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内藤昌豊

ないとうまさとよ

戦国時代の武将で、武田家の家臣。「武田四名臣」の一人であり、官位から「内藤修理亮(しゅうりのすけ)」の名でも知られている。尚、後世には「内藤昌豊」の名で伝わるが、『高崎市史』によれば「内藤昌秀」が正しいという説が有力である。
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概要

生年……1522年(大永2年)
没年……1575年6月29日(天正3年5月21日)

出奔~流浪

大永2年(1522年)、甲斐の守護大名である武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれ、初めは「工藤祐長」と名乗った(此処からは前名の「祐長」で記載。因みに昌豊の出身である「工藤氏」は藤原南家・藤原為憲を祖とする一族であるが、後三条源氏の出である「天野工藤氏」の一族という説もある)。しかし父・虎豊が今川氏の内紛である「花倉の乱」で今川家の嫡子である栴岳承芳(後の今川義元)に敗れ、甲斐に逃れてきた今川家庶子・玄広恵探側の者が信虎を頼って落ち延びて来たのを、信虎は玄広恵探側の者全員に切腹を命じた為、それを虎豊が強く諌めたところ、虎豊は信虎の勘気に触れて誅殺されたという(但し、信虎が駿河に侵攻しようとした事を諌めた為に誅殺されたという説もある)。

その為祐長は一族を守るべく難を逃れて兄・工藤昌祐と共に武田家から出奔し、諸国を流浪、特に関東地方の辺りを流浪していたと言われている。

信虎が嫡男の武田晴信によって追放された後の天文15年(1546年)、晴信が祐長が関東で流浪していた事を知ると祐長を召還し、祐長は晴信に工藤氏の旧領と家督を継ぐことを許された。そのうえ父・虎豊の罪を謝罪された上、それまでの流浪した苦労を労う為の金子も与えられたという。と同時に50騎持の侍大将に抜擢された。そしてここから亡父の一字を取り、「祐長」から「昌豊」(以後、この名で記載)と名を改めた。

武田信玄に仕えていた頃

武田信玄(ここから「信玄」と記載)に仕えてからは、信濃平定戦に参加し、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍。永禄5年(1562年)から始まった上野侵攻では小幡図書介景純が守る国峰城を、夜半に軍勢を城下まで進め、突然松明や提灯の灯して鬨の声を上げさせ、城主・景純を「武田の大軍が迫って来た」と思い込ませ、驚かせて逃走させるという意表を突いた作戦でもって味方の死傷者を出さずして攻略するという功を挙げ、信玄から大いに賞賛されている。

1566年(永禄9年)に上野・箕輪城を攻略した後は信玄から300騎持の大将に加増されたうえに箕輪城代に任じられ、上野方面経営の指揮を執った(但し、最近の研究によると昌豊は永禄12年(1569年)に起こった三増峠の戦いの後で、その戦いで戦没した浅利信種の後継として元亀元年(1570年)頃に箕輪城代に任じられたという説もある)。

永禄11年(1568年)、これまでの軍功を賞されて、断絶していた武田家譜代の名門・甲斐内藤家の名跡を継ぐことを許されて「内藤」姓に改め、同時に「修理亮」を名乗った(これも他説として時期が元亀元年(1570年)であると言われている)。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて自軍の補給を支える等、華々しい戦功名だけでなく、地味だが重要な役目も的確にこなした。

その後、厩橋城主の北条高広と共に、武田・上杉・北条による三国同盟の締結を画策し、その促進を跡部勝資に要請するなど尽力するが、最終的に失敗している。

元亀2年(1571年)、北条氏康の死去によって後を継いだ北条氏政が和睦を申し入れてきた際には、信玄の全権名代として交渉に当たり、これを取り纏めている。

元亀3年(1572年)、信玄の西上作戦にも参加し、三方ヶ原の戦いでは先陣七手の将として山県昌景小幡昌盛の諸隊と共に采配を振り、徳川家康の軍勢が押し迫ってきた所を左翼を攻めて高天神城主の小笠原長忠と、徳川軍きっての猛将として知られる本多忠勝の軍勢を撃破して武田軍に大勝利を齎した。

武田勝頼に仕える~最期

元亀4年(1573年)4月に信玄が逝去した後は、その子の武田勝頼に仕えた。翌元亀5年(1574年)の高天神城の戦いでは小笠原長忠が守る、難攻不落の高天神城の攻略に武田軍は大いに苦しんだものの結果的には落城させる事に貢献。しかし勝頼からは信玄の頃から仕える重臣と同じく、疎まれていたという。

