界ミドル級・ウェルター級王者。

階級に関係なく最強の選手を決める用語「パウンド・フォー・パウンド」が生まれるきっかけとなった偉大なボクサー。


アメリカ出身の元WBA・WBC統一世界ヘビー級王者。

当時単純な殴り合いだったヘビー級に華麗なフットワークを取り入れたスタイルで数々の名勝負を演じた伝説のチャンピオン。

蝶のように舞い、蜂のように刺す」という世界的に有名なフレーズで知られる。


アメリカ出身の元世界3団体(WBA・WBC・IBF)統一ヘビー級王者。

ヘビー級としてはやや小柄ながら、圧倒的なパンチ力とヘビー級最速とも言われるフットワークで瞬く間に世界の頂点に上り詰めた。

素行の悪さを問題視されることが多いが、そのインパクトの強さから数々のゲームや漫画にタイソンをモデルにしたキャラクターが登場している。


メキシコ出身の元ミニマム級・ライトフライ級王者。

プロ通算52試合51勝(37KO)1分という世界的にもまれである生涯無敗を誇ったことから、軽量級最強との呼び声が高い。

ボクシング漫画「はじめの一歩」に登場するフェザー級の絶対王者リカルド・マルチネスのモデルとして知られる。


アメリカ出身の元プロボクサー。

卓越したスピードとディフェンス技術を駆使したスタイルで、史上初の無敗で世界5階級制覇を成し遂げ、プロ通算50戦50勝の無敗のまま引退した。

KOを重視しないスタイルや破天荒な私生活から批判は多いが、ボクサーとしての評価は高い。


フィリピン出身の世界6階級制覇王者

デビュー当時は軽量級のライトフライ級(下から2番目)だったが、キャリアを重ねるごとにどんどん階級を上げていき、10階級上のスーパーウェルター級までを渡り歩き、史上2人目となる世界6階級制覇を成し遂げた。

フィリピンの国民的英雄であり、タレントや政治家としても活動している。


現役時代は「カンムリワシ」の異名をとった、日本ボクシング界のレジェンド。

高校でボクシングを始め、1974年に上京してプロボクサーとしてデビューし、76年にWBA世界ライトフライ級王者となった。

80年までに当時の世界最多記録となる13度目の防衛に成功し、81年に14度目の防衛戦で敗れ世界王座陥落(この試合を最後に現役を引退)まで通算5年王座を死守。

生涯戦績は24戦23勝(15KO)1敗。世界王座防衛13度は日本人男子世界王者として、世界王座6連続KO防衛は日本人世界王者として現在も最多記録である。


日本ボクシング史上最高傑作と名高いボクサー。異名は「Monster」。

アマチュア時代から圧倒的な成績で注目を浴びると、プロ転向後も6戦目でWBC世界ライトフライ級王者、8戦目でWBO世界スーパーフライ級王者を獲得。2018年にWBA世界バンタム級王者となり3階級制覇を達成すると、2022年には日本人史上初となる4団体統一王者となった。翌2023年にはWBC・WBO世界スーパーバンタム級王者を獲得し日本人2人目となる4階級制覇を達成、さらに同年に2階級4団体統一王者という史上2人目となる快挙を成し遂げた。


総合格闘技

ロシア出身の総合格闘家。

「氷の拳」と呼ばれた強烈な打撃に加え、柔道・サンボをベースとする寝技・組技も得意とし、いかなる状況でも冷静さを失わないなど格闘家としては全てにおいて隙がなかった。

PRIDE参戦以降、約10年に渡り無敗を誇ったことから「ロシアン・ラストエンペラー」「氷の皇帝」と呼ばれ、「総合格闘技界最強」との呼び声が高い。


キックボクシング

『キックボクシング史上最高の天才』と称される、日本が誇る格闘技の天才にして神童であり、格闘技を知らない層にも名前を轟かせるほど。その戦績も凄まじく、学生時代から、武尊との直接対決までは通算41戦41勝無敗であり、総合格闘技の試合でも4戦4勝している。

