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日本の元プロ野球選手(捕手)。現役から選手兼任監督時代までヤクルトスワローズ及び東京ヤクルトスワローズに所属。選手初期に野村克也の薫陶を受け、守備と打席の両方でチームの要として活躍。


見た目はのび太、頭脳は出木杉、中身はジャイアン

その名は名キャッチャー古田!

オッケーイ!な概要

兵庫県出身の元プロ野球選手(捕手)。


川西明峰高校立命館大学トヨタ自動車を経て、1990年ヤクルトスワローズに入団。


中学時代は実力を妬んだ上級生のいじめにより退部・転校しており、高校3年間は無名、大学は一般入試組と、少なくとも高校卒業までは野球エリートのコースを歩んでいるとは言い難かった。


プロ2年目の1991年には、打率3割4分で首位打者に輝く。また、労働組合日本プロ野球選手会会長を務め、2004年のプロ野球再編問題ではプロ野球史上初のストライキを行った。


2005年に2000本安打を達成。2006年選手兼監督として監督に就任。同年東京ヤクルトスワローズに改称し、ファンサービスにも大きく力を注いだ。2007年チームの最下位の責任をとり、監督を辞任、同時に現役も引退した。夫人は元フジテレビアナウンサーの中井美穂


引退後は長らく解説者及び評論家として活動。輝かしい実績を残したレジェンドだが、未だにユニフォームに袖を通していない。これは解説者業の方が気楽で本人がそこまで監督就任に乗り気ではない、兼任監督時代の不甲斐ない成績で指導者として向いてないと考えられている、選手会長として球団経営側と闘い、親会社との関係が悪化した等言われている。


真偽は不明だが親会社との関係は徐々に改善されているようで、OB戦をはじめとする球団主催のイベントに参加したり、後述の臨時コーチとしてキャンプに参加する等の活動も行っている。


現役時代にバッテリーを組んでいた後輩の高津臣吾が1軍監督に就任すると、2021年の春季キャンプに臨時コーチとして参加。久しぶりの「指導者・古田」の姿を披露した。臨時コーチ就任にあたっては、高津が非公式ではあるが直接古田にオファーしたと両者が語っている。


翌2022年も臨時コーチとして春季キャンプに参加。このシーズンより背番号を「27」に変更した中村悠平から背番号を継承したい旨の話があった事を明かしている。2023年も3年連続で臨時コーチとして参加。また2月17日からアリゾナ・ダイヤモンドバックスの臨時コーチを務めている。メジャーリーグ未経験者が臨時コーチに就任する事は異例だが、2023年時点でのダイヤモンドバックスの監督は2000年にヤクルトでプレーしたトーリ・ロブロであり、ロブロ監督からの依頼があった為である。


プロ現役選手としては優秀な成績を持ちながら一貫してスワローズに在籍し続けたこと、それまで阪神タイガースとともに最下位争いが定位置だったスワローズを野村克也監督とともに日本一にまで導いたことからミスタースワローズの1人に挙げられる。


野村との子弟コンビは有名であり、野村は監督時代古田をほとんど褒めることはなくむしろその強気な性格を買って叱られ役をやらせていた。しかし内心では非常に買っており、兼任監督が現代のプロ野球では非常に困難な役割である事に理解を示したり(野村自身南海ホークスで兼任監督を務めた事があり、当時と現在では野球のスタイルが違う事を理由としていた。古田兼任監督誕生前の最後の兼任監督が野村)、晩年にも「あいつが監督をやらないなんてもったいない」と正統後継者とみなしていた節がある。また、テレビ番組での野村の生前最後の古田との対談では、古田に「声を大にして言いたいのはね、監督やれ!」と声をかけた。


背番号

背番号使用年所属チーム備考
271990年〜2005年ヤクルトスワローズ選手
272006年〜2007年東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督
272023年アリゾナ・ダイヤモンドバックス臨時コーチ

古田引退後、背番号「27」は球団又は古田が相応しいと推薦する選手が現れるまで準永久欠番として扱われていたが、前述の通り2022年シーズンから中村が継承している。


オッケーイ!な実力

プロ入り前から注目されていた類稀な肩の強さを活かし、シーズン盗塁阻止率.644、通算盗塁阻止率.462、入団から13年連続盗塁阻止率4割以上など盗塁阻止関連の捕手のNPB記録をほぼ総ナメにしている。


また、打撃面においても初年度こそ不安視されたものの、2年目からは才能が開花し、中日ドラゴンズ落合博満との争いを制して首位打者を獲得。以降はクリーンアップに加わる等打撃でも主力として活躍。


2003年6月28日旧広島市民球場で行われた広島東洋カープ戦では、当時のNPBタイ記録となる4打席連続ホームラン(第2打席は四球)を達成した。


大卒・社会人経由での2000本安打達成は長いプロ野球の歴史の中で最初である。また捕手での2000本安打達成も今のところ野村克也谷繁元信と古田の3人のみ(のちに阿部慎之助も達成しているが、当時は内野手登録だった)。


独自に編み出した打撃理論により特にインコース攻めに滅法強く、またデータ分析から「打席に入った時は相手にまずボールから入らせる」「マスクを被って強打者と対峙したらまず何とかして第1球ストライクを獲る」ことを心がけていたという。


さらに日本シリーズにも大変強く、5度出てそのリードと打撃で4度ヤクルトを日本一に導き、シリーズMVPも2度獲得している。


古田はやはり相手打者の虚をつくとされる天才的なリードが語られる捕手である。日本シリーズで対戦するパリーグの球団は「相手投手ではなく、古田との勝負」と言わしめるほどである。


もちろん打撃もよいことから当時それほど野球に詳しくない人でも、古田の名前と顔は知っているほどの知名度のある選手であった。


その飄々とした見た目からは想像できないほど負けず嫌いかつ強気な性格の持ち主であり、相手打者に対して遠慮のない内角攻めをするためか相手チームの怒りを買いやすく、中長距離タイプの捕手としてはかなり死球が多い。


なお、投手としての才能は捕手ほどなく、一度味方選手の治療による試合の合間に登板した時は打席に立ったスラィリーにカットされるなど、こちらはオッケーイ!ではない。


オッケーイ!なキャラ

名言「オッケーイ!」から始まり、「代打、オレ」など。


見た目や現役時代のプレーにはそぐわない程のネタキャラでもあり、熱狂的な解説もする。


眼鏡をかけた理由は、乱視がひどく当時はコンタクトレンズが合わなかったため。その風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。(誕生日も古田8月6日、のび太8月7日と1日違い。)


また日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」と言われたがそれを打ち破った。


実業家堀江貴文ホリエモンを名乗るきっかけを結果的であるが意図せず作っている。2004年のプロ野球再編問題で、古田会長(のび太)率いる選手会が読売ジャイアンツのオーナー・渡辺恒雄ツネオ)らと対立している所へ、当時ライブドア社長であった堀江がドラえもんのごとく助け船を出したためである。

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