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概要

父は山科言綱、実母は女嬬で、養母は中御門宣胤の娘。


永正17(1520)年元服して内蔵頭となり、永禄12(1569)年には山科家ではじめて権大納言となり,天正2(1574)年に正二位となった。山科家世襲の内蔵頭の職掌上、朝廷に御服を調進し、高倉家と共に衣紋道を家職として公家装束の着装を行い、朝廷の楽奉行、和歌御会奉行も務めた。


また、医薬の専門知識を持っており、知人や近所の町衆などに診察・投薬を行っている。天文2年には尾張(愛知県)に下向して飛鳥井雅綱と共に蹴鞠和歌を織田氏の一族や家臣に伝授し、弘治2(1556)年に養母を訪ねて駿河(静岡県)府中に下向し、今川義元とその家臣たちと交流している。


窮乏化する朝廷の経済を支えるために、永禄1(1558)年伊勢の北畠具教・具房に朝廷への30貫文の献上を要請。同12年には岐阜の織田信長を訪れ、三河の徳川家康ともども後奈良天皇十三回忌の法会の費用200貫文を献上させた。


信長上洛(1568)などの記事もある言継の日記の『言継卿記』(1527~76)は重要史料であり、言継の庶民的な性格が表れているといえる。


また,『公卿補任』などの書写を行い,四・五位の補任一覧である『歴名土代』を編集した。墓は京都の清浄華院にある。


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織田信長

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