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尼子義久

あまごよしひさ

尼子義久とは、山陰地方の戦国武将。父・尼子晴久の急死後に家督を継いで毛利元就と戦うが、元就の策謀に敗れて降伏した。(1540年-1610年)
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家督継承の暗雲

天文9年(1540年)、出雲を本拠とする尼子氏の当主・尼子晴久の次男として誕生。幼名は三郎四郎で、後に室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を受け、元服に際して義久と名乗った。

義久には又四郎という兄がいたが、早世した為に長男として繰り上げられたとも言われる。この他、弟に倫久・秀久・氏久がいるが、氏久については義久の弟という記述が『出雲私史』にある一方、『陰徳太平記』では尼子誠久の長男と記されており、どちらかが正解かは未だ定かではない。


永禄3年(1560年)、父・晴久の急死を受け、義久は21歳にして家督を継ぐ事となった。しかし義久が家督を継いだ当時、彼や尼子氏を取り巻く状況はあまりにも厳しいものがあった。

弘治年間より毛利氏との間で続いていた、石見大森銀山を巡る争いは未だ終結しておらず、また尼子氏の擁する精鋭部隊・新宮党を粛清した事によって、本来ならば若年の義久を支えるべき有力な親族衆が殆どいないという事態も招いていた。更には父の代で尼子氏から追放・粛清処分を受けるなど、抑圧されてきた国人衆の不満もまた、この代替わりを機に一挙に噴出し始めていた。


雲芸和議

晴久の死は程なく毛利元就にも伝わり、元就は再び石見への侵攻を画策。これに対して義久の取った選択は、先代までの毛利家との対決路線を継承するのではなく、和平による解決というものであった。義久は早期の和睦成立を図るべく、足利義輝に元就との和睦調停を依頼し、対する元就からは和睦に当たって「石見への不干渉」という条件が提示された。

尼子氏にとって、石見への不干渉は銀山の権益を手放す事とイコールであり、当然この条件は突っぱねられるべきもの・・・と思いきや義久は何とこれを直ちに承諾、これにより和睦は早々に成立する事となった。義久が不利を承知でこの条件を呑んだ裏には、家督継承によって生じた家中の動揺や内部抗争に収拾を付けたいという意図、そして調停に入った将軍・義輝の面子を保つという思惑があった。


しかしこの和議により、福屋隆兼や温泉英永ら尼子方の石見国人、それに彼らを支援していた本城常光、牛尾久清、多胡辰敬ら石見に駐屯していた家臣は孤立無援の状況に陥り、元就にとっては正に思惑通りの結果を生む事となった。

翌永禄5年(1562年)に入ると、石見銀山の守備の要である山吹城の陥落により、守将として入っていた本城常光が毛利方に降り、さらに温泉英永、牛尾久清は出雲へと退却。また雲石国境の刺賀岩山城は落城し、これを守っていた多胡辰敬が敗死するなど、石見における情勢は一気に尼子氏にとって不利なものへと転じた。さらに赤穴盛清や三沢為清など、石見と国境を接する西出雲の国人らも相次いで毛利氏に降伏するなど、晴久の代には大勢力を誇っていた尼子氏の版図は徐々に削られていく事となる。


この一連の国人たちの動きは、父・晴久が推し進めていた中央集権化が未だ不完全なものであった事の証左であると共に、毛利氏と和睦してまで果たそうとした家中の内紛や不満の収拾もまた失敗に終わった事を、如実に示すものでもあった。


月山富田城の戦い~尼子氏の終焉

この情勢の変化を好機と見るや、元就はわずか半年ほどで和睦を破棄し、いよいよ出雲への侵攻に着手する事となる。対する義久も、豊後の大友義鎮(宗麟)と結んで毛利氏の背後を脅かす事で、この攻勢に対抗している。さらに毛利方に降った本城常光の誅殺により、同様に毛利方へと鞍替えしていた国人たちも再び毛利氏に反旗を翻した事もあり、義久もしばらくの間は毛利氏の攻勢を凌ぎ続ける事が出来た。

しかし永禄6年(1563年)には本拠の月山富田城を守る「尼子十旗」の一つ・白鹿城が陥落。さらに永禄7年(1564年)には伯耆江美城を始めとする他の拠点や海上までも押さえられた事により、尼子氏は糧道だけでなく江見氏や三浦氏など、美作の尼子方の豪族たちとの連絡をも断たれる格好となり、月山富田城は事実上孤立状態に陥った。この頃になると、同盟相手であった大友氏も幕府の仲介で毛利氏と和睦を結んでおり、毛利氏は後背を脅かされる事なく出雲攻めに注力出来る態勢を整えつつあった。