武尊との直接対決で勝利を収め、ついに42戦42勝無敗と無敗のままキックボクシング界を去り、ボクシング界に殴り込むに至った。


アグレッシブに攻め続ける攻撃的なファイトスタイルが持ち味の『ナチュラル・ボーン・クラッシャー』の異名を持つK-1の至宝。戦績も那須川天心との直接対決までは41戦40勝1敗であるが、その1敗北もアクシデントによる負傷で不運のTKOであり、事実上負け知らずであった。

その那須川天心との直接対決では、既に全盛期を過ぎていたこともあってか、那須川天心に敗れたもののそれでも双璧をなす存在に変わりはなかったのは事実である。


プロレス

20世紀最高のレスラー」「鉄人」の異名を持つプロレスラー。バックドロップパワーボムの原型となったテーズ式パイルドライバー、STFなどの技を世に広めた。


レスリング

ロシア出身のレスリング選手。13年間無敗で五輪3連覇など数々の偉業を成し遂げた「霊長類最強の男」。しかも「マットにゴリラを放った」と評されるような格闘家としての能力を備えるだけでなく、態度は紳士的、さらにロシアの国会議員を務めた経験もあるなどの知的な面すら持ち合わせる。いわばリアルザンギエフ


2015年9月のレスリング世界選手権女子53kg級で優勝し、五輪3連覇と世界選手権13連覇の世界大会計16連覇を成し遂げた選手。

2012年には世界選手権と五輪の計13連覇でギネス世界記録に認定され、女性アスリートとしては2人目となる国民栄誉賞を受賞。さらに、霊長類最強の男と呼ばれた上記のアレクサンドル・カレリンにちなみ霊長類最強女子という称号まで手に入れた。

2001年全日本女子選手権56kg級準決勝で山本聖子に敗れて以来、2008年W杯団体戦で敗れるまで公式戦119連勝を記録。また個人戦に限れば以降負け知らずで、上記の'15年世界選手権優勝で個人戦200連勝に到達した。

リオ五輪では4連覇を期待されたものの、決勝でヘレン・マル―リスに敗れ銀メダルとなり、連勝はストップしてしまったが、その連勝記録である206という数字は記録より記憶に残る記録だろう。 また、そのヘレン・マルーリスは、吉田をヒーローと言うほど強く憧れており、コーチも、「彼女は2年間、吉田選手に勝つために練習してきた。彼女のトレーニングは全て吉田対策だ。」と語っていたことも付け加えておきたい。

なお、『女に生まれて良かった。もし男に生まれていたら、試合で相手を殺していただろうから』という迷言を残しているが、彼女がどれだけ強いかがすぐにわかる事であろう。


フリースタイル女子58㎏級の日本代表。

上記の吉田沙保里の陰に隠れがちだが、彼女も相当な実力者であり、アテネ北京ロンドンリオデジャネイロの4大会連続で金メダルに輝き、前人未踏の女子個人種目四連覇を成し遂げるという快挙を達成している(日本選手のみならず、全競技通じ女子では世界初の快挙。さらに、五輪四連覇は、あのカレリンですらとうとう成し遂げることができなかった大記録でもある)。この偉業で、吉田に次ぐレスリング選手2人目の国民栄誉賞受賞者となった。

また、2015年の全日本選抜選手権の58kg級では、伊調との対戦を避けるために階級変更をする選手が続出し、エントリー選手が伊調を含めて3人しかいないという異常事態となった。


柔道

昭和を代表する伝説の柔道家。

常人では考えられない過酷な修行で得た超人的な身体能力と精神力で、全日本選手権13年間保持や15年間無敗を誇った。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられるなど、史上最強の柔道家と称されることが多い。


1970年代から80年代にかけて活躍した柔道家。

引退から逆算して203連勝、外国人相手に生涯無敗(116勝無敗3引き分け)をという大記録を打ち立てた伝説の柔道家で、国民栄誉賞を受賞した。


1990年代から2000年代前半にかけて柔道界を席巻し、その圧倒的な強さから、柔道漫画の主人公猪熊柔にちなんでヤワラちゃんという愛称で呼ばれていた。

女子柔道最軽量級の48kg級で高校時代から国内外の選手を圧倒し、対日本人選手98連勝、国内大会121連勝(それぞれ11連覇した二つの国内大会を含む)、世界選手権7連覇、対外国人選手61連勝、対外国人選手通算127勝5敗(一本勝ち82)、バルセロナオリンピック決勝後からアトランタオリンピック準決勝まで公式戦84連勝という前人未到の記録を打ち立てている。また、オリンピックにも高校2年生だったバルセロナオリンピックから5大会連続で出場(男女通じて日本人最多タイ記録)し、金メダル2、銀メダル2、銅メダル1と抜群の安定感を誇った。

