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南満州鉄道

みなみまんしゅうてつどう

かつて満州(満洲、現在の中国東北部)に存在した日本の鉄道事業者。略称・通称は「満鉄」。正式な表記は「南満洲鉄道」。
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社名のとおり満州南部における鉄道運営を主事業としていたが、鉄道沿線に設定された租借地・鉄道附属地の行政など幅広い事業を行った。満州国成立後には、同国鉄線の運行受託も行っている。


 なお、この会社名にある「南満州」とは内満州のこと(ちなみに北満州(外満州)も存在し、これはからロシア帝国に割譲された部分を指す)である。


 一般には大連〜哈爾浜間の特急あじあ」で知られている。


概要

 この会社は明治39(1906)年に設立された。法人格は株式会社であるが、設立は「南満洲鉄道株式会社ニ関スル件」として勅令で行われており、日本政府が株式を保有する特殊会社であった。


 本社は関東州大連市東公園町30番地。支社は日本では東京に東京支社(東京府東京市赤坂区葵町2番地→麹町区隼町13番地)、満州国の成立後は首都・新京に新京支社(新京特別市中央通)があった。他に国鉄線の運行事務局として奉天市に「鉄路総局」「鉄道総局」が設置されていた。

 ただし昭和18年以降は戦時体制に移行し、鉄道総局・新京支社が廃止、旧新京支社にほぼ全ての本社機能が移されて「新京本部」と改称され、終戦を迎えた。


 社紋はレールの断面に"Manchuria"(満州の英語表記)の"M"を重ねたもので、「満鉄マーク」と呼ばれる。これは俗称ではなく正式名である。

業務等

 この会社は満州国全土の鉄道を経営していたが、実際に会社として所有していた路線は大連〜新京・安東〜奉天・渾河〜撫順など1449.1キロにすぎず、他は全て満州国の国鉄線であった。


 本業は鉄道会社であったが、後述する通り「鉄道附属地」の名目で租借した沿線の市街地の行政やインフラストラクチャー事業のように、役所に近い事業も行った。他にも撫順市における炭鉱事業などその事業内容は多彩であった。


 また日本政府の命により満州での各種利権の確保や、鉄道建設の請負を行うこともあり、融資や投資などの拓殖事業も仕事のうちであった。


沿革

成立

 元々南満州鉄道の路線はロシアが南下政策の一環として、三国干渉(日清戦争にて取得した遼東半島をに返還するようにフランスドイツ帝国およびロシア帝国が行った勧告)の見返りとして敷設権を奪取した「東清鉄道」の一部であった。東清鉄道には「鉄道附属地」として租借地が線状に付属しており、鉄道だけでなく都市の一部までも租借して好き勝手が出来るという、まさに所有者となったロシアにとっては非常においしい路線であった。


 ところが日露戦争の講和乗客(ポーツマス条約)にて東清鉄道の長春以南、所謂「南満州支線(南満支線)」大日本帝国に割譲されることになり、そのうまみは日本が受け継ぐことになった。現地ではこれに大日本帝国陸軍の敷設した野戦鉄道を加えて一路線網とし、陸軍の一部署である「野戦鉄道提理部」が運行を行っていた。

 しかし恒久的な運営会社が必要であるとして、彼らを復員させる代わりに会社としての南満州鉄道東京で設立され、大連に移転して明治40(1907)年4月1日より業務を開始した。


 初代総裁後藤新平は自ら辣腕を発揮しただけでなく、積極的に若手を重役に起用してその才能を開花させ、鉄道事業と植民地行政という難しい仕事を一気に両立させることを可能とした。

また後藤は満鉄の能力の高さを評価し標準軌鉄道を推進する立場になった。元々は後藤の本業は医師であり、科学的に評価してのことである。


 だが一方、当時は満州の価値を日本政府が計りかねていただけなく、民間からも「過度の期待は禁物」と言われるなど、その評判は冷ややかであった。夏目漱石も「満鉄って何をするんだい」と2代目総裁の中村是公に訊ねてあきれられたという話を書いているくらいであり、国民に対する理解もあまり得られていなかった。


 ロシア支配下の頃の東清鉄道は無論5ft(1524mm)軌間であったが、日露戦争時の野戦鉄道提理部において日本国内規格の車両を用いるため、3’6”の日本狭軌に改軌されていた。

