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徳川家宣

とくがわいえのぶ

徳川家宣とは、江戸幕府の征夷大将軍の一人。甲府藩主を経て第6代将軍に就任し、短い治世ではあったものの幕政改革に辣腕を振るったことで知られる。(1662年-1712年)
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生 没:寛文2年4月25日(1662年6月11日)-正徳2年10月14日(1712年11月12日)

別 名:新見左近、松平虎松(幼名)、徳川綱豊、甲府宰相

官 位:正二位、内大臣、右近衛大将、征夷大将軍

父 母:徳川綱重(父)、田中保良子(母)

兄 弟:松平清武(弟)

夫 人:近衛熙子(天英院、正室)、お喜世の方(月光院、側室) 他

子 女:豊姫、家千代、大五郎、家継


概要

江戸中期の征夷大将軍の一人。

一度は他家に養子に出されたりなど、紆余曲折を経て実家の甲府徳川家を継承し、さらに50を目前にして将軍に就任。将軍就任時48歳という年齢は、歴代の徳川将軍の中でも初代の家康(就任時62歳)に次いで、トップクラスの高齢でもある。

家宣が将軍に就任した当時は、先代の徳川綱吉の下で進められていた、「天和の治」と称される文治政治や経済政策が、様々な要因から行き詰まりを見せつつあった頃でもあった。家宣の治世下では文治政治という骨子こそ受け継ぎつつも、貨幣の質の回復や貿易制限などを通してそうした政治の立て直しと刷新が図られており、これらの政策は次代の家継へも引き継がれ、後には「正徳の治」と称されるようになった。

一方で、生類憐れみの令など先代の治世下での主要な法令は改められた一方、綱吉在世時から顕著となりつつあった側用人政治がより強化されてもおり、こうした側用人政治は次々代の徳川吉宗の治世において、正徳の治が事実上引っくり返された後もなお形を変えつつ引き継がれることともなった。


慈悲深く、学問を重んじる気質の持ち主として知られ、後に「正徳の治」を推進した一人である新井白石は言うに及ばず、室鳩巣ら数々の学者を登用、さらに賄賂や不正に対しても厳しい姿勢で臨むなど、現代における一般的な知名度こそ高くはないにせよ、歴代の将軍の中でも政治的な資質においては高い評価を受けている人物の一人である。

一方で、先代の綱吉との関係はあまり良好とは言えなかったようで、前出の生類憐れみの令の廃止はその代表的な一例として解釈されることも多いが、これについては史料によって記述に明らかな相違・矛盾が見られるため、必ずしも事実を反映しているかどうかについては検討の余地があることにも留意されたい。


生涯

前半生

甲府藩主・徳川綱重徳川家光の次男もしくは三男)の庶長子として、江戸の根津邸にて生を受ける。生母である保良子はお手つきとなった身分の低い女中である上、綱重が正室を娶る前だったこともあって体面を憚られたため、産まれてから程なくして家臣の新見正信の元に預けられ、「新見左近」と名乗った。

とはいえ、その後も綱重は他の男子に恵まれず、寛文10年(1670年)に綱重の世子として再び甲府徳川家へと呼び戻され、「松平虎松」を称するようになる。延宝4年(1677年)には元服し、伯父の徳川家綱(第4代将軍、綱重の異母兄)からの偏諱により名を「綱豊」と改めている。


元服の翌々年、延宝6年(1678年)に父・綱重の他界により17歳で甲府徳川家の家督を継承。ところがさらに2年後の延宝8年(1680年)、今度は徳川将軍家においても家綱が病に倒れ、後継となり得る男子のいないことから、綱豊も次代の将軍の有力な候補として目されるようになった。