また、怪我にも強く、2001年の世界選手権では、大会2週間前に右膝内側側副靭帯断裂という重傷を負いながらも強行出場し、苦戦しながらも世界選手権5連覇を達成した。また、アテネオリンピックでは、大会1か月前に左足首を負傷し周囲が怪我の影響を不安視する中、準決勝までオール一本勝ち、決勝も一本勝ちこそならなかったが終始相手を圧倒しての完勝でオリンピック2連覇という偉業を達成した。


相撲

角界史上最強とされる江戸時代の伝説の力士。「鉄砲」「張り手」「閂」「鯖折り」の四つの技を禁じられながらも、254勝10敗2分14預5無41休という記録を打ち立てた。

第35代横綱。

右目の半失明、右手小指に障がいを抱えながら前人未到の69連勝を打ち立てる。これは未だに破られていない連勝記録である。白鵬でさえも超えることができなかった。


第48代横綱。

優勝32回・45連勝などを記録したことから「昭和の大横綱」と称され、「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれるなど戦後の日本を象徴する存在であった。


第58代横綱。

端正な顔立ちと筋肉質な体格から「ウルフ」の愛称で呼ばれた名力士。「昭和最後の大横綱」と称され、歴代最強と評価する声も多い。


第69代横綱。

モンゴル出身の大力士。幕内最高優勝回数は歴代最多、史上初の通算1000勝達成など数々の記録を打ち立てている。


陸上競技

1990年代の棒高跳びで、世界中から尊敬を集めた棒高跳び選手。

保持していた記録は2014年2月15日に破られはしたものの、実に21年に渡り保持し続けた人の姿を借りた鳥類

噂程度だが、練習(非公式記録)で6m20(現世界記録は6m16)を飛んだとさえ言われている。


1980年代から90年代における陸上界のスーパースター。

100m、200m、リレー、走り幅跳びの4種目において圧倒的な強さを誇り、出場したオリンピックで通算10個のメダル(内金メダル9、走り幅跳びは4連覇)、世界選手権で通算10個のメダル(内金メダル8)という空前絶後の記録を残している。


短距離走の現・世界記録保持者である「人類最速の男」。

2016年リオデジャネイロオリンピックで五輪からの引退を表明するも、最大の見せ場である男子100m決勝で、流しながらのフィニッシュで9秒81で優勝し、同種目史上初の三連覇を果たした


ハンマー投げの世界的選手。

オリンピック・世界陸上の両方で金メダルを獲得するなど日本を代表するトップアスリート。

日本人離れした筋力に目がいきがちだが、実は持久力勝負以外はほぼ何でもこなせる万能選手

「スポーツマンNo.1決定戦」では他競技のアスリート相手に圧倒的な強さを見せつけた。

スタッフも「あれは実質的にNo.2決定戦。No.1はどうやっても室伏なんです」と語ったほど。

詳しくは当該記事も参照のこと。


競泳

アメリカの競泳選手。バタフライ、自由形、個人メドレー、各種リレーと多種目に渡って通算39回の世界新記録(この内バタフライ二種目、400m個人メドレー、リレー三種目は現在でも世界記録)を樹立した、通称「水の怪物」。

一人で多種目をこなせて、しかも4大会連続でオリンピックに出場していたため、気が付けばメダル獲得数、金メダル獲得数はオリンピックアスリート史上一位に。特に北京五輪での活躍はめざましく、1大会で8個の金メダルという空前絶後の大記録を樹立。そのうち7個が世界新記録というバランスブレイカーっぷりを披露した。

一番得意としていた200mバタフライでは「2001年に15歳で世界記録を破ってから、自分で打ち立てた世界記録を何度も自分で破り続ける」という、短命がデフォの競泳選手とは思えないような事をやってのけている。


ウィンタースポーツ

カナダのアイスホッケー選手。通算ゴール数など数々のNHL最多記録を持っており、「アイスホッケーの神様」「史上最も優れたホッケー選手」と称されている。その偉業から彼が現役時代につけていた背番号99がNHL全球団の永久欠番となっている。


