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島津家久

しまづいえひさ

島津家久とは、九州地方の戦国武将。島津貴久の四男にして、所謂「島津四兄弟」の末弟に当たる。沖田畷の戦いや戸次川の戦いなどで見せた巧みな軍略・戦術から、ネット等では「戦国最強の釣り師」の通称で知られる。(1547年-1587年)
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概要

戦国期の九州・薩摩を中心に活躍した戦国武将の一人。所謂「島津四兄弟」の末弟に当たり、兄達に負けず劣らずな武勇と、優れた軍略をもって島津氏の勢力拡大に貢献。祖父・島津忠良を持ってして「軍法戦術に妙を得たり」と高く評価される程の戦上手であった。

中でも後述の「釣り野伏」の戦術を巧みに生かし、時に大名級の首級を複数も挙げるその戦いぶりから、前述した「戦国最強の釣り師」との異名のみならず、某漫画家からは「大将首もぎ取りマッシーン」とも評されている。その優れた武勇は嫡男・豊久にも受け継がれたようで、後の関ヶ原の戦いにおいて自らは討死しながらも、その奮戦ぶりにより「島津の退き口」と呼ばれる撤退劇を成功させるに至っている。


父は島津氏第15代当主の島津貴久、母は本田丹波守親康の女で、三人の兄達とは腹違いであるが兄弟仲は非常に良かったと伝わっている。他方で鹿児島吉野での馬追の際の逸話や、樺山忠助(紹劔、家久の義兄に当たる)が家久の選考を妬む義弘の振る舞いについて苦言を呈した事などからも窺えるように、腹違いな上に戦功著しい家久の立場は四兄弟の中でも微妙なものであった事を窺わせる証言も残されている。

実際、家久存命時の島津家中での席次は必ずしも高いものではなく、家久の直系の子孫たちも島津姓を名乗る事を憚っていた節がみられる。


「釣り野伏」

彼を語る上で必ず外すことが出来ない戦術として、「釣り野伏」というものがある。

これは島津軍が得意としている戦術のひとつで、囮部隊が敗走している様に見せかけあらかじめ伏せていた伏兵の場所まで誘導・それを追撃してくる敵部隊を一気に包囲殲滅するというものである。

字で書くと容易く見えるが、これを相手に警戒心を抱かせずに行うには相当な技量が必要とされる。

この戦術を得意とし、凄まじいまでの戦果を上げたのが家久その人であった。


生涯

前半生

天文6年(1547年)、島津貴久の四男として生まれる。幼名は又七郎、成人してからは中務大輔を称し唐名から中書と呼ばれた。

15歳の時、廻坂の合戦で初陣を飾り、肝付方の敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにて討ち取るという快挙を成した。初陣でこの戦果は凄まじい物であり、早くもこの頃から武将としての器の大きさを漂わせていた。


永禄12年(1569年)、父・貴久の悲願である旧領三州(薩摩・大隅・日向)の回復を目指し、薩摩北部の国人・菱刈氏との間で戦端を開いていた島津軍は、菱刈軍と相良氏からの援軍の籠る大口城を攻めるも、これを城から釣り出し攻めた次兄の島津義弘は苦戦を強いられ、義弘を守って重臣・川上久朗が落命するなど手痛い損害を被っていた。

この苦境を打開すべく、家久は同年5月に大口城に程近い戸神ヶ尾(相良の史料では「筈ヶ尾」とする)と稲荷山に伏兵を置き、自らは雨の降る中を荷駄隊を装った300名を率いて大口城の麓の海道の進軍を試みた。

この家久勢の動きに触発された丸目長恵(タイ捨流剣術の開祖)ら、相良軍の血気盛んな若侍は、奉行の深水頼金の諫めも無視して荷駄隊を追いかけたが後の祭り、逃げる(振りをした)家久に釣られて伏兵の元へ誘い込まれ、136もの首級を討ち取られる大損害を被った。

