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レガシーワールド

れがしーわーるど

日本の元JRA競走馬。1993年のジャパンカップ優勝で史上初のGⅠを制したセン馬となった。
目次 [非表示]

プロフィール

生年月日1989年4月23日
死没日2021年8月18日
欧字表記Legacy World
性別牡→
毛色鹿毛
モガミ
ドンナリディア
母の父ジムフレンチ
生産へいはた牧場(北海道静内町[現:新ひだか町])
主戦騎手小谷内秀夫、河内洋など
戦績32戦7勝
獲得賞金4億2377万4000円

現役時代の所属厩舎は栗東・戸山為夫厩舎(ミホノブルボンと同厩)→戸山師死去後は森秀行厩舎。


父モガミはフランス生まれ。

競走馬としては重賞を勝てなかったが、引退後日本に種牡馬として輸入されると大成功。レガシーワールド以外にも、1982年の日本ダービーシリウスシンボリ、初代三冠牝馬メジロラモーヌ中山大障害春秋制覇のシンボリクリエンスなどを産駒から輩出している。


祖父リファールの産駒には、モガミの他に凱旋門賞ダンシングブレーヴや、ディープインパクトの母父アルザオなどがいる。


※本記事の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。


戦歴

3歳(1991年)

1991年、栗東・戸山為夫厩舎からデビュー。のちに、この世代のクラシック二冠馬となるミホノブルボンとは厩舎の同僚である。

当初はレースに集中できないほどの気性難を抱えており、ゲート出の悪さも相まってデビューから5連敗を重ねてしまったうえ、骨折で4歳夏まで休養を余儀なくされてしまう。

気性改善の奥の手として戸山師は去勢を決断。セン馬(騸馬)となった。


4歳(1992年)

1992年6月の未勝利戦で復帰。ところが、去勢という重大決断を下したにもかかわらず、レガシーは気性改善どころか小谷内秀夫騎手を振り落とし、競走除外となってしまう。

これを見て、戸山師(スプリンターと見られていたレガシーの同僚・ミホノブルボンを猛トレーニングで中長距離をこなせる馬に鍛え上げた事績はとみに有名である)のスパルタ育成が炸裂。

ならば走りに走って競馬を覚え込めとばかりに、体力消耗も激しい夏場に、連闘を含む3か月6戦。ヘビーローテーションの中で一気に初勝利を含む3勝を挙げた。


9月、菊花賞トライアルセントライト記念ライスシャワーを下し重賞初制覇。通常、クラシックレースのトライアルレースはセン馬は出走できないが、このセントライト記念は出走可能であった。


レガシーワールドはセン馬ゆえに菊花賞には出られなかった。

東京スポーツ杯とドンカスターステークスのオープン特別を連勝してジャパンカップに出走したが、トウカイテイオーの4着に敗れた。


有馬記念でも大逃げをかましたメジロパーマーを猛追し鼻差2着に食い込んだ。


5歳(1993年)

1993年、始動戦のアメリカジョッキークラブカップでは1番人気に推されるが、ホワイトストーンに敗れ2着。

レース後、再び骨折により長期休養。

この間に、レガシーを鍛えた戸山為夫調教師が食道癌により5月29日に死去。厩舎の解散を受けてレガシーは戸山師の教え子であり、新たに独立した森秀行厩舎へと移籍した。


10月に復帰、京都大賞典河内洋騎手との新コンビで挑むが、メジロマックイーンの前に2着。


第13回ジャパンカップ

1993年11月28日、第13回ジャパンカップ

この年は出走16頭中海外馬が9頭。特に大注目の1番人気は、この年ブリーダーズカップ・ターフ制覇などG1を5勝のコタシャーン(フランス)。さらにホワイトマズル(英)、スターオブコジーン(米)と、人気3強は海外馬で占められていた。

いっぽう日本勢は、同年ダービー馬ウイニングチケットが最上位人気(4番人気)、レガシーワールドがそれに次ぎ(6番人気)、さらにライスシャワーメジロパーマーマチカネタンホイザナイスネイチャハシルショウグンという布陣で海外勢を迎え撃った。


レースはメジロパーマーがいつも通りの逃げで引っ張る展開。レガシーワールドはその背後2番手で道中を展開。

最終直線半ばまでパーマーが逃げ粘ったが力尽き、代わってレガシーが先頭に立つ。これを差そうと追いすがるのはウイニングチケット、プラティニ(独)。しかし、外からその2頭をかわして猛然と追い込んできたのが1番人気のコタシャーンである。

残り100m、レガシーワールド耐えきれるか……!