オーストリアのスキー選手。高速系種目で名をあげ、特にスーパー大回転は長年無敵であった。煉瓦作りの仕事で肉体改造に成功した逸話がある。長野オリンピックの滑降競技中風によって転倒し、防護ネットを越えて50m転落したが、3日後には復帰しスーパー大回転・大回転で金メダルを獲得。2001年にはバイク事故で選手生命を危惧されるほどの大けがを負ったが回復し、2006年のトリノオリンピックでスーパー大回転銀メダルを獲得。そのため「ハーミネーター」というニックネームで知られた。


アメリカのプロスノーボーダー。スノーボード界を代表するスーパースターで年収は10億円以上とされている。Xゲームやオリンピックなど数々の世界大会で圧倒的パフォーマンスで幾度も優勝を果たしている。


チェコのスノーボード兼アルペンスキー選手。

2018年の平昌オリンピックにてスノーボードパラレル大回転とアルペンスキースーパー大回転の両方に出場。元々はスノーボードの方が得意なため、アルペンスキーは借り物の板という突貫工事も同然の調整で滑ったが、リスキーな速度を維持しつつノーミスで滑りきって金メダルを獲得。その後に行われたスノーボードでも金メダルを獲得し、全く異なる競技で二冠を達成した。その異例さから日本のメディアからは「二刀流」と称された。


「20世紀最高のアルペンスキー選手」と呼ばれたスウェーデンの英雄。大会では「彼に次いで2位になれば優勝に等しい」と言われたほど圧倒的な強さを見せた。80レークプラシッド五輪金。


日本のスキージャンプ選手。通称「レジェンド葛西」。

40歳を超えた現在でもスキージャンプの第一線で活躍し続けており、2018年までにワールドカップで17勝冬季オリンピックにも日本人最多の8大会連続出場するという大記録の持ち主。長い間オリンピックでの成績には恵まれていなかったが、7大会目の出場となるソチオリンピックにて41歳8ヶ月にして遂に初の個人メダル(銀メダル)を獲得し、冬季オリンピックの日本人最年長メダリストとなった。


日本が誇るスキージャンプ女子史上最高の選手。

若干15歳でW杯に参戦すると、優勝1回(男女通じて史上最年少優勝)、2位6回という驚愕の成績を残し、以降男女通じての史上最多記録が通算勝利数(63)、連勝(10)、通算表彰台回数(110)、女子史上最多記録が総合優勝回数(4)、年間勝利数(15)、後に同じ記録を達成した選手が現れたものの、男女通じて史上初の全戦表彰台という数々の偉大な記録を打ち立てている。


日本のフィギュアスケート選手。

東日本大震災後に17歳で世界選手権メダリストとなり、初出場となったソチオリンピックで史上初となるショートプログラム100点超えを達成し、19歳で金メダリストに。

続く世界選手権も制覇し、史上2人目の三冠王者となった。

同年末の中国の大会では、流血事故により頭を7針縫う怪我を負いながらも、頭に包帯を巻いたまま滑りきるという少年ジャンプっぷりを見せつけた挙句、満身創痍のまま年末のGPファイナルを連覇するという主人公属性ぶりで「宇宙人か」と世界を戦かせた。2015年には史上初のフリー200点超えトータルスコア300点超えを成し遂げ、元祖宇宙人プルシェンコに「違う惑星から来た人間だからね」と仲間認定を受けた。また、2017年世界選手権ではショート、フリー、トータルあわせて11度目の世界記録更新(2017年4月現在)を達成。国際スケート連盟(ISU)の公式カウントが「Mr Record Breaker」とツイート(外部リンク)した。なお、その後も記録は更新されている。

2018年の平昌オリンピックでは男子シングル史上4人目66年ぶりとなる五輪連覇を達成した。なお、日本人の冬季個人種目での五輪連覇はこれが初となる。この偉業で史上最年少で国民栄誉賞を受賞した。


日本のスピードスケート選手。

スピードスケート選手としてはかなり遅咲きとなる30歳近くから覚醒した選手であり、

500mで2016/17年シーズンから公式戦(W杯や世界選手権含む)負け無しと言うとてつもない記録を打ち立て続け、比較的苦手(安定して優勝出来ないと言う意味で)な1000mで世界新記録を叩き出す事までやってのけた。