菱刈氏の降伏と相良軍の撤兵により、大口城が島津側に帰したのは、この戦いからわずか4ヶ月後の事である。


その後も三州回復への戦いが続く中、天正3年(1575年)には平定戦における神仏の加護を謝すべく伊勢神宮などに参拝。さらに京都や堺に滞在し里村紹巴の仲介の下、公家衆や堺の町衆とも交流を深めた他、明智光秀の招きにより坂本城・多聞山城において接待を受けた。この畿内での顛末を家久自身がまとめた日記は、『中書家久公御上京日記』として現在にも伝わっている。

もっとも、この上洛の折に光秀より茶を勧められた際にも「茶道の事は詳しくない」と白湯を所望したり、また連歌の会の誘いも辞退していたりと、無類の戦巧者であった家久にも不得手な面があった事が窺える。


冴え渡る「釣り野伏」

天正6年(1578年)、日向高城川原における大友氏との合戦(耳川の戦い)においても、家久による軍略が遺憾なく発揮された。

伊東氏の失地回復と、キリシタン王国建設を掲げ大軍をもって日向に進出した大友氏に対し、島津氏は足利義昭の御内書という大義名分こそあれど、兵力においては明らかに劣勢であった。そこで釣り野伏の出番というわけで、家久は耳川の後方に伏兵を置いて待ち伏せつつ、少数の兵をもって大友軍を誘い出した。

この時大友軍は前哨戦で損害を被っていた事から、講和派と主戦派に割れて紛糾を極めていた状態であり、主戦派の田北鎮周・佐伯宗天(惟教)らがこの挑発に乗って渡河に及んでしまった結果、伏兵の攻撃により大友軍は総崩れに陥り、田北・佐伯のみならず蒲池宗雪(鑑盛)・角隈石宗・吉弘宗鳳(鎮信、高橋紹運の兄)といった名だたる将らが戦死するという、惨憺たる結果に終わることとなった。

島津軍も前衛部隊の北郷時久らが討死するなど大損害を出したものの、この勝利をきっかけに大友一強であった九州のパワーバランスは大きく一変、島津氏と肥後の竜造寺氏との間で九州の覇権が争われていく事となる。


島津氏と龍造寺氏との抗争は、当初は龍造寺側が島津を圧倒する事が多かったものの、やがて龍造寺氏に降伏していた肥前西部の有馬鎮貴(晴信)が離反を企図し、島津氏に助勢を求めるようになるなど、反撃の糸口も見え出していた。

天正12年(1584年)3月、背信に及んだ有馬氏を叩くべく龍造寺隆信自ら主力を率いて出陣、これを受けて島津義久は有馬氏へ援軍を送ることにしたが船の用意が間に合わず、有馬氏への助勢は家久や新納忠元らの部隊を先行させるに留まり、島津・有馬連合軍の5千~8千に対して、龍造寺軍は1万8千~6万と、倍以上もの戦力差で対決する事を余儀なくされた。

加えて龍造寺軍の中には総大将である龍造寺隆信を初めとし、龍造寺四天王(百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤、成松信勝、木下昌直)といった歴戦の猛将も含まれ、さらに大量の鉄砲も装備していた事から、単純な兵数だけでなく質的な面でも相当に不利な状況であった。

こうした状況下にあって、島津本隊の到着を待っての後詰決戦案を主張する有馬側に対し、家久はこれを退け積極的な防衛策に打って出た。島津・有馬連合軍は島原北部の沖田畷を戦場と定め、そこに龍造寺軍を誘い出すべく防備を固め、家久も自ら率いる軍勢を伏兵として潜ませ決戦に備えた。

かくして3月24日、沖田畷へと進軍した龍造寺軍は島津軍と激突、敗北を装い島津軍が撤退するのを見て取った龍造寺隆信が慢心してさらなる追撃に及んだところで「釣り野伏」が発動。不意を突かれた龍造寺軍は恐慌状態に陥り、隆信や木下以外の龍造寺四天王も討ち取られるなど、島津・有馬連合軍は圧倒的劣勢を跳ね除け大金星を挙げた。


大友氏に続いて龍造寺氏をも降した島津氏は一躍九州の大勢力となり、九州統一に向かって進んでいく。家久もこれを機に佐土原城代として日向方面の差配を任じられるなど、40を手前にしてようやく部屋住みの身分を脱する事となった。


