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大政所

おおまんどころ

大政所とは、室町末期から安土桃山期の女性。豊臣秀吉やその兄弟姉妹らの生母にあたり、名は仲(なか)と伝えられる。(1516年-1592年)
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概要

「大政所」とは、公卿の母(正室)に贈られる尊称の一つである「大北政所」を略したものであり、この称号で呼ばれる女性は過去に複数名存在するが、現代では摂家出身者以外で初めて関白を歴任した豊臣秀吉の生母・仲(なか)を指す固有名詞として、一般には定着している。


生涯

出身については尾張愛知郡御器所村(現・愛知県名古屋市昭和区)の出であるとも、あるいは美濃の鍛冶である関兼貞(兼員とも)の娘であるとも伝わっている。

当初、織田氏に仕えていた足軽・木下弥右衛門の元に嫁ぎ、彼との間に長女のなか(後の瑞龍院日秀)と長男の日吉丸(後の豊臣秀吉)を設けたとされる。弥右衛門とは天文12年(1543年)に死別し、その後織田信秀の同朋衆の一人・竹阿弥と再婚し次男の小一郎(後の豊臣秀長)、次女の旭(後の朝日姫)を産んだという。

もっとも、秀吉やその兄弟姉妹の父親については様々な説が存在し、小一郎や旭も含めて弥右衛門の子であるとする見解もあれば、弥右衛門を竹阿弥と同一人物と見る者もあったりと、現代に至るまで確定を見ていないことにも留意すべき必要がある。


少なくとも、秀吉が近江長浜を領するまでに竹阿弥にも先立たれたと見られ(これについても未確定である)、その後は織田家中で立身出世に邁進する秀吉の元に引き取られ、彼の妻であるねね(後の高台院)らと共に残りの生涯を過ごすこととなる。

ねねとは嫁姑の関係ではあったが、実の母娘のように親密な関係にあったと伝わっており、本能寺の変直後に長浜城が明智方の侵攻を受けた際にも、共に伊吹山麓の大吉寺へと逃れている他、秀吉が大坂に城を新築した際にもやはり共に移り住んでいる。


天正13年(1585年)7月、秀吉の関白叙任に伴い仲もまた従一位に叙され、「大政所」の号を与えられた。ところがこの翌年、大政所は岡崎の徳川家康の元へ送られることとなる。この当時、秀吉は家康に対して再三に亘り上洛を促していたものの、小牧・長久手の戦いや妹の朝日姫(旭)が正室として下るなどしてなお、家康は重い腰を上げずにいたのである。

大政所の岡崎行きは、朝日姫の見舞いという名目であったものの、実質的には朝日姫と同様に家康に対する「人質」に他ならず、妹だけでなく母までも送られてきた以上、流石の家康も上洛に踏み切ることを余儀なくされた。時に天正14年(1586年)10月のことであり、この間国元に残っていた家康の家臣・本多重次が万が一に備え、大政所の宿所の周囲に芝を積み上げいつでも火を付けられるようにしていたとされるが、家康の上洛と秀吉への謁見が無事に終わったのを受け、大政所も一月ほどの滞在で大坂へ戻る運びとなった。


岡崎行き以前より病がちだったとされる大政所は、天正18年(1590年)には朝日姫、さらに翌年には秀長に相次いで先立たれている。最晩年の大政所は、朝鮮への出兵を進めつつある秀吉の身を案じており、秀吉も大政所からの懇願もあって一旦は出兵の延期を決めている。

しかし文禄の役が始まってしばらく後、天正20年(1592年)7月になると大政所もいよいよ危篤状態に陥り、孫の豊臣秀次の指示による祈祷も空しく7月22日に京都聚楽第にて逝去した。享年77。

大政所危篤の報せは、遠く名護屋城にて指揮を執っていた秀吉の元にももたらされたものの、秀吉を落胆させまいと秀次が報告を躊躇っていたこともあり、秀吉が母の死に目に会うことは遂に叶わなかった。


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