そして1576年(天正3年)6月の長篠の戦いでは織田信長自らが率いる織田軍3万が長篠に到着したという一報を受け、武田家の重臣馬場信春、山県昌景と共に戦況不利を悟って勝頼に撤退を進言、更には「長期戦でもって敵の疲労や兵糧の欠乏を来たすのを待ち、そこを突いて攻めるべき」と提案したが、それらが勝頼に受け入れられる事は無かった。結果、この戦いで山県昌景、馬場信春、原昌胤土屋昌次、真田信綱、真田昌輝(いずれも真田昌幸の実兄)といった武田家の重臣や名将は戦場の露と消え、昌豊自身も1500の軍勢を率いて出撃して第3の柵まで突破したものの犠牲者の数が膨大になったところを退却。設楽原での武田勝頼の軍勢の旗印が撤退して行くのを見届けた後、昌豊は残兵と共に押し寄せる織田・徳川の大軍と戦い、全身に矢の雨を受けて針鼠の様になったという、壮絶な最期を遂げたといわれる。享年54。

その後の内藤氏

昌豊の死後、養子である内藤昌月(「まさあき」と読む。実父は武田家の重臣の一人である保科正俊だが、養子ではなく昌豊の実子という説もある)が後を継ぎ、武田家滅亡後は織田信長、北条氏直と代わる代わる仕え、子孫は会津藩主の保科氏(会津松平家)に仕え現在に至っている。

また昌豊の兄・工藤昌祐は上野・箕輪城番を務めていたが、武田家の滅亡後は徳川家康に仕え、徳川四奉行の一人として甲斐の統治に功績を挙げている。

人物・逸話

武略に長け、信玄の実弟である武田信繁と共に武田の代表的な副将格として評された。『甲陽軍鑑』にも、山県昌景が昌豊の事を「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記している。

昌豊は信玄の代表的な戦争に全て参加し、常に武功を立てていたが、信玄からは一度として感状を貰う事が無かった。この事について「甲陽軍鑑」で信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあしかるべし(訳:内藤昌豊ほどの武将となれば、常人以上の働きを見せる事は当たり前である)」と評して敢えて一通の感状も出さなかったという。一方の昌豊も、「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなどを気にもかけなかったという。これは信玄と昌豊の信頼関係の厚さを示すものである。

戦国時代の武将としては珍しく、思慮深く温厚な性格の持ち主で、個人の名誉や功名といった目先の事に拘らず、常に全体を視野に入れて集団統制に力を尽くし、知略を用いて戦に臨んだと言う。「合戦に臨み、大将の采配に従ってこそ自分を勝利に導くものである。いたずらに武将の首級(みしるし)だけを取ろうとする個人の戦いは味方を苦戦に陥れるのみである」という発言も後世に伝わっている。故に上記の「合戦は~」の台詞は昌豊の性格を見事にあらわしていると言えよう。

三増峠の戦いの時、信玄から「小荷駄奉行に務めよ」と命じられた際、その前の小田原攻めで先陣を切っていた昌豊は「殿(しんがり)は兎も角、小荷駄奉行は不名誉でございます」と反論する。すると信玄は「以前に上杉政虎の軍勢が(小田原城の戦いで)小田原から引き上げる際、小荷駄部隊を崩されて敗走したのだ。故に小荷駄奉行は重要な任務であり、本来なら信玄自らが務めたい所なのだ」と諭すと、一変して昌豊は嬉々として引き受けたと言う。

戦国大戦においての内藤昌豊

内藤 オブ ファイアー


CV:浜田賢二

武田副将として無様な姿は見せられんのでな

セガのTCAG(トレーディングカードアーケードゲーム)である「戦国大戦」に登場、Pixivのイラストの大半はそれに準じたものである。

コスト2.5、武力8、統率9と非常にバランスが取れたスペックであるが、地味ながら忠実に主家に役割を果たしたという史実を鑑みたのか、特技が無いというのが欠点(ロケテスト時には「制圧」を持っていたのだが……)。

所持計略は「火門の陣(かもんのじん)」で、武力上昇値が+5、自身の後方に横幅3部隊程度の正方形の陣を展開する。 必要士気は5と他の強化陣形や采配と比べると比較的軽く効果の高さが売りの計略ではある。

その反面、効果時間が他の強化陣形や采配と比べると比較的短く、かなり戦線を上げないと攻めきれず、また昌豊自身が陣の先頭に位置する為、下手をすると史実同様に昌豊が鉄砲や矢の標的になってしまい、戦線を大きく崩されかねない事になるので注意。また、まとまって出陣する傾向もある為、ダメージ計略や妨害計略にも注意を払う必要がある。

後方に広く展開する為、弓や鉄砲の後方支援には打ってつけであり、また勢力問わず武力上昇の恩恵を受ける為、鉄砲が売りの織田家や雑賀衆、弓が売りの今川家と組むという手もある。

関連項目

武田信玄 武田勝頼 武田信繁 高坂昌信 馬場信春 山県昌景 戦国大戦

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