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最上義光

もがみよしあき

最上義光は戦国時代末期から江戸時代前期の有力な東北の大名で、伊達政宗の伯父にあたる。
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概要

最上義光/もがみよしあき(1546年~1614年2月26日)


最上家十代当主最上義守の嫡男として生まれる。幼名は白寿、仮名は二郎太。

義姫伊達輝宗の正室で伊達政宗の母。

元服と同時に将軍・足利義輝の偏諱を得て、義光を名乗る。この時最上家は先代・最上義定伊達稙宗(政宗の曾祖父)に敗れて従属し、そこから独立を計って領土を拡大している最中であった。しかし義光の初陣でもある寒河江城攻めに敗れて領土拡張策は頓挫する。


やがて義守と義光の対立が起こる。これは一度は重臣・氏家定直の仲介で収まり、義守は隠居する。しかし義光が周辺豪族に対して強硬な態度に出たため、それに反発した国人・豪族らが義守を担ぎだし、更に義光の独立指向を危惧した伊達輝宗も義守を支援した。戦況は当初義守優位で進んだが、やがて義光が巧みな戦略で盛り返し、義光方の勝利で終わる。こうして最上家は伊達家から完全に独立し、義守と義光は和解する。


しかし未だにその支配は不安定であり、義光は自身に反抗する最上八楯という最上家分族(天童氏を盟主とする延沢、飯田、尾花沢、楯岡、長瀞、六田、成生の八家)を中心とした国人連合と戦うことになる。八楯側についた輝宗を交えて両陣営は一進一退の攻防を繰り広げる。しかし義姫が輝宗を説得して講和させ、伊達家はこの争いから手を引く。この後義光は天童氏分家の上山満兼を謀殺し、更には八楯の主力だった延沢満延を婚姻により懐柔。そして、遂には八楯盟主天童頼澄を陸奥国へ駆逐してこの争いに勝利。残りの八盾やその分家氏も義光に従うようになる。その後は周辺の小野寺家、伊達家、上杉家などと争いを繰り広げた。


やがて豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、それに参陣する。この頃父・義守が死去し、その葬儀のために甥・政宗以上の遅参であったが、事前に徳川家康に交渉していたこともあり許される。


関ヶ原の戦いの際には、家康の会津征伐に東軍側として従軍。西軍側である上杉景勝の軍と対峙することになる。その直後石田三成が挙兵したため会津征伐は中止され、義光は景勝の牽制を命じられる。しかし同じ任務の政宗は形だけの援軍三千を送ったのみであり、援護にきた南部家は領内で一揆(実は領土拡大のために政宗が扇動したもの)が起きたため帰還してしまう。そのため、義光は実質単独で上杉家と戦うことになる。直江兼続率いる二万余に対して七千程度、しかも西軍についた横手城主・小野寺義道の抑えに半数を割いていた。圧倒的に不利な状況下であったが、最上方は激烈な抵抗をみせ、さらに関ヶ原本戦がすぐに決着がついたこともあって防衛に成功する。

戦後は庄内由利地方等57万石を安堵され、最上氏最大版図を築き上げる。その後は内政に励んで領内を大きく発展させた。

しかし徳川家康が次男・最上家親を可愛がっていたため家督を継がせたいと思うようになり、嫡男・最上義康を疎んじ「高野山に退去せよ」と命じた。義康は高野山へ向かう途中に暗殺され、義康派は粛清された。更には斎藤光則に背後関係を調査させたため、義光と義康の間の離反を図っていた里見民部加賀に逃れたが最上家へ引き渡され、山形へ護送中、山賊に襲撃され死亡した。

義光はこの事件以降病気がちになり、1603年、徳川秀忠との謁見の後山形城で病死する。享年69歳。家臣四人が殉死した。後継者・家親には里見一族の粛清を遺言した。


家族

2歳下の妹・義姫とは大変仲が良く、義が伊達輝宗の元に嫁いでからも手紙のやりとりをよくしていたという。最上家が伊達家と対立した際には義が戦場まで乗り込んで休戦を促し、その頼みを断りきれずに休戦した後に和睦した事もあった。その後も伊達家の最上家不信から、外交関係が中々うまくいかない事もあったが、義光は間に立って取り持ってくれる様に依頼した書状を義に送るなど妹には絶大の信頼を置いていた様で、外交とはまったく関係ないような私事を記したような手紙も結構残っている(彼の名前の読みが「よしあき」と分かったのも手紙に書かれていたから)。


父義守との不仲の原因として弟・中野義時の存在がある。両者の対立の原因は義守が次男最上義時を溺愛し、嫡男義光ではなく義時に家督を譲ろうとしたことにあり、そのため義光は弟を殺し父を隠居させたというのである。しかしこの中野義時という人物は一次資料に名前がなく、実在がかなり疑わしい人物であるため、後世の創作ではないかと言われている。余談だが、甥の政宗も弟・小次郎を跡目争いから処断している。