豊臣政権との攻防

九州北部には、依然として豊後を中心に大友氏が勢力を保持していたものの、大友家中の重鎮として傾きつつある主家を支えていた立花道雪は既にこの世の者ではなく、道雪の死によって筑後の国人らも島津氏の傘下に収まるなど、島津氏による九州平定も間近に迫りつつあった。

しかし劣勢の大友氏もただ座して滅亡を迎えるつもりはなかった。大友宗麟は全国統一に向け邁進していた豊臣秀吉に援軍を求め、秀吉もこれを承諾。秀吉からは朝廷の権威を背景に島津・大友の両者に停戦令が発せられ、一旦は両者ともこれを容れるも、豊臣政権より提示された和睦案は島津氏には到底受け入れられるものではなかった。程なく島津軍の攻撃再開により停戦は破られ、豊臣政権による九州征伐は不可避となったのである。


この時、家久は次兄・義弘と共に主戦派の立場を取っており、豊臣政権との対立が決定的となった天正14年(1586年)10月には義久の命の元、日向方面を経由して豊後への侵攻に当たった。対する大友側も栂牟礼城の佐伯惟定らが頑強な抵抗を続けるも、12月には府内と丹生島城(後の臼杵城)を繋ぐ要衝・鶴賀城を、家久率いる軍勢が陥落寸前にまで追い込んでおり、これにより阿蘇方面から豊後攻略に当たっていた義弘の軍勢と併せて、府内挟撃の態勢が整いつつあった。

大友側はこの窮地に接し、当時府内城に入っていた仙石秀久長宗我部元親ら率いる豊臣軍の先発隊が、戸次川において家久勢を食い止める必要に迫られた。しかし豊臣軍の内部では積極的な攻撃を主張する仙石や十河存保、加勢を待つべきとの立場である元親との間で意見の相違があり、結局前者の主張が通る形で12月12日夕刻、島津軍と豊臣軍との間で戦端が開かれた。

家久はここでも「釣り野伏」を駆使し、まず先陣を切った仙石勢の不意を突いてこれを敗走させると、後続の長宗我部勢をも有利な地形に誘い込み、混乱状態に陥れた。翌日まで繰り広げられた乱戦は家久勢の勝利の内に幕を閉じ、豊臣軍は長宗我部信親(元親嫡男)や十河存保らが討死するという惨憺たる被害を被った。


この後、鶴賀城に続いて府内城を陥落させた家久であったが、天正15年(1587年)に入ると秀吉自らが大軍を率いて九州へ出陣し、秀吉の来襲を察知した島津氏は北九州の制圧から本国の守りを固めるべく方針を転換。

豊後に駐留していた家久も日向都於郡城まで撤退の上、4月には義久や嫡男・豊久らと共に豊臣秀長が包囲に当たっていた高城への救援に向かったが、対する豊臣軍は宮部継潤が根白坂にて防衛態勢を整えていた上、加勢に入った藤堂高虎黒田孝高らの奮戦もあって島津軍は惨敗(根白坂の戦い)、ここに島津氏の劣勢は確たるものとなった。

事ここに至り、長兄・義久は剃髪の上豊臣政権に降伏、家久もこれに先んじて秀長との間で単独講和を結び、本拠である佐土原城を明け渡した上で上方へ赴く運びとなっていたが、その矢先の天正15年6月5日(1587年7月10日)に佐土原城にて突然他界した。享年41。

あまりにも急な死であったため、豊臣・島津のいずれかによる毒殺説も呈されているが、他方で双方にとってこの時点で家久を害する必要性に欠ける事や、5月の時点で既に家久が病気であった事を示す書状も残されている事から、一般には病死したという見解が濃厚とされている。


家久の死後、嫡男の豊久には佐土原・都於郡が領地として安堵され、その豊久が関ヶ原の戦いで戦没すると(他家から養子を迎えたものの)家久を始祖とした分家(永吉島津家)が新たに創立され、後年まで家名を保った。

また家久の甥に当たる島津忠恒(次兄・義弘の三男)も、薩摩藩主に就任してから徳川家康より偏諱を授かり家久を名乗っている。


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日本史 戦国時代 戦国武将 島津四兄弟 九州勢

戦国大戦 咆哮!島津十字

島津豊久 島津忠恒

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