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幣原喜重郎

しではらきじゅうろう

(明治5年8月11日~昭和26年3月10日) 第44代内閣総理大臣。明治~昭和時代の外交官・政治家。従一位。勲一等。男爵。戦前は中国大陸内政不干渉の外交を行い、戦後は一連の民主改革を推進した。

概要

第44代内閣総理大臣。他にも、内閣総理大臣代理、副総理外務大臣衆議院議長など政府要職を歴任している。外交官出身で、幣原外交と呼ばれる独自外交を行った事で有名である。


明治5年(1872年)に大阪府門真市農家の家庭に生まれ、名門旧制中等・高等学校を経て明治28年には帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業する。卒業後、一時は農商務省(後の農林水産省経済産業省)に入省するが、明治29年に外交官試験に合格したため外務省に転職した。


外務省入省後は外交官として朝鮮を始め各国に赴任した後、大正4年(1915年)には事務方トップの外務次官に就任した。その後も次々とキャリアを築いて行き、大正8年には駐特命全権大使、大正10年にはワシントン会議に日本側の全権として参加した。このワシントン会議では、ワシントン体制と呼ばれるアジア・太平洋地域の秩序維持体制が構築され、幣原はその体制を構成する四カ国条約(による条約。太平洋地域の四カ国間の領土に対する相互尊重と問題発生時の平和的解決を取り決めたもの)、九カ国条約(米、英、仏、、日、による条約。中国の主権尊重と中国国内での商業の自由を認めるもの)、ワシントン海軍軍縮条約(米、英、日、仏、伊による条約。加盟国の軍艦保有数を比率で定め、条約締結から10年は新しい軍艦の新造を原則禁止するもの)の三条約の締結に奔走した。今後、幣原はこのワシントン体制を維持する事を念頭に欧米各国とは協調路線を採り、中国相手には主権を尊重しつつ条約内で認められる範囲での権益の保護を徹底する路線を採った。これを幣原外交と呼ぶ。


大正13年、第一次加藤高明内閣で外務大臣として初入閣し、次の第一次若槻禮次郎内閣まで務めた。また、大正15年には貴族院議員にもなっており、本格的に政治家として活動を始める。ただ、政治の世界に入っても幣原は独自外交を貫き、蒋介石率いる中国国民党軍が国家統一のため中国北部の敵対派閥と戦闘を開始した際も、中国の主権を尊重し内政不干渉を貫き派兵しなかった。しかし、第一次若槻内閣の際、進軍した国民党軍が反帝国主義を掲げ南京で日本人を含む外国人居留地や領事館を襲撃し死傷者を出すと軍部や世論は一気に幣原の外交を軟弱だと批判した。だが、それでも幣原は派兵をしようとせず、この事で中国側からも無抵抗である事を良い事に襲撃の標的にされるようになり、漢口事件や済南事件を引き起こす要因となった。このような外交的失敗と同時期に発生した恐慌により第一次若槻内閣は総辞職に追い込まれ、幣原も内閣から去った。


昭和2年(1927年)、第一次若槻内閣総辞職後に新たに組閣した田中義一は幣原外交を否定して強硬路線に切り替えたため、幣原は外交の第一線から遠ざかるかに見えた。しかし、田中は在任中に発生した張作霖爆殺事件の処理で昭和天皇の怒りを買い、就任から約1年半で総辞職に追い込まれてしまった。また、後任に幣原と同じ国際協調を謳う浜口雄幸が指名されたため、幣原は外務大臣として再び内閣に復帰した。以後、次の第二次若槻内閣まで外務大臣を務める。


浜口内閣での幣原はロンドン海軍軍縮条約締結に尽力し、大蔵大臣の井上準之助などと共に海軍の更なる軍縮を進めた。当然、軍部からは大きな批判を浴び、ついには内閣による軍縮は統帥権(天皇が軍隊の全権限を持つという大日本帝国憲法の解釈の一つ)の侵害だと憲法違反を持ち出す事態になる程だった。このような軍縮政策から濱口内閣は右翼団体からも目を付けられうようになり、ついに組閣から約1年後の昭和5年に首相の浜口が東京駅で右翼団体の男に襲撃され執務不能の重傷を負ってしまった。このため、宮中行事での席順が浜口の次に高かった幣原が首相代行を務める事になったのだが、代行中は野党からの攻勢に終始悩まされる事になった。そして代行開始から100日を超えた頃、ロンドンの軍縮条約について「天皇の批准を頂いている」と発言した事を天皇への責任転嫁として猛攻撃され代行続投が難しくなり、入院中だった濱口を半ば無理矢理復帰させる形となってしまった。しかし、復帰してまもなく濱口は体調を悪化させて内閣は総辞職となり、濱口本人は総辞職から約4ヶ月後にこの世を去った。