 当初より鹵獲・敵方利用を防ぐため橋など重要設備の一部は破壊が想定され、日本側も5ft車は最初から当てにしていなかった。

 この5ft→3’6”の改軌は単純に片方のレールを寄せただけの方式であったので、他の清領内の鉄道と同じ標準軌への変更は大部分が再度寄せ直すだけ・・・の筈が冬場に余白分を薪として勝手に切り落とされたところが多々あり、満鉄の手による標準軌化では手始めに枕木の再交換が必要となってしまった。

 改軌の実行期間中は港から内陸へを標準軌、内陸から港へを狭軌の列車で片方向輸送して運行と車両取替を両立した。その後狭軌車は日本内地へ転用された。


 改軌に際し誂えられた標準軌車両は気候風土からほぼ純アメリカ形である(異なるのは左側通行前提なことくらい)。元々のロシア車は当時はまだヨーロッパ形の流儀が強く残っている時期であり、改軌で撤退した3’6”狭軌車両は輸入元の関係で英国形・米国形が混在していた。

 日本国内の車両より二回りは大きいのが標準であるが、これでもなお後年のの米本国1級鉄道の車両より小さく(ビッグボーイなどとかでなく、標準的なミカド・バークシャーなどとの比で)、後述のパシナですらUSRA(合衆国鉄道管理局:戦時に米国内の各私鉄の運行業務を強制的に一元管理した官庁)のライト・パシフィック相当にとどまる。

 また酷寒地を走行するため、蒸気機関車には日本で一般的に付いていた惰行運転用のバイパス弁はない。使うとシリンダーが冷えてむしろ不具合なためで、代わりに極僅かにシリンダーに給気していた。


政党介入と日中利権競争

 さらに悪いことに、大正時代に入ると政党が南満州鉄道の幹部ポストを自分たちの議会における勢力争いに利用するようになった。犯人は原敬で、自分の属する立憲政友会の勢力拡大のため、社内をぐちゃぐちゃにかき乱したとされる(「平民宰相」と呼ばれるが意外と黒い人であったらしい)。社員は理事以下これに一丸となって対抗、自分の職を賭けてまで戦ったとされる。

 なおこの政党介入はついに汚職事件という形で政党側が自滅したことで終わりを告げるが、のちに「満鉄魂」と呼ばれる社員の団結力の基礎を築くこととなった。


 一方そのような内憂だけでなく、外患も現れた。当時中国では列強に奪われた利権を取り返す運動「利権回収運動」が始まっており、満州でも鉄道利権を中心にすきあらば利権を取り戻そうという動きがあったのである。特に満州に根を張っていた奉天軍閥(中国大陸においては、各々の地域に軍事力を背景に、地方に割拠する集団がその地方の権力を握っていた)は、日本と距離を露骨に置き始め、自国資本の鉄道を敷こうとし始めていた。


 この離反にじれた関東軍は軍閥の長・張作霖を昭和3(1928)年に爆殺して恫喝を行ったが逆効果となり、息子の張学良は中央政府と合流して鉄道路線の並行路線を計画、日本を追い出せ満鉄くそ食らえと対決姿勢を見せ始めた。


 張学良の並行路線計画はこの会社に影響を与え、実際に収入が目減りするという事態になったのである。


満州事変と満州国成立

 これについに堪忍袋の緒が切れたのが関東軍であった。彼らは昭和6(1931)年に自作自演で南満州鉄道の線路を爆破、軍閥のしわざと因縁をつけて軍閥をたたき潰しにかかった。世に言う満州事変である。


 本国である大日本帝国のいうことを一切聞かず、とにかく敵を殲滅するだけのバーサーカーになった関東軍は、その年のうちに奉天軍閥を潰滅させて満州を占領。直接植民地にすると日本政府からも世界からも糺弾されるからと、朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を呼び寄せ、昭和7(1932)年3月1日に「満州国」を樹立させた。


 このことは、満州における南満州鉄道の地位も変えた。それまでは異邦人であった同社が、満州国成立により同国にとって必要不可欠な鉄道会社となったのである。


さらに翌昭和8(1933)年2月9日、満州国交通部は旧奉天軍閥系・日本系の私鉄を「満州国有鉄道」として国有化、その運営を南満州鉄道に委託した。3月1日には運行事務所として「鉄路総局」が設置され、国鉄運営会社として不動の地位を手に入れることになった。


