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横浜ベイスターズ

よこはまべいすたーず

横浜DeNAベイスターズの旧称。1993年から2011年までこの名前であったことから、このタグで投稿されたイラストもpixivでは存在する。
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本記事では、1993年~2011年までの球団の歴史について記述する。

1977年までの歴史については「大洋ホエールズ」を、1978年から1992年までの歴史については「横浜大洋ホエールズ」を、

2012年以降については「横浜DeNAベイスターズ」の記事を参照。


球団史

「ハマの大魔神」と躍進の時代

1992年、大洋漁業は「マルハ」へと社名を変更。それに伴い、保有していたプロ野球の球団名を「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」に改称し、新たなスタートを切った(実は、「横浜ホエールズ」になる予定もあったそうだが、商業捕鯨が禁止されたことから「もう捕鯨に頼る訳にはいかない」ということになりベイスターズになったとのこと)。

ベイスターズ初代監督には、1960年の優勝メンバーだった近藤明彦が就任した。近藤は、バントやスクイズといった緻密な采配を好んだが、采配がワンパターンだと揶揄されたこともあった。

93年は5位に終わり、同年オフ、チームカラー刷新を名目に、長年チームに貢献した高木豊屋鋪要市川和正ら6選手を一挙に解雇(他に斉藤明夫や長内孝も引退。)。これは、この年に導入されたFA制度で駒田徳広を獲得する資金を工面するためとも言われていた。

新たな血や若手主体に切り替えた1994年は、世の中が10.8決戦に沸く陰で、ヤクルトとの負けた方が最下位という逆天王山に挑んだ。結果はヤクルトに敗れ、ベイスターズとなってからは初の、そして1990年代では唯一の最下位となった。

1995年は4位となり、近藤は契約満了に伴い辞任。後任にはヤクルトOBの大矢明彦が就任した。

1996年は5位、翌1997年はヤクルトとの優勝争いに絡んで2位。


そして1998年。新たに監督に就任した権藤博の下、単打で畳み掛けるマシンガン打線と先発投手の充実、そして最後を締めるハマの大魔神佐々木主浩の大活躍で、1960年以来、実に38年ぶりとなるリーグ優勝を成し遂げる。西武ライオンズとの日本シリーズも4勝2敗で勝利し、日本一に立った。

翌1999年は、連覇の期待がかかったが、結果は3位。オフには佐々木主浩がメジャーリーグへ移籍。

2000年も3位となり、権藤は辞任。オフにはロバート・ローズが退団、駒田徳広が引退し、マシンガン打線は解体となった。

2001年に西武ライオンズの黄金時代を築いた名将・森祇晶を招聘し、3位となった(この年のみ、順位決定方式が異なり、勝率順では4位だった)。

そしてこの年オフ、かねてから森監督との確執が噂されていた正捕手・谷繁がFAで中日に移籍。チームに暗雲が立ち込めた。


TBS時代(暗黒時代)

2002年に親会社(筆頭株主)がマルハからTBSに交代。オーナー企業が変わったもののベイスターズのチーム名に変更はなされなかった。

が、このTBS時代はプロ野球史上稀に見る暗黒時代としてチームに惨憺たる結果をもたらすことになった。

それもそのはず、TBSは巨人戦の放映権が欲しくて球団を買い取ったからであり、経営自体は全くやる気のない行動ばかりが目立った。


2002年は投手陣と打線の歯車が噛み合わず、前半から最下位を独走する。その結果、森は休養となり、日本一からわずか4年で最下位に転落した。

2003年からの2年間は、OBの山下大輔を迎え、建て直しを図った。しかし、2年とも最下位に終わった(2003年には94敗も記録したが、2004年は最終戦前まで5位だったものの最終戦に敗れたことによる僅差の最下位)。

2005年には、深い投球理論を持つ牛島和彦が就任。1年目の2005年は4年ぶりのAクラスとなる3位だったが、2006年はまたも最下位。

2007年からは、大矢明彦が10年ぶりに復帰。オフに仁志敏久工藤公康寺原隼人を獲得して臨んだシーズンは4位。

2008年は、早いうちに脱落し、この年から3年連続で90敗を喫する。オフには大洋時代からの生え抜きである石井琢朗が不可解な戦力外通告を受ける。三浦大輔もFAで阪神入りがささやかれたが、三浦はそのまま残留。

ユニフォームのデザインを一新して臨んだ2009年は、再び低空飛行。交流戦前を以って大矢は休養。残りのシーズンは田代富雄が代行となった。しかし、チームを浮上させることが出来ず、そのまま田代は辞任となった。