後任の第二次若槻内閣では、南満州鉄道の線路爆破(柳条湖事件)を起因とする満洲事変が発生し幣原は対中政策に追われる。当初、現地の関東軍に増員を求める陸軍に対し、内閣は中国に軍隊の増員はせずに交渉で事態を切り抜けようとした。しかし、当時の朝鮮軍司令官林銑十郎が独断で関東軍へ援軍を派遣したため内閣の思惑は崩れた。更に、陸軍中枢部が若槻に対し軍部大臣現役武官制(陸・海軍大臣は現役軍人しか就任できないとする制度)を使った倒閣をちらつかせて援軍の活動を追認させたため、関東軍は堂々と進軍を開始した。この時、アメリカのスティムソン国務長官から抗議の連絡が入っており、幣原は陸軍をこれ以上侵攻はさせずに錦州より手前の奉天で止めると約束し、懇意の陸軍幹部を通じて関東軍に侵攻を奉天で止めるよう指令を出した。しかし、その指令が前線に届く前に関東軍参謀石原莞爾中佐が錦州の爆撃を開始してしまい、幣原は国内外で信用を失墜させてしまう結果となった。この事態を受け、首相の若槻は内務大臣の安達謙蔵を仲介役に野党との挙国一致連立内閣を設立し軍を抑える力を取り戻そうと画策した。だが、考え方があまりに違う野党との連立は軍の暴走を助長するだけだとして幣原や井上が大反対したため、若槻も意見を変えて連立の話を突然取り消したのである。これで面目を潰された安達は、自宅に引きこもって閣議への出席を拒否してしまった。旧憲法だった当時、国務大臣の罷免権を持たなかった首相には辞職を促す事しかできず、結局閣僚同士の意見の不一致を理由にまもなく総辞職し幣原も内閣から去った。


この後、幣原は政治の表舞台から消え世間からも半ば忘れ去られていたが、太平洋戦争直後の昭和20年10月に、木戸幸一内大臣と平沼騏一郎枢密院議長の推薦により、第44代内閣総理大臣に就任する。これは、後に同じく首相となる吉田茂等が新英米派の幣原に目を付けて後押ししたからともされており、世間では突然の政界復帰に驚く者もいたと言う。ただ、幣原自身はあまり乗り気では無かったようで、昭和天皇からの説得によりやっと引き受ける事にしたという。


首相になった幣原は、まず就任早々にGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーから教育・経済の民主化、女性への参政権付与、労働組合の推奨、圧政的法制度の撤廃などを要求された。これを受け、幣原は治安維持法、治安警察法、特別高等警察の廃止と政治犯の釈放、公職追放令(戦時体制下で指導的立場にいた軍人、官僚、政治家、財界人を関連分野の管理職に就く事を禁ずるもの)の発令、投票権を20歳以上の男女とした公職選挙法改正などを行った。また、新憲法制定にも着手し、当初は憲法検討要員として入閣させた松本烝治国務大臣が策定した天皇の統治権を維持しつつ、天皇大権の制限、議会権力と国民の権利の拡大を盛り込んだ現行憲法修正案(松本試案)をGHQに提出した。しかし、保守的なこの改正案をGHQは拒否し、今度はGHQがマッカーサー指導の下で制作させたマッカーサー草案を日本側に提示した。これには、天皇の職権や権利を憲法の下に置く事、戦争と軍隊の永久破棄、皇族を除く貴族の廃止といった今の日本国憲法に近い内容のものだった。だが、練りに練った草案を突き返された事に衝撃を受けた松本は修正を加えた独自の試案を再度GHQ側に提出した。しかし、GHQは再びこれを拒否しマッカーサー草案を元にした憲法草案の制作を求めた。結果、内閣はこれを受け入れ、マッカーサー草案を元に新憲法草案を制作しGHQに提出した。その後、GHQによる審査の後、枢密院衆議院貴族院で微修正がされた後に再び枢密院で審査され、最後に昭和天皇からの認可を受け昭和21年11月3日に公布、翌年の5月3日に施行された。


憲法の件が一段落した昭和21年4月、幣原は終戦後最初の衆議院の解散総選挙を行った。これは、終戦直後の日本に漂う戦時色を拭い去る意味合いがあったとされ、解散自体は昭和20年の12月に行っていた。しかし、先記の事項を優先すべしというGHQの意向から選挙の開催が伸ばされ、結果的に解散から5ヶ月経っての選挙となった。この選挙は大日本帝国憲法下で行われた最後の総選挙となり、日本初の男女普通選挙となった。選挙結果は保守系政党日本自由党が第一党、次いで保守系政党日本進歩党左派系政党日本社会党が僅差で第二党と第三党となった。しかし、どの政党も議会で過半数の議席を得る事はできなかった事から、幣原は内閣の続投を目論み、第二党の進歩党に幣原を入党させる案まで浮上した。しかし、選挙結果を蔑ろにする幣原内閣の動きに進歩党以外の各党が猛反発し、民衆も巻き込んだ倒閣運動にまで発展したため、総選挙から約1か月後に総辞職した。


総辞職後は首相時代に入党を模索していた日本進歩党に入党し、公職追放令で先代が辞職し空席だった総裁職に納まった。更に、同党が後任の第一次吉田茂内閣で第一党の日本自由党と連立を組む事になったため幣原は引き続き入閣し、副総理と日本兵の復員関連事務を担う復員庁の総裁を務めた。その後、次の総選挙で連立与党が勝利するも党別の獲得議席数で野党の日本社会党に敗れた事を理由に総辞職すると、吉田に不満を持つ芦田均等日本自由党員の一部と合流して民主党(現在の民主党とは別物)を結成し最高顧問に就任した。この民主党は、第一次吉田内閣の後継で日本初の左派系内閣の片山哲内閣に連立与党として参加しており、幣原はまたも与党側に残ったが入閣はしなかった。その後、炭鉱の国営化を規定した臨時石炭鉱業管理法の制定を巡って、同法を社会主義的政策として反対した幣原は、支持者の田中角栄等を引き連れて民主党を離党し吉田の日本自由党に合流して民主自由党を結成した。民主自由党結成後、幣原は首相経験者として初めて衆議院議長に就任し、以後は昭和26年に他界するまで同職を務めた。なお、幣原が吉田と結成した民主自由党は、後々民主党からの更なる離反者を加えて自由党と名を変え、最終的には現在の自由民主党に発展している。


関連項目

外交官 政治 政治家 内閣総理大臣 第二次世界大戦 太平洋戦争

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