平昌オリンピックでは1000mで銀メダル、500mでは五輪最高かつ低地リンク(スピードスケートではスケート場の標高で大きくタイムが違い、500mで0.5秒は軽くタイムが違う)史上初となる36秒台を叩き出して金メダルを獲得した。


日本のスピードスケート選手。

平昌で金銀銅、北京で金銀を獲得。一番得意としているのは1500mだが、500m、1000m、果ては団体競技であるパシュートでもメダルを獲得する等、ありとあらゆる競技で活躍できる高スペック・適応力の持ち主である。このうち、北京での1000mの金はオリンピックレコードを叩き出しての堂々の優勝。

ちなみに、上記の小平奈緒とは多くの大会で鎬を削ってきたライバル同士でもある。また、姉の高木菜那もスピードスケート選手であり、こちらも団体パシュートやマススタートでメダルを獲得している。


日本のスノーボード選手。

2022年の北京オリンピック人類史上最高難易度の大技トリプルコーク1440オリンピックで初めて成功させる等の圧巻のパフォーマンスを見せ、見事金メダルを獲得。海外メディアからは、ショーン・ホワイトの後継者と称賛された。

なお、ソチや平昌でも銀メダルを獲得しており、この頃から既に超人的なパフォーマンスの片鱗を見せていた。特に平昌でのショーン・ホワイトとの熾烈な金メダル争いは今なお語り草となっている。


モータースポーツ

F1

1930年代から50年代までの長きにわたり活躍したアルゼンチンのレーシングドライバー。F1には1950年の初戦から参戦し、1958年に引退するまで通算24勝の成績を上げ、1968年にジム・クラークが更新するまで個人最多勝記録であった。勝率47.1%、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない。紳士的な人柄で知られ、F1の歴代ベストドライバーという評価もなされている。

危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故に8回も遭遇しているが、そのたびに一人だけ事態を見抜いて危機を回避している。彼の現役時代はモータースポーツに危険はつきものと考えられ、レーシングドライバーの死亡率は極めて高かった。彼が長く活躍できた要因として、事故死を逃れてきたことも見逃せない。引退後も最後まで事故に遭うことなく1995年に85歳の天寿を全うし、国葬で送られた。


ブラジル出身のF1ドライバー。通称「音速の貴公子」。

1980年代から90年代を代表する名ドライバーの一人で、3度のワールドチャンピオンに輝き、その卓越したドライビングテクニックは世界中のF1ファンを魅了した。

「難易度ウルトラCどころかウルトラD」「1勝が他レースの3勝に値する」と言われるモナコGPは「元祖モナコマイスター」グラハム・ヒルや後述のシューマッハの5度を上回る6度の優勝記録を持ち、これは同GPにおける歴代最多である。

しかし、1994年のサンマリノGPで事故死。英雄の悲劇は世界中に衝撃が走り、母国ブラジルではセナの死は国葬として扱われた。


ドイツ出身で主にフェラーリに搭乗した、ファンジオ以来最高のF1ドライバー。

チャンピオン獲得回数7度、通算優勝91回、通算PP獲得68回、通算FL獲得76回という成績を持ち、通算優勝回数と通算PP回数はルイス・ハミルトンに更新されるまで長い間F1記録だった。

その速さは「湾岸戦争の原因はミハエル・シューマッハ」、「クルマが3台に見える」、「クラッシュしても1位を取れる」などという伝説が作られるほど。

正確無比にして冷徹なドライビングから「F1サイボーグ」「F1ターミネーター」などと呼ばれ、フェラーリ時代は「赤い皇帝」と呼ばれた。


ラリー

フランスのWRCドライバーで、シトロエンのドライバー。巧みなグリップ走行を使い、世界ラリー選手権(WRC)において前人未到の9連覇、通算勝数78勝、を成し遂げた。バイクスピークでも新記録を打ち立てて総合優勝を成し遂げたことがある。


「モンスター田嶋」という愛称で知られている、ダートトライアル中心に活躍するレーサー。

アジアパシフィックラリー選手権で2輪駆動部門で1996年~1999年度、2001年、2002年度でシリーズチャンピオンを獲得し、パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムで2006年度から2011年度まで6年連続で優勝を獲得している。

