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樋口季一郎

ひぐちきいちろう

樋口季一郎は、大日本帝国陸軍の軍人で、最終階級は中将。大勢のユダヤ人難民を救出し、ソ連による北海道占領計画を阻止した。
目次 [非表示]

概要

1888年8月20日生 - 1970年10月11日没

大日本帝国陸軍軍人で、出身は兵庫県淡路島

歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長など、多くの役職を歴任し、最後は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官を務めた。最終階級は中将


経歴

陸軍士官になるまで

1902年に大阪陸軍地方幼年学校へ入学した後、1907年に陸軍士官学校へ進み、同時に東京外語学校においてロシア語の習得に努め、1909年に陸軍士官学校を卒業して歩兵少尉に任官し、歩兵第1連隊附となる。

陸軍士官任官後

1913年2月に中尉へ昇進、1918年11月には陸軍大学校を卒業し、1919年7月に大尉へ昇進した。

大尉へ昇進した後、陸軍士官学校時代に習得したロシア語の能力を買われ、ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附となってシベリア出兵に出征した。

このシベリア出兵への出征は、樋口の軍歴における転換点であり、以降は中将に昇進するまで、ほとんどの期間を戦闘部隊ではなく、情報将校としての勤務をすることになる。


少佐時代の1925年には在ポーランド日本公使館附の駐在武官としてポーランドへ赴いている。

1928年8月に中佐へ昇進した樋口は、1929年8月から約1年間、技術本部附として陸軍省の新聞班員をしている。


1933年3月に大佐へ昇進して東京警備司令部附、同年8月には歩兵第41連隊長に任命され、1935年8月の人事異動で参謀本部附になる。

この参謀本部附になった直後、歩兵第41連隊長時代の部下が陸軍軍務局長殺害事件を起こしたため、上官に進退伺を提出しているが、これは慰留され、左遷という形で第3師団参謀長としてハルピンへ赴任することになる。


ユダヤ人救出

第3師団参謀長としてハルピンへ赴任した樋口は、1937年3月にドイツ出張のために参謀本部附となった後、同年8月に少将へ昇進、ハルピン特務機関長に任命される。

このハルピン特務機関長を務めていた1938年3月、彼を語る上で欠かせないオトポール事件が発生する。


経緯は、当時、アドルフ・ヒトラーが率いるナチスドイツが進めていたユダヤ人弾圧政策において、迫害から逃れるためにユダヤ人シベリア鉄道ソ連を横断し、満州国との国境沿いにあるオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで避難してきたというものである。

これについて、亡命先へ到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国許可を渋ったことで足止めされていて、その惨状を見かねた樋口は、直属の部下であった河村愛三少佐らとともにユダヤ人たちに対し、即日で給食を行い、衣類・燃料を配給、要救護者への加療を実施し、更に膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋などを行った。


この樋口の行為に対し、当時の駐日ドイツ大使がドイツ外相の抗議文書を携え、「ドイツ国家と総統の理想に対する妨害行為だ。日独国交に及ぼす影響少なからん。」と日本政府に抗議したことによって、陸軍内部では樋口に対する批判が巻き起こり、関東軍の内部では樋口の処分を要求する声が上がった。

しかし、樋口は関東軍司令官である植田に次のような書簡を送った。

小官は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。


この書簡がまた火種を呼び、ついに当時の満洲国関東軍参謀長である東條英機が樋口に出頭命令を下す。

東條のもとへ出頭した樋口は、そこでも次のように語った。

ドイツのユダヤ人迫害という国策は、人道上の敵であり、日本満州の両国がこれに協力すれば人倫の道に外れることになります。ヒトラーのお先棒をかついで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか

彼の話に納得した東条は「当然なる人道上の配慮により行なったものである」としてドイツの抗議を一蹴し、オトポールにおける樋口の行為を不問とした。

その後、関東軍におけるオトポール事件に係る対応の方針が確定したことで事態は沈静化、同年7月に樋口は参謀本部第二部長に栄転した。


この出来事は多くのユダヤ人を救い『日本のシンドラー』と呼ばれた有名な外交官である杉原千畝『命のビザ』の逸話より2年前のことである。


太平洋戦争

オトポール事件の絡みで参謀本部第二部長に人事異動となった樋口は、1939年に発生したノモンハン事件に際し、停戦工作に従事している。

1939年10月に中将へ昇進し、第9師団長に任命された。

その後、1941年12月に太平洋戦争が開戦する。


キスカ島撤退作戦

1942年6月、日本陸軍は、北海道に拠点を置く北部軍を動員し、作戦計画に従ってアラスカ準州のアッツ島とキスカ島を占領した。

その約2か月後の1942年8月1日、第9師団長であった樋口は北部軍の司令官に任命され、占領中のアッツ島とキスカ島を含む北海道、南樺太、千島列島戦域の指揮官になる。

占領が継続される中、1943年2月に北部軍は北方軍に改組。

1943年5月12日にアッツ島へアメリカ軍が上陸すると、その9日後に大本営はアリューシャンの占領地域の放棄を決定、同年5月30日にはアッツ島の日本軍守備隊が全滅して陥落した。これを受け、樋口が作戦立案を主導していたキスカ島からの撤退作戦が実施される。


最初は潜水艦で補給物資を運びつつ撤退させていたが、作戦に従事する潜水艦の損害が増すに至り、約800名を収容したところで水上艦艇を使用しての大規模な撤退作戦に変更、1943年7月29日にキスカ島から軍用犬二匹を残し、5,000名以上を一挙に収容して撤退を完了させた。

キスカ湾への突入が実施された日は、キスカ島周辺は濃霧でアメリカ軍は哨戒の航空機を出せず、さらにアメリカ軍は監視の艦を残すことなく海上の包囲を解いていたことでアメリカ軍関係者に日本軍が撤退したことを確認した者がおらず、無人の島へ攻撃に赴いた米軍機のパイロットからの誤認報告に振り回され、1943年8月15日に上陸したアメリカ軍は日本軍がすでに撤退済みであることに気づかず、疑心暗鬼の末に同士討ちする。

この上陸作戦であるコテージ作戦はアメリカ軍史上最悪の軍事訓練と揶揄された。


この後、1944年3月に北方軍は第5方面軍の編成に伴って廃止、樋口は新たに編成された第5方面軍司令官に任命され、1945年2月に北部軍管区司令官を兼務することになり、終戦までこの戦域の指揮にあたることになる。


占守島防衛作戦

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏。以降、武装解除を命じられていたが、日ソ中立条約を破棄したソ連が日本への侵攻を日本が降伏した後も続けたため、占守島へ上陸してきたソ連軍に対し、防衛戦闘を名目に独断交戦。ソ連によって北方領土まで奪われるが、アメリカ軍の北海道占領が間に合って防衛に成功し、北海道がソ連に占領されることを防いだ。

このときソ連は北海道を分断しようとしていたたが、樋口による抵抗により、その計画を阻止することに成功した。


戦後

ソ連の首脳・スターリンは樋口を戦犯指定したが、樋口に救われたユダヤ人たちによる猛抗議の末、結局引き渡しをGHQ司令官・ダグラス・マッカーサーに拒否された。


備考

同じく日本人でありながら国の命令に背いてユダヤ人を救った杉原千畝と比べて知名度が低いのは、外交官か軍人であったかの違いであろう。


ユダヤ人を救い、絶体絶命の窮地に立たされた同胞を救い、分断の危機から日本を救ったまさに救国の英雄とも言える人物である。


関連タグ

大日本帝国陸軍 軍人 占守島の戦い

ユダヤ人 救助 杉原千畝

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