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木戸孝允

きどたかよしまたはこういん

幕末の長州藩士、「維新の三傑」の一人。明治の元勲。
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薩摩藩の西郷隆盛大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称され、政治的な識見の点では明治政府随一と評価される。

長州藩士の出身で、明治初期における「長州閥」の領袖と認識されることが多いが、薩長土肥が要職を独占する藩閥の専横には批判的であり、藩閥に属さない官僚の後ろ盾となった。

名前の大まかな推移は、和田小五郎(桂家に養子入りするまで)、桂小五郎(8歳以降)、木戸貫冶(33歳)、木戸準一郎(33歳以降)、木戸孝允(36歳以降。年齢はいずれも満年齢)である。死亡後は雅号・松菊から松菊木戸孝允、木戸松菊あるいは松菊木戸公とも呼ばれる。

幕末

尊皇攘夷派の中心人物、開国・破約攘夷の勤皇志士、また江戸練兵館(神道無念流)塾頭の剣豪桂小五郎として知られる。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)。
吉田松陰の明倫館講師時代の弟子であり親友である。江戸留学中には江川英龍中島三郎助などの幕臣からも西洋兵術や造船術及び英語等を学んだ。

動乱期には、久坂玄瑞高杉晋作を初めとする松下村塾門下生を中心とした長州正義派をまとめ、長州藩の外交担当者として活躍した。八月十八日の政変から蛤御門の変で、長州が朝敵となり敗走した後も、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず京都に潜伏し、情報収集や他藩論工作を目的として京都に潜伏していたが、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになり但馬出石に潜伏する。高杉による功山寺挙兵成功後は長州に帰藩し、藩庁政務座の最高責任者として長州藩全権を担い、薩長同盟締結や四境戦争などに尽力した。
また、木戸姓は、幕府方により全国的に指名手配され使用できなくなった桂小五郎の名の代わりに、第二次長州征討前に藩主毛利敬親から賜ったものであり、同じく指名手配された高杉も谷潜蔵と名を改めている。

明治

新政府内では総裁局顧問専任として迎えられ、太政官制度の改革後は、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。

明治元年以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続けた。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還廃藩置県四民平等憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた。

なおこの際に、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に行っているが、これらは実行には移されなかった。

明治4年から明治6年にかけて岩倉使節団に参加。欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性をも洞察して帰国。

しかし岩倉使節団からの帰朝後、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始めた。また馬車の事故からの影響か左足が麻痺し始め、そのためか木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなった。

帰国後はそれまでの急進的・中央集権的な主張を改めて内治優先の必要性を説き、士族授産や民力休養のための漸進的改革と地方自治の充実を唱えた。木戸があくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために提言していた地租改正や、秩禄処分富国強兵のために実行された時には、これらを指導する大久保利通政権に激しく反発した。そして、台湾出兵が決定された明治7年5月には、これに抗議して参議を辞職している。

その後、伊藤博文井上馨が周旋した大坂会議により政府復帰を受け入れるが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあっては、開明的な木戸は心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。

西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。

人物

  • 少年時代は病弱でありながら悪戯好きの悪童であり、叱られた際に額に残った三日月の傷跡は、後の動乱期に幕府方に指名手配された桂の特徴としてあげられた。
  • 天下に聞こえる剣豪でありながら、実戦で剣を用いたという記録はほとんど無く、暗殺者や捕吏に対しても、ときに変装まで用いて闘争を避けることに徹したため「逃げの小五郎」と渾名された。
  • 音曲を暇つぶしのために始めたが、音曲の師匠が「もう少しで本職になれる」と舌を巻くほどの才能があった。しかし「志をもつ男子たるもの、小技で生計を立てるべきでなく、本職など言語同断」だと音曲をやめてしまう。しかし友人と下田に偵察に向かった際に足止めを食らった箱根の関所では、芸人のふりをして関所を突破した。
  • 無類の酒好きであり、上司である周布政之助とは互いに酒癖の悪さをからかった書簡が残されている。また、自ら鯨海酔侯と名乗った元土佐藩主の山内容堂とは酒や骨董品の話題で意気投合し、維新後は柳橋まで遊びに行く仲になった。ちなみに木戸は京都御所内廊下で酔いつぶれたことがある。
  • 書き魔であり、明治元年から息を引き取る明治十年までほぼ毎日の日常や心情を赤裸々に書いた木戸日記が残っている。


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