2010年、巨人の投手総合コーチを務めていた尾花高夫を監督に招聘。チーム防御率の良化を目標としていたが、チームは3年連続で90敗。さらにオフには住生活グループ(現・LIXIL)への身売り騒動が起こるが、本拠地移転などの条件で折り合わず、破談となった。これに業を煮やした内川聖一はFAで退団。共に横浜政財界の重鎮で当時の横浜スタジアムの社長である鶴岡博や、スタジアム会長の藤木幸夫(地元の港湾・倉庫荷役事業経営者)から「横浜から出て行け!」と怒りの声も。

2011年も4年連続で最下位に沈み、尾花は無念の休養。そして、再燃した身売り騒動は、DeNAが球団を買収することで決着がついた。本拠地は移転せず、チーム名を横浜DeNAベイスターズとして再出発することとなった。


このように10年間で最下位が8度という見るも無残な成績だった。

平成初期の阪神の暗黒時代ですら10年間で最下位が6度しかないのだから、これがいかに悲惨かが分かるだろう。

これに加えてTBSは間接的に横浜市民を3人も殺害(⇒オウム真理教が起こした弁護士一家殺害事件で、発生場所は横浜市にある弁護士の自宅だった。その原因は弁護士のインタビュービデオをTBSが放送前にオウム幹部に見せた事から)して社会問題になったにもかかわらず、横浜市を拠点とする球団の親会社になるという図々しさも際立っていた。


順位の推移

順位監督
1993年5位近藤昭仁
1994年6位近藤昭仁
1995年4位近藤昭仁
1996年5位大矢明彦
1997年2位大矢明彦
1998年1位権藤博
1999年3位権藤博
2000年3位権藤博
2001年3位(※上記参照)森祇晶
2002年6位森祇晶
2003年6位山下大輔
2004年6位山下大輔
2005年3位牛島和彦
2006年6位牛島和彦
2007年4位大矢明彦
2008年6位大矢明彦
2009年6位大矢明彦→田代富雄
2010年6位尾花高夫
2011年6位尾花高夫

暗黒期エピソード

  • 低迷の責任を監督に押し付け、次から次へと招聘しては解雇の繰り返し
  • 意味不明な補強を行い、軒並み失敗
    • 外野手として入ってきた外国人が実は内野しか守れないことが判明し、1年で退団
    • シーズン途中に2番手捕手をシーズン中にトレードしたら同年オフに正捕手がFAで流失したため急遽別の捕手を他球団から獲得
  • 選手の士気も低下しろくに練習せず、ベイスボールと揶揄されるほどの拙攻・拙守
  • 選手が練習中にサッカーをして遊んでいた。またこれを証言した選手も後にサッカーをやっているところを目撃された
  • 投手のチーム内最多勝が5勝(2011年)
  • 主催試合のスタンドはガラガラ、少ない観客が汚いヤジを飛ばす環境。川崎球場時代のロッテかそれ以上とも
  • チームの勝率がチームに所属する選手(内川)の打率を下回ったことがあった(2008年)
    • その内川は後年FA移籍し、後に「(横浜を)出ていく喜び」という名言を残す
  • NPB史上ワーストとなる3年連続90敗以上、交流戦でも3年連続6勝18敗
  • 開幕前の順位予想で予想者が全員が最下位を予想し、見事的中
  • 横浜ホームの試合の中継をしているはずなのに巨人贔屓の実況や番宣をしまくる親会社

主な選手

投手

ハマの大魔神と呼ばれた絶対的守護神。背番号は22。


メジャーでの愛称は「サミー」(Sammy)。

東北福祉大学から、1991年のドラフト1位で入団。佐々木とは、高校・大学・プロと同じ道を歩み、共にメジャーリーガーとなる。

2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスに入団し8年ぶりに国内復帰、こちらもまた日本一に導いた。2015年引退。


ご存知ハマの番長。大洋時代からDeNAになるまで在籍した唯一の選手であり、2021年からは1軍監督としてDeNAを指揮している。詳細は個別記事を参照。


 PL学園時代は、立浪和義(中日)・片岡篤史(日本ハム阪神)・橋本清(巨人ダイエー)と同学年で、87年の甲子園優勝メンバーとして名を連ねる。

当初の登録名及び本名は「野村弘(のむら・ひろし)」。


ヒゲ魔神」と呼ばれた中継ぎ投手で、ベイスターズ元年に入団。同期には佐伯貴弘・戸叶尚がいる。


捕手

NPB通算最多出場記録保持者。2015年引退。詳細は個別記事を参照。


1993年に西武から移籍したベテラン捕手。98年の日本シリーズでは古巣と対決した。


谷繁が退団した後、中村と争った結果正捕手になる。2006年と移籍後の2013年にWBC日本代表に選出された。2009年~2014年までヤクルト、2015年から巨人に在籍し、2017年に引退。