息子

嫡男・義康は文武に優れ将来を期待されていたが、義光とは仲が悪く、やがて高野山への退去を命じられ、その道中で何者かに暗殺されてしまう。これは義康が豊臣家に近いことを義光が危惧したこと、次男・家親を気に入った家康の意向、それを利用しようとした家臣の讒言が原因とされる。

義光はこれを悲しみ、更に遺品の中から父の武運を祈る日記が見つかるとよりいっそう悲しみ、犯人を探し出して粛清した。しかしこの一連の事件は諸説あって真相は不明。この件並びにその後の最上家衰退には伊達政宗およびその腹心の片倉小十郎(景綱)の暗躍があったという説もあるが、伊達家がそんな証拠を残すわけがなく、最上家側の文書が散逸しており、憶測の域を出ない。


駒姫

豊臣秀次に見初められ側室となるが、秀次事件で誅殺されてしまう。のち、生母・大崎御前も愛娘を殺された悲しみでこの世を去ってしまう(秀吉に自害を命じられたという説もある。)。さらに最上家も一時期は改易の危機に立たされている。また上杉家との揉め事が起こっても何かと上杉家有利の裁定を下されることが多かったこともあり早い段階から反豊臣・親徳川路線を明確にするようになった。


創作における汚名

孫の最上義俊の代に起きたお家騒動が元で最上家は改易し山形他57万石から近江1万石の知行となってしまう。その際、最上家側の文書が散逸してしまったことや後に山形に入った鳥居忠政やその子孫が義光を称賛することを嫌ったの事項に関して調べる際には主に伊達家に都合のいいように捏造された文書や軍記物を引用するケースが多くドラマや小説等の創作物では、極めて悪い扱いをされることがほとんどである。

一般にそう流布させた最大の原因とされるのは『山形市史』の存在であり、編纂当時に山形県で絶大な権力を誇り「服部天皇」とまで呼ばれた服部敬雄が自らの息のかかった史学者佐々木銀弥に義光を貶めるような編纂をさせたことである。服部が義光を嫌いだったかどうかは定かでは無い。が、服部は義光を湛えるべく続いていた祭り「義光祭(ぎこうさい)」を中止させ「花笠まつり」に変更までさせている。

一方の佐々木は、自信の著作に於いて悉く義光を貶めるような記述をし続けた。

この意図的に曲解された内容は、NHKの大河ドラマ独眼竜政宗」の内容にも反映される。

ドラマでは原田芳雄氏が義光を演じたがそのあまりにも酷い扱いから、最上の地元、地元の英雄ともいえる山形の各所からクレームが入ったほど。このことは原田も反省していた模様。

実際には上記の通り政宗などとは比べ物にならないほどの戦国屈指の常識人、英雄であり、その人柄から人気の武将でもあるのだが・・・

つまるところ義光は、服部敬雄・佐々木銀弥という史学に対する大冒涜者の被害者だと言える。

なお、最上家の血筋自体は存続した。


2006年の「天地人」では義光は直接登場せず、「慶長出羽合戦で直江兼続を攻める最上軍にそれっぽい武将がいる」程度で終わってしまった。政宗の時のクレームを見て、怒られるのが怖くて外したとのこと。

トークショーの記事


「独眼竜政宗」の放送から2年後の1989年12月1日に、山形市は義光及び最上家を顕彰する施設・最上義光歴史館を開館した。


橋口たかしの漫画『最上の命医』、『最上の明医 ~ザ・キング・オブ・ニート~』の登場キャラクター、最上一尊・義明親子は、義光の子孫という設定である。


人物・逸話

人物

  • 体格:幼少の頃からこの時代の人にしては背が高く、5,6歳の時には既に12,3歳程度に見えたらしい。
  • 文武:怪力で武術も得意な義光だったが、文化人としての方も優れていた。義光が残した連歌の数は現存33巻・248句にのぼり、これは同時代諸侯の中では細川幽斎に次ぐ多さである。
  • 信仰:最上家は代々宗教の保護に取り組んでおり、義光もまた信仰心があつかった。愛用の鉄製指揮棒に「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻していたことからもそのことがよくわかる。
  • 知略:戦では謀略・調略・説得と言った戦わずして勝つ知略を駆使した。そのため「羽州の狐」「虎将」「出羽の驍将」の異名を取る。

逸話

  • 力持ち:力が大変強く、戦場では鉄製の重さが約1.8kgある指揮棒(現存)を持っていたらしい。他にも、家臣と力比べをした際に、木にしがみついた義光を強力な家臣が引っ張ったところ、木が抜けてしまったという逸話もある。
  • 好き:最上義光は大宝寺義氏を家臣を裏切らせて自刃させ、後を継いだ弟・大宝寺義興も攻撃して自刃させ、養子の大宝寺義勝を追放。海につながる庄内を手に入れ、大好物の塩鮭が自由に食べられることを喜んだ。後に大宝寺義勝の実父・本庄繁長に庄内を奪われた際は、豊臣秀吉と交渉してまで取り替えそうとしたほどである。豊臣秀吉の時代には、上杉景勝が秀吉のお気に入りだった為に取り返す事が出来なかったが、秀吉が没すると、関ヶ原の戦いで旧知の徳川家康について戦った功績により取り戻せた。
  • 猪武者:戦場に出ると突進癖が顔を出し、氏家守棟(定直の子)や志村光安ら家臣に怒られたり諌められたりすること度々であった。このためか慶長出羽合戦の直江兼続追撃戦の時のようにしばしばあわやの目に遭っている。

