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栗城史多

くりきのぶかず

栗城史多とは、よしもとクリエイティブ・エージェンシーと業務提携を結ぶタレントであり、登山家である。(ただしプロの登山家からはあまりにも実力が低いことから登山家と認めていないことが多い)

概要


「日本人初となる世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂に挑戦している」と言われているが、七大陸の中で無酸素登頂が評価されるのはエベレストだけであり、また七大陸最高峰制覇も日本人の無酸素でのエベレスト登頂は1983年の川村晴一らによって達成されて以降、2010年までに7名が成功している他、世界的には初の無酸素登頂が成された1978年から1995年までに、延べ70名の登山者によって達成されているものであり目新しいものでもない。

「冒険の共有」を謳い上手いことスポンサードを受ける事に定評があり、度重なる失敗にもかかわらずスポンサーを得る能力は持ち合わせていることから人望及び商才は持っていたまたpixivにおいても「栗城さんエベレスト」という企画があってそれなりの投稿数があるので人としてはそれなりの魅力的な人物であったと思われる。



ただ、高所登山に限らず登山家としての能力・技術は一般人程度かそれ以下と言われており、登山界では扱いづらかった。例としては山岳雑誌『岳人』の編集部員の服部文祥は栗城の実力を「3.5流」とテレビ番組で評したほか、「栗城さんの実力と、掲げる目標の乖離は、度を超しすぎている」「両手の指9本の第2関節から先を失ってしまって、エベレストの南西壁という絶壁を登ることなど、わざわざ命を捨てに行くようなもの」と称されている…一応エベレストを除く七大陸最高峰は登頂しているが…



無謀な彼の山行は2009年以来続けていた無謀で無計画なエベレストへの万歳アタックである。

そもそも栗城は高所登山に耐える能力と状況判断力が欠けていたため、他の登山家からは「彼はまだ8000mまで上がっていないが、もし彼が8000m以上の高度へ行けば間違いなく命を落とす」と言われていた。

その後再三にわたり難易度の高いルートに自称『単独』で挑み、その度に失敗しては『偶然現れた』シェルパやポーターに救助されている。めげずにというか懲りずに無謀な挑戦を挑む姿は(登頂する気があるとすれば)さながらドン・キホーテのようであった。4度目の挑戦では凍傷により後に手の指9本を喪うも諦めない。そんな彼の悪運も8度目の挑戦でついに尽きてしまう。


2018年5月21日、体調を崩しキャンプ2へ降りるもその後連絡が途絶え、その後キャンプ2へ向かったポーターに死んでいるところを発見された。山の道標となり得る事もなく、キャンプ2という、6400mの超高所とはいえ、エベレストにしては凡な場所で亡くなるなんとも哀れな最期だった。


栗城は16年の冬にホノルル・マラソンに出場するも6時間越え(参考までに、30代男性の平均タイムは5時間半程度)というとんでもない記録を残しており、身体能力に対する疑念が深まった状態でエベレストに更に2回も向かっていたのだが、亡くなった後日に過去国内のマラソンに参加し、足切り(=制限時間切れ)を受けていたことも発覚した。


その死についても事務所からの発表が「テントの中で見つかった」から「滑落した」に訂正されたが、遺体と一緒に運ばれた本人のザックが滑落にしてはきれいな状態で写真に写っており、死にまで疑念を持たせることとなった。

いったいなにが死に急がせたか…

彼は自身の登山の様子を動画配信するなど、従来の登山家のイメージには収まらない型破りな活動を続けそして多くのスポンサーを得てそしてエベレストを挑戦した…本来は数回失敗したら諦めるのが懸命であったであろうが彼は多くの人から期待を寄せていたため、たとえ自分の実力がかなり低かろうと後に引けなかったようである…今日だって似たような状況もあるだろう…(例えば第一志望校に受かるまで多浪するとか、売れるまで芸術系の仕事を続ける)よって彼のことは決して他人事ではないのだ…彼がもしあの時懸命に諦めていたらこんな無謀な挑戦もせずに今日も生きていたと考えると無念でしかならないだろう…我々も用心すべきである…そう彼の死を無駄にしないために…

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