概要
1977年に騎手デビュー。1997年に騎手引退。調教師に転身、1998年に厩舎を開業した。
プロフィール
騎手に目覚めるまで
都電荒川線梶原停留所の目の前に位置する古書店「梶原書店」(2021年閉店)の子息として産まれる。騎手になった理由は、父が競馬好きでたまたま場外馬券売り場で見た騎手候補生募集の告知を見て勧めた事がきっかけである。1971年に馬事公苑長期騎手過程22期生として入所。同期には日本ダービーをシリウスシンボリで制した加藤和宏騎手(現調教師)、同年の桜花賞をエルプスで制した木藤隆行騎手(現調教助手)らがいる。そしてこの3人は普段から仲がいい上に同時期に揃ってGⅠ競走を制したことから「仲良しGⅠトリオ」とも呼ばれている。(ただし口さがない方からは三バ○大将とも呼ばれていた)長期騎手過程卒業後に騎手デビューまでに3度落第(落第自体は別段珍しい事ではない)したが21歳の時に第13回日本ダービーをカイソウで制した橋本輝雄厩舎所属よりデビューすることになった。
障害騎手として名を上げる
障害飛越は同期の中でも不得手な部類だったが、稀代の障害馬バローネターフに騎乗し1979年の中山大障害春秋連覇を達成。その後も1981年の中山大障害(春)をナカミショウグンで制した。ただし、障害競走の通算騎乗数は44回とそれほど多いわけではない。
ボヤボヤしてると後ろからバッサリだ!!
時を経て1985年の秋の天皇賞… 急遽出走を表明したギャロップダイナに
騎乗することになった。その経緯もそれまで騎乗していた騎手がことごとく
他馬に騎乗する事が決まっていた事と、調教師同士が兄弟弟子の関係という理由である。
ギャロップダイナ自体も新馬戦以降は芝での勝利はなし…
挙句の果てには東京競馬場へ向かう車中で加藤和宏騎手と「勝ったら副賞の車をトンカチで叩き潰そうや」と軽口をたたいていたくらいである。
しかし結果は…「皇帝」シンボリルドルフを本当に後ろからバッサリしてしまい天皇賞ジョッキーとなった。
メリーナイスとともに…
翌1986年には自厩舎のメリーナイスで朝日杯3歳ステークス(現朝日杯ヒューチュリティステークス)を制覇。この時にヨーロピアンスタイルの騎乗を披露したが却って馬の推進を妨げていると批判もあった。そして翌年の日本ダービーを制覇し、師匠・弟子と2代ダービー制覇を達成した。しかし、菊花賞では惨敗し有馬記念ではスタート後に落馬。翌年の函館記念では1歳下のサッカーボーイの2着に入るも内容は完敗に終わった。以降はブリザード、トモエリージェントなどに騎乗したがかつての輝きを取り戻すことはなかった。
調教師転身
引退前は高市圭二厩舎に所属し1996年度の調教師試験に合格。1997年2月23日の騎乗を以て騎手引退となった。なお、前年の1996年12月14日に開催された4歳上900万下戦で降着、騎乗停止となっている。
調教師転身後
1998年に厩舎開業。ここまで4名の弟子を受け入れ3名が現役である。近年では多くても所属騎手は2名までという中では異例の事である。「馬を育てると同時に人も育てる」という師の競馬への愛情の賜物でもある。
余談
- ジョッキーマスターズの開催は根本師の尽力による部分が非常に大きい。根本師本人も第1回ジョッキーマスターズにメリーナイスの勝負服で参戦したが結果は最下位の9着だった。
- 厩舎所属の藤田菜七子騎手の活躍により、2016年の競馬界を盛り上げた点を評価され特別表彰の対象となった。
- 1988年に公開された映画「優駿 ORACIÓN」にオラシオンの主戦騎手役で出演している。