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柴田政人

しばたまさと

JRAに所属していた元騎手・元調教師。2014年に騎手顕彰者に選ばれている。(1948-)
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概要


生没年1948-
所属美浦
騎手1967年-1994年
調教師1995年-2019年

出生から少年期まで

1948年8月19日、青森県上北郡上北町に生まれる。実家は米作兼馬産農家を営んでおり、その三男として生まれた。家業の関係から幼少期より馬に親しみ、また実家の近所には後に南関東競馬の伝説的名騎手となる佐々木竹見の実家があり、交友があったという。


家族にも競馬関係者が多くおり、叔父に柴田不二男(1956年桜花賞優勝騎手、のち調教師としてライブリマウントを管理)や、不二男の元で騎手となった次兄・柴田政見(調教師転向後は2010年中山大障害マーベラスカイザーを管理)、そして長兄の息子で自身の甥にあたり、2022年現在最年長騎手となっている柴田善臣がいる。


自身も自然と騎手を志し、1963年、東京・馬事公苑の騎手養成課程を受験することになる。ところが落馬事故を恐れた両親からの激しい反対を受けるが政人は「兄(政見)は許したのに、なぜ俺はダメなのか」と抵抗、最終的に父から「一人前にならなかったら絶対に家の敷居を跨がせない」と半ば放逐される形となり、1964年に作田誠二と同じ汽車で上京、馬事公苑の騎手養成長期課程に入った。


当年騎手課程に入った第15期生には、後に9年連続のリーディングジョッキーとなり「天才」と称される福永洋一、中央競馬通算最多勝記録を樹立する岡部幸雄、東京優駿(日本ダービー)や天皇賞(秋)を制する伊藤正徳らがおり、後に政人も含め「馬事公苑花の15期生」と称された。当時の教官によれば、福永、岡部は先天的に騎手向きの「達者型」、柴田は努力で上達する「上手型」であったという。とりわけ、岡部とは同世代かつ同じ関東所属となり、騎手時代では最高のライバルとなった。


騎手時代

1960-1970年代

3年の修習期間を経て、1966年中山競馬場白井分場(現在競馬学校)に厩舎を構える高松三太の門下生となる(高松はかつての関東所属の騎手で、引退後調教師に転身し、開業2年目の新進だった。)が、同年の卒業年次は騎手免許試験に落第してしまい、1年の浪人を経て1967年に騎手免許を取得。同年3月に騎手デビューを果たし、5月に初勝利を挙げた。


初年度は騎乗数も少なく8勝に終わったが、2年目には23勝を挙げ、そして4年目に入った1969年厩舎期待馬で、政人にとっては最初の名馬ともいえるアローエクスプレスに騎乗。9月の新馬戦、1勝クラス戦に勝利するも、本番の京成杯3歳ステークス朝日杯3歳ステークスは当時関東のトップジョッキーだった加賀武見に乗り替わられるが、いずれも勝利を挙げた。翌1970年の牡馬クラシックでは関東のエース格とされ、政人はそのアローエクスプレスで年始の初戦である京成杯を勝ち、重賞初勝利を挙げた。


しかし、3月の皐月賞トライアルであるスプリングステークスで、関西のエース格・タニノムーティエの2着に敗れると、若い柴田の騎乗に不安を抱いたアローエクスプレスの馬主・伊達秀和の意向で、クラシック初戦の皐月賞を前に、同馬で朝日杯を勝った加賀武見へ乗り替わり、政人は降板となってしまった。この降板を告げられたあと、店で深酒をした後、所属する高松調教師の元に向かって涙ながらに「俺の騎乗の何がいけなかったんだ、言ってくれ。」と殴られる覚悟で問い詰めるが、高松も涙を流しながら「俺が一番お前を乗せてやりたいが、馬主もファンも許さない。アローは日本一になれる馬だから、日本一の騎手を乗せる。悔しかったら加賀を超える騎手になるんだ。」と諭された逸話があり、騎乗馬確保もままならない若手騎手の苦難を示す例として現在もよく語られている。そのアローエクスプレスは加賀騎乗で皐月賞は2着、日本ダービーは5着といずれもタニノムーティエに、菊花賞はダテテンリュウの9着と敗れ、鞍上が政人に戻った有馬記念ではスピードシンボリの4着に終わり、翌1971年スプリンターズステークスの4着を最後に現役を退いている。


そのアローエクスプレスの最後の年となった1971年には35勝を挙げており、全国ランキングで初のベスト10入りを果たす。しかしこの成績に慢心してしまったためか、翌1972年は18勝に終わった。これを受け、翌1973年、師である高松より「馬を集めてやるから、1ヶ月だけでも関東リーディングを獲ってみろ」と諭され奮起、これに応えて61勝を挙げ、初の関東リーディングジョッキーとなった(当年高松も48勝を挙げ関東のリーディングトレーナーとなる。)この頃より高松厩舎に有力馬を預ける馬主が増え、これに伴って厩舎の主戦である柴田の成績も上位で安定していく。そしてデビュー12年目の1978年、厩舎所属馬のファンタストで皐月賞に優勝し、八大競走初制覇を果たす。同馬はアローエクスプレスと同じく伊達秀和の所有馬であり、アローエクスプレスの甥に当たった。しかしファンタストはダービー10着後、秋に向けて巻き返すべく函館記念で3着と好走した10日後に腸捻転を起こして急死、政人もその最期を看取ることになってしまった。


