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朴正煕

ぱくちょんひ

朴正煕とは、韓国の軍人、政治家。大韓民国第5〜9代大統領(1917〜1979)。現在まで歴代韓国大統領で唯一、在任中に暗殺された人物である。
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「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」

(『朴正煕選集2 国家・民族・私』より)


概要

韓国軍人政治家。1963年から1979年の暗殺まで大韓民国第5〜9代大統領を務めた。大統領在任時には「維新体制」を標榜する独裁体制を敷き、反政府派に対し苛烈な弾圧を行う一方、「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を現出させた。彼の統治は20世紀後半のアジアでしばしば見られた「開発独裁」の典型例とされている。


死後、彼の出身地である慶尚北道亀尾市には生家と偉業を称える記念館が建てられている。


経歴

1917年11月14日、朝鮮半島南部・慶尚北道上毛洞(現:亀尾市)の貧しい農家に生まれ、教師を経由して満州国の士官学校に入り満州国軍人となる。戦時中は満州国軍人の身分のまま東京の陸軍士官学校に留学した。当時は「高木正雄」の日本名を名乗った。


第二次世界大戦末期に満州へ戻り、終戦で満州国崩壊後は、アメリカ軍政庁が設置した警備士官学校に入り軍人となったが、一方で共産党に通じており逮捕されるが南朝鮮労働党の内部情報を提供して釈放される。


1961年5月16日に陸軍少将となっていた彼は軍事クーデタを起こし政権を奪取、軍事独裁政権をうち建てる。


1963年には大統領に就任し、これより1972年の憲法改正を経て暗殺までの1979年までを「維新体制」や「第三・第四共和国体制」と呼ばれる独裁政治の時代を迎えた。岸信介児玉誉士夫らの関係をてこに日韓両国の反対を押し切って日韓基本条約を締結、植民地時代の補償を名目に日本から巨額の資金援助を引き出す。ベトナム戦争にも派兵し、アメリカからの援助を引き出した。韓国は日米両国の支援を原資に「漢江の奇跡」とよばれる経済発展を成し遂げる。


なお、ベトナム戦争で韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、後にこのことが国際問題化する。韓国内でも苛烈な反対派への弾圧を行い、多数の者が拷問で命を落とした。特に中央情報部 (KCIA)が、朴の政敵の金大中を東京で拉致・監禁した事件(金大中事件。日本側が察知したことにより金大中はソウルで解放された)は日本でも大きく取り上げられた。

金大中に関しては1971年の大統領選挙に立候補した際、朴圧倒的な情勢ながら95万票差の次点につけ、金大中の地盤である全羅地方だけなく首都ソウルとその近郊の京畿道で得票数が朴を上回っていた事でその存在を警戒されており、選挙直後には金大中の乗る車にトラックが衝突し側近ら3名が負傷、自身も腰と股関節に障害を負わされるという暗殺未遂事件が起きている。


1974年に北朝鮮の工作員であった在日韓国人に命を狙われ(文世光事件)、妻の陸英修が死亡する。この時朴は、日本が中華人民共和国との関係を深めていた事や事件に使用された拳銃が大阪市内の交番から盗まれたものであった事によって不信感も重なり、日本に対する怒りに燃えていたという。


その後は娘の朴槿恵ファーストレディーを務めた。


しかし1979年10月26日、KCIA所有の秘密宴会場で、側近であったKCIA(韓国中央情報局)部長・金載圭に射殺された。享年61。


暗殺事件

朴は当時の韓国で盛り上がりを見せていた学生運動に対し、軍の投入も辞さないなど強硬であり、金は「学生運動への対処が手ぬるい」として日頃から叱責されていた。一方で朴に同調するもうひとりの側近であった大統領府警護室長・車智澈を重用しており、金は両人に恨みを抱くようになった。


暗殺当日も、朴は宴席で、釜山及び馬山で起きた暴動(釜馬暴動)の処理を巡る件で金に長時間の叱責を行なった。同席した車も追従して金を責めた。叱責を受けた金は中座後、外で待たせていた部下二人に朴の暗殺決行を告げ、銃声がしたら入り口を警護する車の部下を始末するように告げた。そして、席に戻ったあと、金は


閣下、こんな虫けらのような奴を連れて、政治がちゃんとできますか?


