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  1. 鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工・景光作の太刀。当記事にて解説
  2. 1.をモデルにした、『刀剣乱舞』のキャラクター。→小竜景光(刀剣乱舞)
  3. 同じく1.をモデルにした、『天華百剣』のキャラクター。→小竜景光(天華百剣)

概要

鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工である長船派の景光によって打たれた太刀。

同じく倶利伽羅竜の彫り物がある景光作の「小倶利伽羅景光」とは別刀である。


楠公(なんこう)こと楠木正成の佩刀であったという伝承から「楠公景光」、倶利伽羅竜の彫り物が鎺(はばき)の下から覗いているように見える事から「覗き竜景光」とも呼ばれる。


来歴については諸説あるが、はっきりした来歴が残るのは江戸天保年間から。

大阪のさる刀屋が「河内の農家で見つかった楠木正成の佩刀」として、江戸の本阿弥家に鑑定を依頼する。だが本阿弥家は疑わしいとして取り合わず、やむなく本作を持って帰ろうとした刀屋を、幕府代官の中村覚太夫(八太夫)が追いかけていって買い取ったという。


中村の死後は売却され、購入した刀屋は長州藩の毛利家に本作を売った。しかし、毛利家は本阿弥家が折紙(鑑定書)を出さなかったという話を聞いて返品してしまう。


その後、御様御用(おためしごよう。刀剣の試し切りと鑑定、および罪人の斬首を担当する役職)を代々つとめる山田浅右衛門吉昌の手に渡る。

弘化4年(1847年)、吉昌の義兄弟である三輪徳蔵を召し抱えるという条件と引き換えに近江彦根藩主・井伊直亮に渡り、その跡を継いだ井伊直弼の所持となった。だが直弼が安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変で暗殺され、三輪も役目御免となった為、山田家に戻った。


時は流れて明治6年(1873年)、山田家より東京府知事・大久保一翁を介して宮内省に献上。刀剣愛好家である明治天皇は本作をいたく気に入り、軍刀拵を作製させ、自ら佩用したという。

第二次世界大戦後に東京国立博物館に移管。昭和24年(1949年)2月18日に旧国宝、昭和27年(1952年)11月22日に国宝に指定される。

国宝指定名称は「太刀 銘備前国長船住景光  元享二年五月 日(小竜景光)」。

現在でも折に触れて公開される機会がある。


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