レーサーだけでなく、「モンスター・スポーツ」の社長として実業家としても成功している。


「日本一速い男」という異名を持つレーシングドライバーであり、その異名に恥じない活躍っぷりを見せ、悪天候でライバルたちがためらう中優勝、デイトナ24時間レースでは2位を9周引き離して優勝、R32型スカイラインGT-Rのデビューイヤーである1989年度の全日本ツーリングカーレース(JTC)では全6戦中4戦でポールポジション獲得を成し遂げている。

ちなみに1987年にホンダからF1のシートを譲られたものの、それを辞退した。


あのドリキン・土屋圭市も憧れる日本を代表するレーサーの1人。

'72年の富士GCシリーズNo1富士300キロスピードレーススーパーツーリングレースにおいて、豪雨の中全車を周回遅れにして1位を獲得している。

レーサーとしては高齢となった後も活躍し、全日本耐久選手権においては1985年から1987年まで3連覇を果たし、1989年には49歳で4度目の制覇を遂げ、'94年のル・マン24時間レースでは55歳でクラス優勝を果たし、富士スプリントカップの「レジェンドカップ」においては70代の年齢を感じさせないドライビングを見せた日本最強の高齢者ドライバー


ドリフト

D1ドライバー。史上最強のD1ドライバーであり、1000馬力超えのエンジンを搭載したマークIIをはじめとする重量級マシンを下手な軽量級マシンより速いコーナーの新入速度を武器としており、上位の常連である。2008年と2016年にはシリーズチャンピオンを決め、2012年には海外版D1であるフォーミュラ・ドリフトとフォーミュラ・ドリフト・アジアのシリーズチャンピオンを決め、特に2016年シーズンは開幕戦から3連勝を果たしてシーズン6戦中4戦優勝という圧倒的な成績を残して最終戦前にシリーズチャンピオンとなった。


オートバイ

モータースポーツ王国・イタリアの誇るオートバイレーサー。世界最高峰のバイクレースMotoGPにて史上最多となる9度のチャンピオンに輝いており、今も「史上最強のライダー」と称されている。


その他モータースポーツ

日本を代表する自動車チューニングの雑誌・OPTIONの創設者で、それだけでなく日本を代表する自動車イベントである東京オートサロン熱走!! Exciting Car ShowdownD1グランプリドリフトマッスルを創設した人物。

それらを創設した実績だけでなく「不死身の男」と呼ばれるほど死んでもおかしくないエピソードが多く、「300km/hでガードレールに接触した後も走行」、「300km/hで走行中ぶ鳥が正面グリルへ突き刺さってもそのまま走行」「乗っていたマシンが出火しても走行」の他、中でも2003年にストリームZシルバーステイツにて最高速チャレンジを行った際、時速344km/hでの大事故で左リアタイヤが破裂し、240km/hまで減速するものの、スピンしながら10回転も横転したにもかかわらず生還したというエピソードはテレビで紹介されたほどの伝説となっている


体操

ルーマニアの女子体操選手。

14歳で出場した1976年のモントリオールオリンピックでは3つの金メダルを獲得し、女子では史上初の10点満点を叩き出し、その可憐な姿から「白い妖精」と称えられた。


日本が生んだ体操界の至宝。

体操の6種目全てにおいて安定した演技を見せるオールラウンダーであり、高難易度の技を連続で成功させる技術に加え、見る者を魅了する美しい芸術性を兼ね備えている。

世界選手権の個人総合では史上最多となる6連覇、オリンピックでも個人総合で2連覇を達成するなど、体操界の絶対王者として君臨する存在であり、海外からも「キング・コウヘイ」と賞賛されている。


マインドスポーツ

稀代の天才棋士1996年将棋界初の7タイトル(竜王名人・棋聖・王位・王座・棋王・王将)を総ナメにするという前人未到のあり得ないような偉業を成し遂げ、果ては永世7冠まで達成。過去10年間における延べ70人のタイトルホルダーのうち半分の35人が彼であるという、将棋界のレジェンドというかもうである。