ここで事件が起こった。

残り100mのハロン棒(残り距離を騎手が認識できるように内ラチ沿いに立てられている紅白の棒)を通過したところで、コタシャーン鞍上のケント・デザーモ騎手が走り終わったかのように騎乗姿勢を上げ手綱を緩めてしまったのである。

原因はハロン棒の誤認だった。通常、ハロン棒は1ハロン≒200mごとに立てられるものだが、当時日本の競馬場に限って、残り100m地点にもハロン棒が立てられていた。デザーモ騎手は、残り1ハロン表示の次のハロン棒だから、そこがゴールだと錯覚してしまったのである。

すぐに気づいて騎乗姿勢を取り直したものの手遅れであり、レガシーワールドが逃げ切り、コタシャーンは2着に留まった。

この勝利により、レガシーワールドはセン馬として初のG1馬となった。


もしハロン棒の誤認がなかったらコタシャーンが勝っていたのか、これについては競馬ファンの間で議論がある。レガシーの脚色は衰えておらず、結局レガシーが逃げ切ったろうという見方もある。ただ、0.1秒以下の駆け引きが勝敗を分けるレースの中、レガシーワールドと河内洋が寸分の緩みなく走り切ってGⅠを掴んだ。紛れもなく残った事実はこれのみである。(なお、残り100m地点のハロン棒は、その後JRAの全競馬場から撤去された。)


引退

その後、有馬記念トウカイテイオーの5着に終えたのち、脚部不安で1年半近く休養。1995年に復帰するが往年の走りを取り戻せず、1年で13戦して1回も連対できないまま、1996年宝塚記念の8着を最後に引退。生涯成績32戦7勝。


引退後

引退後は生まれ故郷である、北海道新ひだか町にある「へいはた牧場」にて功労馬として余生を過ごしていた。

気性はすっかり丸くなっていたが、寂しがり屋なところがあったため、相棒としてポニーがつけられ、なんと馬房まで同じであった。身だしなみの手入れや治療などで相棒と離されると、短時間でもすっかり落ち着きをなくしていたという。


パピーちゃん、ハニーちゃんという2頭の相棒ポニーに先立たれたあと、最晩年はアポロアミ(2015年生・ディープブリランテ産駒)というサラブレッド牝馬が3代目相棒としてついていた。(いくらレガシーがセン馬とはいえ、相手がサラブレッド牝馬なのでこの時ばかりは馬房は別だったそうだが。)


2007年には東京競馬場の改修工事完了イベントで、同競馬場の活躍馬として久々に府中へ輸送され競馬ファンと交流、ともにあのジャパンカップを戦ったウイニングチケットとも再会している。


その後も長寿を保ち、へいはた牧場の顔として愛されたが、2021年8月18日に老衰のため亡くなった。享年32歳。前日まで元気だった中の急死ではあったが、苦しんだ様子もなく穏やかに旅立ったという。


レガシーワールドの死去当時、GⅠ勝利最高齢存命馬の座はウイニングチケットとなった(2023年2月18日没)。

また、1989年生まれ(92世代)の存命競走馬はキョウエイボーガンだけになった。その後、2022年1月1日にキョウエイボーガンもこの世を去り、92世代の競走馬はその全てが旅立った。


エピソード

  • ヘビーローテーションの中で初勝利など成長を見せつつあった4歳の夏、3か月で6戦目となる9月13日のレースを終えた(2着)あと、中1週で重賞初挑戦となるセントライト記念に突っ込むというこれも猛ローテが課された。この時ばかりは、レガシーの生産者であるへいはた牧場の主・幣旗力氏も「(厳しいローテを課し、やっと勝てるようになってきたばかりなのに調子に乗って重賞とは)いい加減にしろ!」と戸山調教師に文句を言ったというが、戸山師は「一緒に応援に行くぞ!」と自信満々で、その通りに勝ってしまったという。
  • 下腹のぼってりとした、あまり締まりよく見えない馬体をしていたが、これは父モガミの特徴で、産駒によく見られるものだった。93年ジャパンカップのレース前、イギリス人記者がレガシー陣営に「失礼ながら、あの馬は調教がうまくいっていないのでしょうか?」と質問してきたほどだった。「いやいや、ハードなトレーニングを積んでいますとも」と答えると記者は訝し気に去っていった。(この記者はレガシーが見事レースを制した祝勝会の場に「先程は大変失礼なことを申し上げました」と律儀に謝りにきたという。)

関連タグ

競走馬 セン馬 92世代

レリックアースウマ娘プリティーダービーアニメオリジナルウマ娘として登場した、レガシーワールドに相当すると思しきウマ娘

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