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万暦帝

ばんれきてい

明朝の第14代皇帝、諱は翊鈞。廟号は神宗。諡号は範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝。
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略歴

幼少期

隆慶帝の第3子として誕生。上の2人が夭折していた事から即位する。とはいってもまだ10歳だったので、宰相の張居正の補弼を受けることになる。この張居正は明末の名宰相として名高い人物であり、複雑な税制を一本化、無駄な歳費や公共事業の削減などを行う事により400万両の余剰金を作るなど財政を好転化させ、不穏な空気が漂っていた満州情勢も李成梁の起用で落ち着かせるなどして安定していた。

この間に万暦帝は張居生により非常に厳しく教育を施され、母である皇太后もこの方針を支持した。教育はかなり厳しく、先日の講義で学んだ事を正確に暗唱できれば、「聖天子」と褒め称えられたが、間違えば激しい追求を受けたとされる。

堕落

1582年に張居正が亡くなり、親政を始めるが当の本人は全くやる気がなくなんと25年間も後宮に引きこもるというニートも真っ青な親政を行うその間は派閥争い、税の搾取といった腐敗行為内乱そしてなりよりもヌルハチの登場したにもかかわらず何もしないのはある意味すごい…そんなニート皇帝であるが豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助した。他にも寧夏の哱拝の乱・播州の楊応龍の乱の鎮圧などによって、軍制の腐敗と相まって財政はさらに悪化してしまい明の衰退を極めた、1620年に崩御、享年56歳。

明朝屈指の在位を誇り、趣味などの使いたい事には国庫から資金を捻出。そして政務方面では金をケチり、重臣の欠員の補充すらしなかった(ある時期は大臣が1人しかいなかった事もあったという)ため、国家統制は全く取れていなかった。これらの要因により明朝の体制はゆっくりと、そして確実に痛めつけられる事になった。

結果、明朝滅亡の火種は万暦帝の死後に急速に芽吹いたため、「万暦において明が滅びる」と酷評され後世にも汚名を残すことになってしまう(実際の最後の皇帝である崇禎帝は若くして滅びゆく王朝を建て直そうと17年間奮闘した末に、李自成によって首都を落とされて自殺に追い込まれた。この経緯から後世では同情的に見られる傾向が強い)。

余談

このように史上最悪の暗君であるのには変わりはないが彼の幼少期には聡明利発で将来を期待されていた。これをみた張居生は相当なスパルタ教育をしており期待に応えたい気持ちで過ごしてたのであろう…そんな張居生にはその強引なやり方で敵対者が多かったようである、そんな教育係が死んでからどこか燃え尽き症候群のようにどこかぽっかり空いたような感じがしてままならない、何を目標にしたいのか自暴自棄になっていたのかは本人のみぞ知るところであるが、もはや人生どうでもよかったと思ってもいいのであろう…彼の生涯は今日の教育においてどこか注意しなければならないところである…彼みたいにならないために




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