と一言述べたのち、まず拳銃を車に向けて発砲、車は腕を撃たれ、この時点ではまだ生存していた。金の蛮行に朴は「何をしている!」と叫ぶも、金は続いて朴に対し発砲し、朴は胸を撃たれ卒倒。金は追い討ちで頭を撃ち抜くところで拳銃が故障、外にいた部下から拳銃を借りるべくいったん外へ出、拳銃を借りて戻ったところで最初に撃った車が大統領を置いて逃亡しようとするところで車を射殺し、さらには倒れていた朴の頭を撃ち抜いたのだった。

後にこの事件は発生日より『10.26事件』とも呼ばれる。


朴を射殺した金載圭とその部下は、当時秘密宴会場に別に来ていた韓国陸軍参謀総長の鄭昇和大将の元を実行犯であることを隠して訪れると彼と共に会場を離れるが、何故か不明だが自身の牙城であるはずのKCIA本部ではなく陸軍本部に向かい、鄭大将に戒厳令布告を迫った。しかし金載圭自身に軍上層部へのパイプがあまりなかったことも災いして説得は失敗し、宴席にいた大統領秘書室長・金桂元の証言で犯行が露見したことで、朴の子飼いで当時陸軍少将だった全斗煥率いる国軍保安司令部(韓国軍の防諜部隊)によって逮捕され、翌1980年に処刑された。


この経緯については2016年の娘朴槿恵と崔順実の関係にまつわるスキャンダルが浮上した際、崔順実の父親である崔太敏と朴槿恵の親密な関係に関し、崔を遠ざけるよう進言したところ朴正煕は崔を擁護する立場をとり、金に対し家族の関係に口を挟むなと叱責され聞き入れられなかった事で恨みを抱いたという金の法廷での主張が取り上げられた。

なお、この暗殺事件には秘密裏に研究が進められていた核開発疑惑や強権的な姿勢に対し批判的なアメリカによる朴排除の意向があったという説も存在している。


朴の死後、政権の中枢を占めた軍部・KCIA・大統領府警護室のうち、KCIAはトップが大統領暗殺班となったこと、警護室はトップが殺害されたことでそれぞれ影響力を失い、暗殺事件に伴い布告された戒厳令下の中、戒厳司令官となった鄭昇和と事件の合同捜査本部長となった全斗煥が権力を握ることとなる。そうした中、鄭昇和は事件の捜査方針に加え、更には全斗煥率いる軍内派閥「一心会(ハナフェ)」の排除を試みたため全斗煥と対立していった。

一方で鄭昇和は事件当時現場にいながら即座に金載圭を逮捕しなかったのだが、それが仇となってしまう。同年12月12日、全たちハナフェのメンバーは麾下の兵力を動員して粛軍クーデターを実行、鄭昇和は朴暗殺の共犯容疑をかけられて逮捕されてしまった。当時大統領の崔圭夏は軍部に疎かったためこのクーデターを黙認せざるを得ず、ハナフェが軍、ひいては政権の実権を握ることとなった。


こうして実権を掌握した全斗煥は翌1980年5月17日、非常戒厳令拡大措置を実行し、これに反発する形で起きた光州事件を武力弾圧して鎮圧。既に実権を失っていた崔は同年8月に軍の圧力に耐えきれずに辞任し、9月に全斗煥は後任の第11代韓国大統領に就任した。

その後、全斗煥率いる新政権は憲法改正を実施し、翌1981年に全斗煥が第12代韓国大統領となったことで、本格的な第五共和国体制が発足することとなる。


彼が遺したもの

力によって大統領となり、力によって最期を迎えた朴正煕だが、彼がもたらしたものは今も韓国の基軸となっている。

彼が掲げた「国籍ある教育」の名の下に作られた国定教科書などによって、反日イデオロギーが国に根付いた

それによって自尊心が育まれて自信が付いた国民は、自国を誇りに思うようになった。

更に彼が行っていた親日のフリをする用日は後の政権にも脈々と受け継がれており、日韓通貨スワップ慰安婦問題日韓合意などのような国益に繋がっている。


関連タグ

韓国 韓国大統領 軍人 政治家 独裁者 岸信介 暗殺

朴槿恵...朴正煕の娘で2013年に大統領となった。

韓国起源説...国籍ある教育の副産物の一つ


田母神俊雄...現在の日本におけるそっくりさん


外部リンク

朴正煕 - Wikipedia

漢江の奇跡- Wikipedia

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