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原敬

はらたかし

(安政3年2月9日~大正10年11月4日)第19代内閣総理大臣。正二位大勲位。
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概要

日本の政治家。郵便報知新聞記者を経て外交官、のちに農商務官僚となる。政界に進出後は利益配分型の政治手法で日本に政党政治を定着させた。

 

爵位を持たない家の出で、生涯爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と称されたが、実は彼は家老の家系なので、爵位は無いが家柄的にはそれなりの地位であった。


経歴

安政3年(西暦1856年)2月9日、盛岡藩士・原直記の次男として生まれた。

12歳の頃に藩校修文所で学問を修めた。


明治4年、16歳の時に東京に遊学したが、学資が続かず帰郷し、江幡梧楼の書生となる。明治8年、20歳の時に再び上京し、司法省(現法務省)の法律学校に学んだ。

明治12年に『郵便報知新聞』の政治記者となり、同時に『山梨峡中日報』の社説を担当。さらに大阪にて創刊された『大東日報』の主筆になるなど新聞界で活躍する。


明治17年、事大党の変が起きた時、外務卿井上馨全権に付属して認められるところがあり、抜擢されて外務省御用掛となり、天津領事に任ぜられた。

伊藤博文と清国の李鴻章との間に天津条約が結ばれようとした時、原の技量が認められ、そのため蜂須賀茂韶仏公使の赴任にあたっては一等書記官としてこれに随行するなど、外交面での手腕が評価された。その後、井上馨農商務大臣の秘書官、陸奥宗光農商務大臣の秘書官を歴任、第二次伊藤博文内閣の時には、外務省通商局長を経て外務次官となる。

更に明治29年、第二次松方正義内閣の成立にあたっては自ら朝鮮駐箚大使として赴き活躍した。


陸奥の死去と共に退官し、以後しばらく『大阪毎日新聞』の編集総務、社長として在野生活を送ったが、明治33年に伊藤博文が立憲政友会を創立すると幹事長に推され、第四次伊藤内閣の逓信大臣となった。

明治35年には衆議院議員となり、以後予算委員長、院内総務等を歴任。明治39年、西園寺公望内閣の内務大臣となったが、明治41年には一時下野、欧米の視察旅行を行った。

明治44年には第二次西園寺内閣で再び内務大臣となり、鉄道院総裁を兼ね、山県有朋を中心とする藩閥勢力に対抗して、優れた政治力によって党内の指導権を握った。


更に大正2年、山本権兵衛内閣の内務大臣となったが、シーメンス事件のため内閣は倒れ、辞任。大正3年、西園寺を継いで政友会総裁となり、大正7年には米騒動で寺内正毅内閣が総辞職した後を受けて組閣し、平民宰相と呼ばれるに至った。大正9年、第四十二帝国議会に普通選挙法案が提出されると議会を解散し、総選挙で政友会が圧倒的勝利を収め、三年にわたり安定政権を維持した。


原の目指すところは「中流以上」の民意を尊重するという点にあったため、一方では元老軍閥等の権力側、他方では普通選挙を要求する民衆運動に対する両面作戦で進む。しかしブルジョアや地主の利益に資するところが多く、党勢力拡張に無理があったため、次第に民意の反感を買うことに。

そして大正10年11月4日、東京駅で駅職員の中岡艮一により暗殺された(享年66)。

中岡は上司による「昔の侍のように詰め腹を切るべきだ」という言葉から、腹を切る→原を切る事を思い付いたという。

その死に関しては多くの謎があり、犯人である中岡も裁判で無期懲役が宣告されたものの、恩赦で10年後の昭和9年に釈放されている(半世紀以上先の昭和55年まで存命だった)ため、右翼団体による陰謀説などがささやかれている。


政治手法

原は政友会の拡大のためには手段を選ばなかったといわれ、選挙権を拡大することにも消極的であった。「我田引鉄」といわれる利益誘導型政治手法は、同様の政治手法を採った昭和の田中角栄とよく比較される。


多数を頼んで力で押しまくるやり方に、人々は「西にレーニンあり、東に原敬あり」と評したという。

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