2022年には遂に公式戦通算1000勝を達成。

ちなみに趣味チェスでも日本ランキング1位という鬼スペックぶり。

2018年に国民栄誉賞を受賞。


21世紀生まれ初の、史上最年少でプロデビューした将棋棋士。史上5人目の中学生棋士。2017年4月、王将戦1次予選で小林裕士に勝ち、プロデビューからの連勝記録を更新した(11連勝)。その後も連勝は続き、同年6月に行われた竜王戦本戦1回戦で5組優勝の増田康宏に勝ち、神谷広志が30年近く保持していた28連勝の記録を抜き、デビューから無敗のまま歴代最多連勝記録を更新した。

また2020年には棋聖のタイトル挑戦権を獲得したことにより史上最年少タイトル挑戦の記録を更新、同年には当時の棋聖渡辺明に3勝1敗で勝利したことにより史上最年少タイトル獲得の記録も更新した。2021年には棋聖・王位叡王に加えて竜王を獲得したことにより、19歳の若さで棋界の序列一位となった。

2023年10月には王座のタイトルも獲得し、史上初の将棋タイトル八冠を達成した。


囲碁界の頂点に立つ若き棋士。中1でプロ入りし史上最年少の20歳で名人のタイトルを獲得。その後も七大タイトルを総なめにし史上初の2度の七冠と年間グランドスラムを達成している。現在でも令和三羽烏(芝野虎丸、一力遼、許家元)とよばれるトップの若手に対して互角以上に渡り合っている。

2018年に国民栄誉賞を受賞。


「最強最速」「麻雀星人」の異名をとる雀士。数え切れないほどのタイトルを獲得し、現代麻雀の最強選手。

トーク力も高く、麻雀界の顔として様々な場で発信をしている。


70〜80年代の冷戦期アメリカのチェスプレイヤー。奇行で知られるも、チェスでは圧倒的な強さを誇り、アメリカの代表としてソ連の世界王者に挑戦、米ソの代理戦争とも取れる激戦を制した。現代でも史上最強のチェスプレイヤーの一人とされる。


公営競技

日本競馬界の生ける伝説。JRA(日本中央競馬会)に所属する騎手で通算勝利数は2位の岡部幸雄の2943勝を大きく引き離し4200勝を超え、今もなお勝利を積み重ね続けている。

年間最多勝利18回、G1レースは地方・海外を含め100勝以上と、もはや更新は不可能と思えるレベルの記録を複数持っている。海外でもその名は知られており、国際的に活躍した競馬関係者を表彰するロンジンIFHA国際功労賞を日本人として初めて受賞した。


日本の競輪選手。

世界選手権個人スプリント10連覇、賞金王6回など数々の伝説を打ち立てた名選手。1980年には日本のプロスポーツ選手初の年間獲得賞金1億円を達成し、通算獲得賞金は13億円を超えている。自転車競技が盛んなヨーロッパでは日本以上の人気と評価を得ている。


自転車競技

スペインが誇る自転車レース界の「鉄人」

1985年にプロになりレイノルズチームと契約を交わし、当初はエースのデガルドに次ぐNo.2扱いだった。しかし1991年、世界最大の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」においてレース途中から不調のデガルドに代わりエースに指名されると、その年から1995年まで前人未到の5連覇を果たした。

また、1992・93年にはツール・ド・フランスとジル・デ・イタリアの両レース優勝を2年連続で達成。この記録は未だに破られていない。

ヨーロッパでは「インドゥラインに憧れて自転車レースを始めた」という人も多い。


番外

21歳にして自転車競技の世界選手権で優勝するも、精巣癌に侵され癌が脳や自転車競技者の命ともいえる肺にまで転移し生存率50%を宣告されたが過酷な治療とリハビリを乗り越え、競技に復帰後、ツール・ド・フランスを前人未到の7連覇したという日本で英語の教科書にも掲載されたというドラマチックなエピソードを持っていたロードレース選手。

後にネットスラングの使い方とは違う本来の意味でのチート行為をしていた事が発覚。7連覇記録も抹消されさらに自転車競技から永久追放処分の憂き目に遭った。美談からの不正や、まだ問題が公になっていない頃、身内の告発者やドーピングを非難する関係者に対し執拗な圧力をかけていたというランス本人の悪質さもあって社会的信用を大きく失墜させた。


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