創作

『信長の野望』での最上義光

中期~後期のシナリオで登場する。

どの能力も高い。かつては知略が最も優秀だったが現在では怪力キャラ定着のせいで武力も知略並みになっている。

1570年以降のシナリオでは最上家の当主、難易度は難しくはないが作品によっては

上杉家に隣接しているいるのでそれに注意しつつ勢力を拡大すべし。ちなみに作品によっては

義光が父義守から最上家の当主を継ぐ経緯のイベントが発生する。


『戦国BASARA』での最上義光

鮭のおいしい季節

詳細はこちらを参照。


アニメ『戦国コレクション』での最上義光

オバケが苦手なことを・・・強いられているんだ!

声・上坂すみれ

花火も打ち出せる身の丈ほどもある大筒を武器とする少女。お化けが苦手。

伊達政宗の伯母にあたり、戦国世界では政宗と家督を争っていた。現代では中学生として楽しく生活している。

殲滅姫・最上義光


『戦国無双』での最上義光

武器:刀剣(2) 槍(3以降) 大太刀(4Emp) 声:山田真一(chronicle2まで) 金本涼輔?(4以降)


「出羽の驍将の力、今こそ見せてくれよう!」(2猛将伝 前田利家外伝 天正御前試合の邂逅台詞)

羽州の狐?虎将と呼ばねば掴み潰そうぞ!」(特殊台詞)


出羽の戦国大名。

伊達政宗の母・義姫の兄で伯父にあたる。激・戦国無双から一般武将として登場しており、2での長谷堂の戦いでは、政宗から義姫や確執について語られているが、上杉を前に共闘する。

また2empiresでは、伊達軍のカラーである緑から青にカラーが変更されている。

4では固有のデザインで登場。東北の章に登場し、史実と同じく政宗と争うが後に和睦する。

こんこん

100万人の戦国無双ではオリジナルの武将で武器が二挺拳銃となっている。

鼻に付く言い方が特徴で妹思いの政宗の伯父として登場している。


殿といっしょ』での最上義光

常に白狐の仮面を被り、伴天連じみた衣装を着用した怪紳士。相手を化かすことに常軌を逸した熱意を傾ける詐欺師であるが、領民に対しては善政を敷いている。あまりに他人を化かすことに本気を出すあまり、「伊達軍に負けまくって主君である私もビンボー暮らしをおこなっている」という主君としてそれはどうかというような嘘をついて援軍を要請したこともあるほど。

妹・義姫を伊達家への間者として送り込んだは良いものの、心より夫・伊達輝宗を愛してしまった義姫(お東の方)からは逆に化かされ、輿で突撃されたりするなどゾンザイな扱いを受けている。


政宗さまと景綱くん』での最上義光

甘党の信長ビビリ家康などわりかし「一般的イメージ」より「史実」に基づいたキャラ付けがなされている本シリーズにおいては、堂々たる筋骨隆々の体躯に加え右目と額に傷を持つ猛将として登場している。治世に長け、稀代の謀将でありながら武勇にも長けている文武両道の名君なのだがやはり鮭が大好きな美食家であり、妹の土産にはの死体プレゼントするほどのグルメでもある。


『独眼竜政宗(FCソフト)』での最上義光

作中に登場する敵武将の中で最強の能力を持ち、また領地である山形も最高の国力と兵力を有するラスボスポジションで登場。イージーモードですら積極的に伊達家の領土へと攻め入ってくる好戦度の高さにも拘わらず、よりによって山形は政宗の本拠米沢の隣に在り常にプレイヤーへプレッシャーを与えてくる。なお政宗の東北統一が遅々として進まないと最上家が次代に引き継がれるのだが、これが義康と家親のどちらであるか(はたまた更に別の子か)は作中では敵武将は苗字しか書かれていないので不明である。


花の慶次』での最上義光

最終巻で登場。作中の戦は慶長出羽合戦が最後のため、ある意味ラスボスとなる。

撤退する直江兼続軍を二万の兵で追い詰めるものの、慶次たち八騎が義光の首を取るべく死の壁となって突撃。

勝ち戦だからこそ死にたくない兵士たちが逃げ出し、義光は歯噛みして退くこととなった。

額から頬にかけて斜めに大きな傷がある。


ネット上の愛称

「鮭様」「陰陽師」「もがみん」「シスコン」「FOX」等。


関連タグ

戦国武将 東北勢 義姫 駒姫 伊達政宗

信長の野望 戦国無双 戦国BASARA 戦国コレクション

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