永禄8年(1565年)に入って毛利軍が月山富田城の攻撃にかかると、尼子軍も徹底抗戦の構えを見せ、義久も自ら出陣し一旦は毛利軍の攻撃を跳ね返している。この尼子軍の頑強な抵抗に対し、地の利を活かした月山富田城の守りの固さ、そしてかつての大内氏による攻城の失敗を痛い程熟知していた元就は、力攻めは無謀と判断し早々に兵糧攻めに方針を転換。長期に亘る兵糧攻めにより城内では兵糧の欠乏が深刻化し、投降者も発生するが毛利軍はこれを一切認めず処断した結果、逃げ場を失った城兵たちがさらに兵糧を食い尽くすなど、状況はさらに悪化の一途を辿って行った。

やがて冬を迎えるに至り、兵糧が底を突き始めたのを見て取った毛利軍は一転して投降者を受け入れる姿勢を示した。これにより尼子軍からは城兵たちが集団で投降を始め、さらに佐世清宗元嘉親子を始め、亀井安綱、河本隆任、川副久盛、牛尾幸清、湯惟宗なども毛利の軍門に降るなど、尼子軍の内部崩壊は一般の将兵のみならず、重臣達の間にまで及ぶ事となった。


それでも重臣達の中には、宇山久兼(飛騨守)のように私財をなげうってでも抵抗を続ける者もおり、これを支えに尼子軍はなおも籠城を続けていたが、元就はその士気を挫かんとさらなる謀略を仕掛けた。義久の家臣・大塚与三衛門を唆し、富田城内に内通者がいると義久に讒言させたのである。これを信じた義久は久兼が内通者であると考え誅殺に及び、与三衛門も程なくして尼子家臣・大西高由によって討たれているが、この一件により城内はさらなる混乱を極める事となってしまった。

そして1年半にも亘る籠城戦の末、永禄9年(1566年)11月末に義久は遂に開城を決意。元就に対し書状を通して降伏の意を示すと、元就もこれを承諾し吉川元春小早川隆景との連名で、義久らの身柄の安堵を書状に書き加えている。こうして月山富田城は開城し、出雲国内にて抵抗をくりかえす尼子十旗の武将達もまた、相次いで毛利氏に降伏していった。戦国大名としての尼子氏は、ここに滅亡の時を迎えたのである。


その後の義久の動向

戦後、元就は義久とその弟たちを助命し、安芸円明寺に幽閉している。幽閉中の永禄12年(1569年)頃には、旧尼子家臣団が義久のはとこである尼子勝久を擁立、尼子氏再興に向けて動き出しているが、義久はこれを特段支援することもなく、彼がその責を問われる事は無かった。(実際、新宮党誅殺の件もあり、そもそも「はとこ」は現代でもかなり疎遠な関係である)

その尼子氏再興運動も潰え、幽閉から実に23年が経った天正17年(1589年)、義久は弟達と共に幽閉の身から解放され、毛利輝元より安芸国・志道に居館を与えられるなど、以降は毛利氏の客分として遇される身となった。慶長元年(1596年)には、長門阿武郡の五穀禅寺にて出家の上友林と号し、その後慶長15年8月28日(1610年10月14日)に71歳でその生涯を閉じるまで、当地にて穏やかなうちに余生を過ごした。


義久の死後、尼子氏の家督は生前養子に迎えていた甥の元知(倫久の長男)が継ぎ、孫の代になると祖先の名乗っていた佐佐木姓に復し、昭和初期に至るまでその命脈を保ち続けた。また義久の直系の子孫は後に福永氏と名を改め毛利氏に仕えており、21世紀の現在でもその子孫たちが広島市などに在住している。


各メディアにおける尼子義久

信長の野望

現状の作品でのステータスは20内(最低でも政治28)とかなり低く、従兄弟の勝久に至っては統率・武勇が少し高い為に尼子家の一門では最低クラス。しかも作品のシナリオ(特に1561年)によっては大名となっているので、更に使いにくさがある。


戦国無双

武器:薙刀(2Emp) 刀(3) 声:岡本寛志(2) 草尾毅(3)


父の晴久に先立ち、2Empにてモブ武将として初登場。地方シナリオでは大名となっている。

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