 しかし良いことばかりではなく、この経営委託に際し関東軍との間で紛争が発生した。元々鉄道利権に目のくらんでいた関東軍は、南満州鉄道に対する自分たちの統制権を認めさせる協約を結ばせた。また路線計画にもくちばしをはさみ、利益の上がらない軍事路線を敷かせるなどの暴挙を行った。

 自分たちに有利になるように南満州鉄道をだしに使う関東軍に、社員は怒り会社自身も不快感を示した。これ以降、関東軍と満鉄の関係は急速に冷え込んでいくことになる。


特急「あじあ」と一万キロ突破

 そのようなことがありながらも、南満州鉄道の事業は好調を極めるようになり、最初の頃からは想像も出来ないほどの発展を遂げるようになっていった。


 その象徴が昭和9(1934)年から走り出した特別急行列車あじあ」号である。最高時速130キロ、表定速度82キロ余というその速度は当時としては驚くべき「超特急」であり、小学校の教科書にまで登場するほど有名となった。牽引機のパシナ形機関車は、数ある車輛の中でも現在も人気の高い車輛である。


 これ以外にも朝鮮朝鮮総督府鉄道からの直通急行や、中華民国に設立された子会社・華北交通に乗り入れる急行列車などを数多く運転し、日本・朝鮮・満州・中国を結ぶ経路が確立され、南満州鉄道は国際的な鉄道会社となっていった。


 さらにこれを下支えした車輛技術も日本の鉄道省以上と言われるほどで、戦後同社の技術者の中から優れた鉄道技術者が何人も生まれた。


 鉄道建設も着々と進み、昭和10(1935)年には北満州でがんばっていた東清鉄道の末裔・北満鉄路を根負けさせて買収する快挙を成し遂げ、「あじあ」を哈爾浜まで到達させた。そして昭和14(1939)年に1万キロを達成、満州中が祝賀ムードとなった。


 組織面では昭和11(1936)年に鉄路総局と本体である鉄道部を合併させて「鉄道総局」が発足しているほか、昭和12(1937)年には鉄道附属地が満州国の自立の邪魔であるとして撤廃されることになり、長く続けて来た附属地行政の業務を手放した。


 しかし第二次世界大戦が始まると否応なく影響は満州にも押し寄せ、南満州鉄道では昭和18(1943)年に戦時体制に移行。これにより鉄道総局は廃止され、本社機能を新京支社を廃止してそこに移転し「新京本部」とすることになった。


終戦と清算

 昭和20(1945)年8月9日未明、満州に激震が走った。日ソ中立条約を結んでいたはずのソビエト連邦が条約を一方的に破棄しいきなり参戦、国境を越えて満州に侵攻を開始したのである(対日ソ連参戦)。


 関東軍は兵力の空洞化により、民間人を犠牲にするような戦い方しかできなかったため役に立たず、満州国政府は皇帝ごと都落ち。しかし終戦が知らされると腹を決め、8月18日に朝満国境で退位を宣言、ここに満州国は崩壊した。


 これによって自動的に事後処理の役目は南満州鉄道にお鉢が回ってしまった。ソ連軍は8月20日に本部を接収し、9月22日には中ソ合弁の新会社「中国長春鉄路」の成立が宣言された。社員たちは当座の人員確保と業務受け継ぎのために残留することになり、2年近く現地で働くこととなった。


 一方、日本ではGHQにより南満州鉄道は昭和20年9月30日にさかのぼって解散とされ、社員も12月31日に解雇とされたが、この情報は伝えられることはなかった。


 その後、南満州鉄道は昭和22(1947)年3月10日に施行された勅令・閉鎖機関令に基づいて、GHQと日本政府の設けた閉鎖機関整理委員会により特殊清算されることとなった。清算対象は日本国内の財産のみ(満州国内の資産は接収済みのため)であったが、国内の資産が残っていたため時間がかかり、清算が結了したのは昭和32(1957)年3月30日のことであった。


関連タグ

満鉄 満州 満州国 あじあ


かつて南満州鉄道線の優等列車に用いられ、戦後国鉄特急新幹線に用いられた愛称


のぞみ ひかり はと あさひ

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