しかし家綱の甥である綱豊に対し、家綱の弟である綱吉(綱重の異母弟、家宣の叔父)の方がより家光に血が近いとする声もあり、最終的に第5代将軍には綱吉が就任することでこの問題も落着。とはいえその後も、綱吉の子である徳松が早逝したみぎりなど、徳川光圀(水戸藩主)などから次期将軍に推挙する声も度々挙がっており、徳川綱教(紀州藩主、綱吉の娘婿)と並んでなおも次代の将軍候補と位置付けられる立場にあった。

一方で、この時期には間部詮房新井白石といった有能な人材も登用しており、綱豊の信任厚い彼らが後の正徳の治において、大きな役割を果たしていくこととなる。


将軍就任

綱吉が50を過ぎてもなお男子に恵まれなかったことから、長らく将軍後継候補と目されていた綱豊もようやく綱吉の養子に迎えられる形で、正式な将軍後継者として定められることとなる。時に宝永元年12月5日(1704年12月31日)、この時綱豊改め「家宣」も既に43歳となっていた。また家宣の将軍後継が確定したのに伴い、甲府徳川家も絶家とされ、その藩領は幕府の天領として扱われた他、甲府以来の家臣団も幕臣へと再編されることとなった。

家宣が満を持して第6代将軍に就任したのは、綱吉が薨去した宝永6年(1709年)のことである。将軍就任後、家宣は治世の刷新を図るべく、間部・白石ら側近たちとともに大規模な改革に着手。その一環として、先代の下で勘定奉行として経済政策の一切を取り仕切っていた荻原重秀を罷免し、金銀の含有率が低下していた元禄金銀に代えて、含有率を元に戻した正徳金銀の発行が推進されるなど、白石主導で貨幣の質の回復が進められた。


幕政の改革は経済面だけに留まらず、武家諸法度の改定(宝永令)や、琉球・李氏朝鮮などとの外交政策、それに朝廷における閑院宮家の創設などにも及び、また一方では生類憐みの令を始めとする、綱吉在世時の評判の悪い制度の廃止や、綱吉期に専横を極めた側用人たちの一掃も図ったことから、民衆(特に江戸市民)からは救世主の如く崇め奉られ、その治世の評判は非常に良かった。

一方で、これらの政策は旧弊悪弊を正す上で理にかなったものであるものの、間部や白石ら幕政を主導する側近らと、「東照神君以来の祖法変ずべからず」との考えを持つ幕閣らとの間で深刻な齟齬・軋轢を引き起こすことともなり、白石の自らの信念・理念に対する強固な姿勢もまた、両者間の不和に一層の拍車をかける格好となった。

前述した幕政改革の要というべき経済政策についても、一時的なインフレ状態の解消には繋がったものの、このインフレがそもそも経済成長に伴う常識的な範囲内でコントロールされていたものでもあったため、改革に伴う通貨供給量の減少は逆にデフレを引き起こす結果となり、その影響は次々代の吉宗の治世下においても深刻な影響を残すことともなる。


家宣にとって不運であったのは、自ら推進したこれらの改革の効果が未だ十全に現れぬうちに、自らの寿命が迫りつつあったということ、そして自らの後を安心して託せる後継者に恵まれなかったことであった。

家宣が病を得て、51年の生涯に幕を下ろしたのは正徳2年(1712年)10月14日、将軍就任からまだ3年ほどのことであった。家宣薨去後、次代の将軍には当時3歳の世子・鍋松が徳川家継と名を改め就任し、この幼君を引き続き間部や白石らが補佐する形で、そのまま正徳の治を継続していくこととなる。

しかし、将軍個人に依拠していた彼等の権力基盤は、幼い家継の将軍就任によって必然的に弱体化を余儀なくされることとなり、家宣肝入りの正徳の治の推進もまた、幕閣らとの対立の激化によりさらなる困難を強いられていくのである。


登場作品

  • 大奥(よしながふみ):たるみアゴが特徴的な女将軍。史実通り登場場面は少ないものの、名君として描かれた。ちなみに新井白石もあっさりめの登場だった。

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