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昌子源

しょうじげん

昌子源(左下の人物)は、兵庫県神戸市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・町田ゼルビア所属。元サッカー日本代表。

1992年12月11日生まれ、兵庫県神戸市出身。利き足は右。


父・力は、JFA 公認S級コーチを所得していて、現在姫路獨協大学サッカー部監督。

母・直美は元・ソフトボール日本リーグ選手、元Lリーグ田崎ペルーレ所属で現在も神戸FCマミーズの選手。(JFAのHPより

実姉は、女優でエーチーム所属の昌子楓。


小学生時代にサッカーを本格的に始める]。入団当初のポジションはフォワードであった。

中学生になると、ガンバ大阪ジュニアユースに入団してプレーを続けるが中学2年の時膝を怪我し、中学3年の途中で退団。

昌子自身は高校でサッカーを続ける意思は無かったが、練習参加がきっかけで米子北高校へ進学。

1年の夏に当時JFLガイナーレ鳥取との練習試合で味方DFが負傷した際に、たまたま監督の真横に座っていたFWの昌子に声がかかり、5歳年上のFW相手に堂々プレーしたことによりセンターバックへのコンバートを命じられる。当初は嫌がったものの、「FWとしては出さない」と言われ、気持ちを切り替えた昌子は次第にレギュラーとして定着し、経験を積む毎にCBとしての才能を開花、高校3年に上がる頃にはU-19日本代表候補として招集されるまでに成長するが落選。


なお、プロとなった現在は守備の選手として活躍している選手は、下記の槙野智章など育成年代時代には攻撃の選手であったという例は非常に多い。

また、昌子のポジションは上記の通りセンターバックであるが、2012年のルヴァンカップ決勝やその後のいくつかの試合では左サイドバックとして高いパフォーマンスを見せた。


2011年、柴崎岳(現・CDレガネス)、梅鉢貴秀(現・SC相模原)、土居聖真らとともに鹿島アントラーズへ入団した。

(メイン画像は左上から右回りに柴崎、梅鉢、土居、昌子。)

2013年までは他の選手の存在もあって出場機会を得られなかったが、2014年のリーグ戦では自身初の全試合出場を果たし、Jリーグ優秀選手賞を獲得。

2015年3月31日、JALチャレンジカップのウズベキスタン戦で代表デビュー。

2016年、12月3日のチャンピオンシップ決勝・浦和レッズ戦ではセンターバックとして守備陣を支えて優勝に貢献。開催国代表として挑んだFIFAクラブワールドカップではディフェンスの中心としてプレーし、試合にこそ敗れたものの準優勝に貢献したその守備力が評価された。


2016年3月17日、2018FIFAワールドカップ・アジア2次予選の代表発表で復帰。

2017年12月12日、EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017の中国戦で代表初得点。

2018年6月12日の国際親善試合パラグアイ代表戦で西野朗監督によって槙野智章に代わるスタメンに起用され、ハリルホジッチ前監督解任後の初勝利に貢献。そのままの勢いで2018年 FIFAワールドカップロシア初戦のコロンビア代表戦でワールドカップ初出場を果たし、南米の強豪コロンビア相手にアジア勢としてワールドカップ史上初の南米勢に対する勝利に貢献。

しかし、決勝トーナメント1回戦のベルギー代表戦でチームは試合終了間際に逆転弾を決められて敗退。試合終了後、失点直前には必死に走りながらも追いつけなかったこともあってうずくまって泣きながらピッチをたたく姿はサポーターに大きな感動を与えた。


ワールドカップ終了後の7月に左足首の怪我で約3カ月の離脱を余儀なくされた。しかし、10月にチームに復帰。その後はキャプテンとして試合に出場し、11月には鹿島アントラーズ通算20冠目であり、初めてとなるAFCチャンピオンズリーグ優勝に貢献。試合後に、大岩剛監督から「お前を主将にして良かった」という言葉をかけられた。


12月、7年間所属した鹿島アントラーズを退団し、フランス1部リーグのトゥールーズFCへ300万ユーロで完全移籍した。移籍の背景には横浜F・マリノス元監督のエリク・モンバエルツの推薦があったという。トゥールーズでの1年目はレギュラーメンバーとして活躍したが、2年目はハムストリングスの大怪我でシーズンを棒に振ってしまった。この時にメディカルスタッフとの関係がギクシャクしたこともトゥールーズ退団の要因だった、と昌子はのちに語っている。


2020年、ジュニアユース時代を過ごしたガンバ大阪へ完全移籍した。しかも、加入日が冬の移籍市場終盤である2月上旬という電撃移籍となった。加入当初は上記の大怪我が災いしたことと、リーグ開幕戦の直後にCOVID-19の影響で全公式戦が中断したことが重なって出場期間はほとんどなかった。その後、8月5日のJリーグYBCルヴァンカップグループステージ第2節の大分トリニータ戦で移籍後初出場し、8日の横浜FC戦で移籍後リーグ初出場したが、鹿島時代にはほど遠いパフォーマンスが続いた。そのため、12月と1月の天皇杯を欠場し、ハムストリングスの手術に踏み切った。

そして、手術後の2021年は本来のパフォーマンスを取り戻し、再び守備のレギュラーとなった。2020年こそガンバは2位となるが、2021年はコロナのクラスターに襲われて超過密日程が続いたこと、2022年は度重なるケガ人や不運(ガンバのページ参照)などの影響により2年連続で残留争いに巻き込まれる。結局、2021年は早めに、2022年は残り10試合の時点で監督交代となって残留を掴んでいる。特に2022年に残留を掴んだ最終節の対戦相手は4戦全敗していた鹿島であった...


ワールドカップに関しても、2018年大会終了時点では次の大会での活躍が大いに期待されていたものの、クラブと自身の低迷もあって代表から遠ざかり、2022年大会選ばれることはなかった。同じ大会で活躍した同年代選手も、元チームメイトで彼と同様にロシア大会で活躍した柴崎岳が招集こそされたものの、攻撃の天才でありながら守備の弱さを克服できなかったこともあって、チームが優勝経験国を2度も倒した中で出場機会を得られず仕舞だった。


2023年、フランスでプレーしていた植田直通と共に鹿島復帰が決定。シーズン開幕前に、クラブ史上最長となっている無冠期間が続いており、それからの脱却を狙う鹿島のフロントから「新しい鹿島を体現できるのはタイトル経験のあるお前だと思っている」と言われたとのこと。前半戦は怪我から復帰後に4-3-3のスタイルで昌子・植田のCBコンビとして君臨するも調子が全く上がらずボトムハーフに沈む。そこで従来の4-4-2に戻ると、2人と遜色無いくらいのポテンシャルを秘めた若い関川郁万が台頭。植田はスタメンで関川とのCBコンビとして出続けるが、昌子はベンチ要員に。それでもベンチからチームを常に鼓舞し続けて、鹿島躍進の支えになった。


しかし、昌子本人にとってはチームが無冠に終わったことと、近年長期的なビジョンのないフロントのいう「新しい鹿島」の方向性が最後まで分からなかったこと、さらには出場時間が90分換算でも10試合に満たなかったもあってかプロ人生で最も楽しくないシーズンとなってしまう。シーズン開幕前には鹿島で引退することも考えていたが、現実的に「30代後半で出られないのならともかく、30代前半でそうならばまずい」とも考え、移籍を模索する。結果、2024年、J1初昇格を果たしたFC町田ゼルビアへの完全移籍し、1年で再び鹿島を去ることとなった。


座右の銘は「いいときはみんなのおかげ」。

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