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前田宗清

まえだむねきよ

戦国時代の武将で、阿波・讃岐を支配していた戦国大名・十河存保の家臣。 武勇と知略に優れ、忍者を率いて長宗我部軍と戦いを繰り広げた知られざる豪傑。
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概要


出身地…讃岐国(香川県


生没年…不明~1583年(?)


通名 …甚之丞


生涯


讃岐前田氏は讃岐山田郡の領主・十河家の一族で、三代に渡って十河家に仕えた。

宗清は三代目当主にあたる。

山田郡宮處郷(現在の高松市前田西町)にある前田城を居城とした。

宗清の正妻は、主君である十河存保の妹とされる。

十河存保に従って長宗我部軍と戦い、獅子奮迅の活躍を見せた。



第一次十河城合戦での活躍


天正十年(1582年)、長宗我部元親は次男の香川親和を総大将とした一万の大軍で宿敵十河存保の居城・十河城を包囲する。

対する十河城には城代家老の十河存之が一千の軍勢と共に籠城していた。

宗清は十河家の一族ということもあり、十河城防衛の中心人物としてその軍才を発揮する。

十河城は要害であり、鉄砲や大筒を多数備えていた為に力攻めでの落城は難しい。

実際の攻城戦も長期化し、長宗我部軍の兵糧の補給も月日を追うごとに難しくなってきた。

宗清はこの状況を利用して夜な夜な忍者部隊を率いては長宗我部軍の陣に襲撃を仕掛け、ただでさえ心もとない兵糧や軍馬、旗指物を強奪し、陣に放火していった。

敵の兵糧を奪うことで自軍の兵糧の確保ができ、なおかつ敵の士気を下げるという一石二鳥の戦術をとったのである。

この忍者を用いた夜討ち戦法は、北条氏に仕えていた風魔党のやり方と非常によく似ている。

いかに大軍で包囲しているとはいえ長宗我部軍の兵たちは、空腹なうえに眠れぬ夜を過ごすという過酷な戦役を強いられたのである。

十河城での苦戦を受けて長宗我部元親はさらに軍勢を投入し、一時は三万超の大軍が十河城を包囲していた。

この時、宗清の居城・前田城は落城したといわれる。

だが、居城が落城しても宗清は折れず、三万の大軍を相手に忍者戦術で翻弄し続けた。

宗清を中心とした十河城方の防戦と冬の到来によって長宗我部軍本隊は一旦土佐に引き上げざるを得なくなり、長宗我部元親の四国制覇は遅れることとなったのである。



第二次十河城合戦での活躍


第一次十河城合戦では持ちこたえた十河城だったが、合戦による被害と兵糧の減少によって徐々に籠城戦も厳しくなっていった。

さらに冬が過ぎると再び長宗我部元親が大軍を率いて来襲し、今度こそ落城させんものとして十河城を包囲したのである。

この状況に宗清は、忍者部隊を率いて周辺の敵城や館を次々と襲撃して兵糧の確保に努めた。

それでもなお状況は好転せず、十河城はジリジリと追い詰められていった。

この苦境を打開すべく、城代・十河存之は極秘の作戦を宗清に提言した。

その作戦とは、これまで続けていた夜討ちを一定期間中止して敵の油断を誘い、警戒が緩まった長宗我部軍本陣を忍者部隊で急襲して総大将を討ち取る、というものであった。

この時の十河城攻めの総大将は元親の次男の香川親和が務めていた。

この作戦の目標は香川親和である。

この当時の長宗我部軍の陣容について明確な記録は残されていないが、前後の記録から考察すれば軍の規模は少なくとも10000人は超えていたはずである。

これに対し、宗清率いる忍者部隊の数は、わずか50人であった。


そして作戦は実行された。


宗清は忍者部隊を三手に分けると、夜の闇に紛れて長宗我部軍の本陣に潜入し、

自ら陣頭指揮を執って本陣に斬り込んだのである。

この襲撃で長宗我部軍の軍内には大きな動揺が走ったが、香川親和は難を逃れていた。

本陣を襲撃した50人の忍者に1人の死者もいなかったが、宗清の決死の作戦は失敗に終わった。

作戦後、宗清は城代・十河存之に長宗我部軍との和睦・開城を進言している。


この件の顛末については「謀は人知にあり、死生は人運にあり」を参照のこと




人物(エピソードなど)


十河城攻防戦での戦いぶりから「泣く子も黙る甚之丞」と呼ばれた。

また、異常なまでの優れた身体能力の持ち主で、高さ六尺の塀を六種類の武器を持ちながら飛び越えたという伝承が残る。さらに弓術においては無類の強さだったという。

少数精鋭の忍者を手足のように扱ったこと、そして主家の行く末を案じて城代に開城を進言するなど、統率力と先見力にも優れていたと言えるだろう。

敵からすればまさに鬼のような武将だっただろうが、味方からすれば非常に頼もしい武将だったに違いない。

宗清が率いていた「忍者部隊」は前述の関東の風魔党に似ており、諜報活動よりも略奪や夜襲を得意とした身軽な集団だった。その為、他の文献では「野盗衆」や「盗賊衆」と呼ばれている。


「謀は人知にあり、死生は人運にあり」


第二次十河城合戦での決死の作戦が終わった後に宗清が十河存之に語った言葉。

要約すれば、「人がいかなる策を巡らそうとも、生き死にはその時の運次第である。」

という意味。

このすぐ後に「この度、総大将を討ち取れなかったのは長宗我部家の運が強かったためである。

今回の得失( 総大将は討ち取れなかったが、三好の実力は示せたこと )をもって降参し、

三好家の運を伸ばすのが知恵である。」という言葉が続く。

無為に籠城して全滅するよりも、生き延びて主家の存続を図ることこそが肝要であると諭したのだ。


天正十二年(1583年)6月11日。十河城は開城し、十河存之は討死することなく堺に脱出。

十河存保も虎丸城から小豆島経由で大阪に逃れ、十河家は滅亡の危機を脱した。


そして十河城開城から約二年後、宗清の主君・十河存保は山田郡二万石の領主として返り咲く。

しかし、領民に歓呼して迎えられた主君の姿を宗清が見ることはなかった。

この顛末は、香西成資が著した歴史書「南海治乱記」に詳しく記されている。




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