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概要

1532年にリスボンで生まれる。

9歳でポルトガルの宮廷に仕え、16歳でイエズス会に入会し、10月に当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。また、そこで日本へ宣教に向かう直前のフランシスコ・ザビエルと出会っている。

1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。


そして、1563年、31歳で日本の横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸し、大名の大村純忠のもとで布教活動を開始する。だが、純忠とその兄弟の後藤貴明の争いにより、横瀬浦が破壊されたので平戸に近い度島に避難し、ここで病気と闘いながら難解な日本語および日本の風習を学んでいた。

1565年1月31日に京都入りを果たし、そこで他の宣教師達とともに布教活動を行った。しかし、保護を恃んだ将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、三好党らによって京都を追われ、摂津国・堺に避難した。


1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。信長が既存の仏教界のあり方に辟易していたこともあり、フロイスは信長の信頼を獲得して畿内での布教を許可され、布教活動を行い多くの信徒を得た。


その後は九州において活躍していたが、1580年に巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。

1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。


当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてキリシタン勢力が拡大すると、それに伴う仏教や神道への攻撃や、日本人の奴隷売買などに危機感を抱くようになり、1587年7月24日には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち大村領長崎に落ち着いた


1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年に長崎に戻る。 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、同年7月8日大村領長崎のコレジオにて没した。享年65歳。

フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。


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カトリック 宣教師 戦国時代

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