相川の引退により、日本一になった1998年に横浜に在籍していた選手はすべて引退した。


2008年シーズン途中に読売ジャイアンツに移籍するが、2011年オフに復帰。2014年に阪神タイガースに移籍し、2016年に引退。


長らく中日ドラゴンズの正捕手として活躍したが、谷繁が中日にFA移籍することが決まり、このままでは出番が減るため、横浜へと入団。結果的に両チームの正捕手がトレードすることとなった。

キャリア後半では相川・鶴岡が成長し、戦力外となる。翌年、新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍するが、1年で戦力外通告を受け、この年で引退した。


内野手

2012年引退。詳細は個別記事を参照。


ポジションは主に三塁手。マシンガン打線では下位打線を打ち、「意外性の男」として、他のチームに恐れられた。

2001年オフにオリックスブルーウェーブに移籍。2003年引退。


通称「ハマのメカゴジラ。(このあだ名は、同年にプロ入りした松井秀喜に対抗するために自ら選んだもの。)また、他の選手の物真似が得意で、「ものまね王」とも呼ばれたことがある。

マシンガン打線では6番打者を打ち、相手投手によって中根仁と併用された。

2010年オフに戦力外通告を受け、翌年中日ドラゴンズに入団するが、ここでも1年で戦力外を受ける。他球団のオファーを待つが、結局声がかからずそのまま引退した。


1994年にFA宣言して巨人から移籍。外様ながらキャプテンとしてチームをまとめる。

「満塁男」と呼ばれた勝負強さは健在で、2000年に2000本安打を達成し、引退。

なお、20世紀最後の2000本安打到達者でもある。


 横浜高校出身で、松坂大輔後藤武敏らと同学年。

高校時代は中軸を任されていたが、プロでは小技を身につけ、バイプレイヤーとして活躍した。

2008年シーズン途中に中日に移籍した後、チームがDeNAになった2012年に復帰。

現役最後の試合となった2013年10月8日の阪神戦には、2打席連続でホームランを放ち、有終の美を飾った。


ご存知「男・村田」。2007年と2008年に2年連続で本塁打王のタイトルを獲得。

特に2007年は、引退登板となった広島の佐々岡真司からホームランを打ち、敵味方双方からブーイングを受けたが、佐々岡本人は、「打たれてスッキリした。」と村田を気遣い、この問題は収束した。この件以降引退試合では滅法勝負強い印象を持たれ、ネット上では「引退試合クラッシャー」などと呼ばれている。

2011年オフに、FA宣言し巨人に移籍。


同期入団の村田とは高校の先輩後輩の間柄である。

村田と並ぶ和製大砲として鳴らすが、近年では若手選手の台頭に押される形となり、

2012年オフに福岡ソフトバンクホークスへと移籍した。


外野手

入団時の背番号は51で、周囲がイチローフィーバーに沸く中では、「俺も鈴木だ。」とアピール(なお、学年は尚典が1つ上。)。

背番号を7に変えた1998年は、マシンガン打線の3番打者としてチームを牽引。同年の日本シリーズではMVPを獲得。その後は度重なる怪我に悩まされ、2007年には巨人から移籍した仁志敏久に7を譲り、自身は51に戻した。

2008年に戦力外通告を受け、一時は他球団への移籍を考えたが、「他チームのユニフォームを着ている自分を想像できない」として、そのまま現役を引退した。

なお、ハマの安打製造機と呼ばれたものの、守備でもアレな面が目立った。


入団当初は内野手だったが、権藤監督の意向で外野手に転向。

マシンガン打線の2番打者を務め、エンドランやバントでランナーを帰すチームバッティングに徹した。

2001年オフに中日に移籍した後は2004年にロッテに移籍し、同年で引退した。


当該項目を参照。


入団当時の登録名は「多村仁」

しかし、度重なる怪我に悩まされる体質であり、そのことから「スペランカー」と揶揄された。

2007年に寺原隼人とのトレードでソフトバンクに移籍したが、2013年に復帰(当時はオリックスにいた交換相手の寺原も同年にソフトバンクに復帰した)。2015年に戦力外通告を受け、中日と育成契約をするも、結局2016年に引退した。


助っ人外国人

チームがベイスターズになった93年にブラッグスと共に入団。

マシンガン打線の4番打者として活躍。不利とされる右打者でありながら、安打を重ね8年に渡る活躍を見せた。

権藤監督を「最高のボス」と慕い、権藤が退任した2000年に退団した。


ローズと共に93年に入団。こちらも及第点の活躍を見せた。


TBS時代を知るNPB現役選手

2022年時点。なお2011年のドラフト時点ではまだTBSだったが、ドラフト後の12月に「横浜DeNAベイスターズ」に変わったため、2011年ドラフト指名選手はDeNA1期生となる。



関連タグ

大洋ホエールズ横浜大洋ホエールズ横浜ベイスターズ横浜DeNAベイスターズ


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