加えて同年8月、師である高松が肝臓癌に冒されていることが判明し、翌1979年1月に死去してしまう。これに伴い厩舎が解散することになるが、高松の親友であった境勝太郎厩舎に一時移籍し、3月に三太の長男で父の元で調教助手を務め、政人とも長い交友がある高松邦男が調教師となって父の厩舎を引き継ぐこととなり、邦男の厩舎開業と共に再移籍し、以後引退まで邦男厩舎に所属した。また、同年3月には同期生の親友・福永洋一が毎日杯の競走中に落馬し、騎手生命を絶たれる事態にも遭遇している。


1980年代

1980年天皇賞(秋)で牝馬プリテイキャストに騎乗して史上に残る大逃げを打ち、11頭立て8番人気での優勝という快挙を成し遂げる。1981年桜花賞ブロケード(これも前述の伊達秀和所有)で勝利し、1983年にはキョウエイプロミスで天皇賞(秋)2勝目(ちなみに同年が芝3200mでの最後の施行だった。)を挙げる。同馬とは続く国際招待競走・ジャパンカップでもスタネーラの2着に入り、同競走での日本馬初連対を果たした。しかしその6日後の12月3日、中山競馬第4競走での騎乗中に内埒に衝突し、右足に重傷(薬指を失う)を負う。3ヶ月の休養後の1984年に復帰。騎座に重要な足指の怪我で影響も懸念されたが、前年を上回る76勝を挙げて健在を示した。


1985年には牡馬クラシックにてミホシンザンに騎乗。皐月賞と菊花賞の二冠を制し、また当年は101勝を挙げ、自身初の年間100勝を達成。翌1986年4月6日には、史上8人目の通算1000勝も達成した。翌1987年はミホシンザンで天皇賞(春)に優勝し、柴田騎乗馬では最高の実績を残した。同年、自身初の海外騎乗でオーストラリアに向かい、現地で勝利を挙げている。


1988年には第8回ジャパンカップでシェイディハイツに騎乗し、同レースでは初めて日本国外調教馬に日本の騎手が騎乗する記録を作った。また同年には年間132勝を挙げ、15期生として福永洋一、岡部に次ぐ全国リーディングジョッキーとなった。以後、関東では政人と岡部、当時の通算最多勝騎手だった増沢末夫が毎年リーディングを争い、1990年代にかけて「ジョッキーを目指してくる人は、目標は岡部君か柴田君というケースが圧倒的」と小島太が評したほどの関東は岡部幸雄・柴田政人の2大看板騎手の時代だった。


1990年代 - 引退

1989年の秋シーズンからは武豊に代わってイナリワンに騎乗し、オグリキャップスーパークリークと激闘を繰り広げたが、同年の有馬記念を2.31.1のレコードタイムで制し、政人にとって初の有馬記念制覇だった。


この頃から夏場にイギリスフランスに海外騎乗に向かい、1990年にはアサティスでキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに騎乗、3着という成績を残した。その後アメリカでも騎乗し、この頃より若手騎手に対して積極的に欧米に出て厳しいレースを実体験し、その技術を採り入れるよう進言を始めている。


1991年6月9日と7月7日には、それぞれ通算1万回騎乗(史上4人目)と1500勝(同3人目)を達成。1993年3月には日本騎手クラブ会長を務めていた郷原洋行が騎手引退に伴い、その後任を務める。ラフプレーに伴う落馬事故による騎手の落命・引退に数々接してきた経験から、会長として特にレースにおける安全確保と、騎手のフェアプレー徹底の意識浸透に力を注ぎ。また政人自身の要請により副会長は岡部が務め、後に会長職も引き継がれた。


騎手会長就任から2カ月余りを経た5月30日、政人はウイニングチケットに騎乗して長年の目標としていた日本ダービーを制覇。デビュー24年目・通算19回目の騎乗でダービー初勝利を果たした。ウイニングランの最中には約17万人の観客から「政人」コールでの祝福を受け、競走後のインタビューにおいては、「この勝利を誰に伝えたいか」との質問に対し「世界中のホースマンに、第60回日本ダービーを勝った柴田政人ですと伝えたい」との言葉を残した。当年、1988年以来の三桁勝利となる113勝、さらに年間616回の騎乗で戒告・減点なしという成績を残し、野平祐二以来36年ぶりの特別模範騎手賞と、ユネスコ日本フェアプレー賞実行賞を受賞した。


1994年は前年からの好調を維持し、年頭からランキングのトップを占め続けた。しかし4月24日、東京競馬第6競走において騎乗馬コクサイファーストが骨折・転倒し、自身も頭から馬場に叩き付けられる事故に遭遇。この事故で頸髄不全損傷ならびに左腕神経叢損傷という重傷を負い、休養を余儀なくされる。リハビリの後、8月11日には調教に騎乗する程度まで回復を見せたが、レースにおいて以前通りの騎乗ができないとの理由で、同年9月6日に現役引退を表明した。

翌1995年2月16日に調教師試験に合格し、同年2月26日を以て騎手を引退。中山競馬場にて引退式が行われた。引退までに優駿牝馬をついに勝つことはできず、八大競走完全制覇にはあとひとつ届かなかった。


調教師として

1996年3月3日、調教師として管理馬初出走を迎え、その後初勝利を挙げるが、定年までに厩舎での重賞勝利はなかった。


しかしその一方で石橋脩2012年天皇賞(春)をビートブラックで勝利。)を所属騎手として育て上げている。


2014年、JRA60周年事業の一環としてホースマンの殿堂にあたる調教師・騎手顕彰者制度において、騎手部門で顕彰者に選出された。


2019年2月28日付けで定年により調教師を引退した。


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