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横田高松

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よこたたかとし

 戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎、武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。
 戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎、武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。

概要

概要

生年不明(後述)~天文19年10月1日(1550年11月9日)

戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。仮名は「十郎兵衛」で、受領名は「備中守」。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。


横田氏は家伝に拠れば、平安時代末期の武将で宇多源氏佐々木氏の当主である佐々木三郎秀義の末孫・佐々木次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、その褒賞として近江の横田川和泉村の畔に采地を受け、家号を「横田」に改めたという(因みにそれとは別に、下野宇都宮氏から派生した横田氏も存在している)。


甲陽軍鑑」によれば、高松は伊勢(現在の三重県北中部)出身といわれ、初めは六角氏の家臣として仕え、時期や事情は不明(※)であるものの、後に一族郎党を率いて近江から甲斐に入って武田信虎に仕えている。弓矢の巧者で、即座に騎馬三十、足軽百人と足軽大将の地位を与えられて甘利虎泰の相備えとなった。初めての出陣は、信虎と武田一族との戦いで、信虎の国内統一に功を挙げ、大永元年(1521)九月には駿河の今川氏親が放ち、甲斐国内を荒らし回った福島正成(「地黄八幡」として知られる北条綱成の実父)率いる15,000もの軍勢を迎え撃った際、高松は今川軍の5分の1ほどしかいない武田軍3000の先陣を切り、決死隊にも参加する等の大活躍を果たし、見事に今川勢の撃退に貢献している。戦後、信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられている。


後に信虎が嫡子・晴信に駿河に追放されると、以後はその晴信に忠実に仕え、天文16(1547)年閏7月から開始された信濃国北佐久地域の要衝である、笠原清繁が籠る志賀城の攻略戦では、高松は部隊を率いて行軍困難な城の後方へ回り込み志賀城の水手を絶って攻略に貢献、更には小田井原合戦では関東管領・上杉憲政が志賀城救援に差し向けた金井秀景率いる上杉軍3000を浅間山麓にて板垣信方、甘利虎泰と共に撃破する等、晴信の信濃侵攻に大いに活躍を果たした。


翌・天文17年2月14日(1548年)に、村上義清との上田原の戦いで板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った晴信は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に村上氏の拠点である砥石城(「戸石城」とも書く)を包囲した。この時高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍は止む無く退却を始めるが、ここで総大将・村上義清率いる村上軍が、本拠地である葛尾城から出撃、砥石城の守備軍との挟撃を企てて武田軍に襲い掛かり、武田軍は大混乱に陥る。世に言う「砥石崩れ」であるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支え、武田軍が完全に退却するまで村上軍を一手に引き受けて奮戦した末に戦死した。


生年は不明だが一説では長享元年(1487年)とあり、その場合享年は64歳となる。


(※)一説によると甲斐に入った時期は永正16年(1519年)といわれている。


子孫

子孫

横田家は高松の没後、婿養子として迎えた横田康景(別名は「横田綱松(つなとし)」。実父は「鬼美濃」または「夜叉美濃」と呼ばれた原虎胤)が後を継ぎ、上野和田城での防衛戦で上杉謙信率いる軍勢を退却させる等、養父・高松に劣らぬ活躍を果たすが、その康景も長篠の戦いで戦没。康景の嫡子である横田尹松(ただとし)が徳川家康の家臣となり、江戸時代に入った後は旗本として5000石(後に尹松の玄孫である横田準松(のりとし)の代に9500石に加増され、旗本最高位となる)を与えられ、以後横田家の血筋は途絶える事無く現在に到る事となる。


逸話

逸話

武勇に優れる一方で、甲賀者を用いて敵の動向や作戦等の様々な情報を収集、察知して武田氏の戦略に大いに貢献したと言われる。


信玄は高松の死を嘆いた際、近習の者に「武篇の者になろうとするならば、原美濃(原虎胤)、横田備中の様になれ」と言い伝えたと言われる。


小説家・新田次郎氏の代表作である「武田信玄」では、史実通り信濃侵攻にて活躍する描写があるものの、史実での最期である「武田軍の殿として討ち死にした」のではなく、無闇に佐久を攻めたてる晴信を諌めるべく、砥石城攻めの際には「叛く佐久を殺せば限りなく武田に叛き、佐久の人、悉く叛いて死に絶えても、草木が武田に叛く」といった言葉を晴信に遺した後、先陣を切って砥石城を攻め、砥石城の守衛の軍勢が落とした落石に当たって亡くなった、という最期になっている。


戦国大戦

戦国大戦

武田家の武将として参戦。上の見出し画像は戦国大戦のカードイラストがモデルになっている。


スペックはUC(アンコモン)で、コスト1.5の槍足軽、武力・統率が共に5と武将としては平均的な能力値だが、無特技なのが寂しい。更には同コストの武田家の槍は彼よりスペックが優れたり特技に恵まれた者(例:矢沢頼綱出浦守清小畠虎盛小幡昌盛)が多い為、 中々声が掛からないのが実情である。


所持計略である「水手断ち」は、敵部隊の移動速度を下げる陣形を敷くもので、士気は5と結構重いものの、陣形の範囲は横に広く、高松自身が中央にいれば戦場の両端まで完全に覆う事が出来る(その一方で、縦幅はカード1.5枚分程と狭いのだが)。


またその速度低下は凄まじく、騎馬ですら効果時間いっぱいかけてその陣形を抜けきれるかどうか、と言うほどであり、速度上昇計略や奥義を用いた場合でも速度低下によって翻弄される事もある。


しかし問題はその陣形を展開する位置で、「自身の後方」つまり自城側に陣を展開するという大変珍しいもので、他の陣計略同様に回転も出来ない為、攻め込んでいる時には全く役に立たない。


その為、計略の用途としては……、


①・引き際を間違えた敵部隊を逃がさない。

②・敵の包囲から単騎抜け出し追撃する部隊を足止めして攻城に向かう。

③・味方による速度上昇計略(例:高坂昌信の「疾風の陣」や武田勝頼の「猛進の陣」)や速度上昇奥義で味方の部隊共々、敵の攻城ラインまで一斉に駆け上がり、攻城を妨害してくる敵部隊の足止めをさせて味方の攻城を助ける。

④・敵に弓や鉄砲がいない場合、敵が高松の後方を通過したタイミングで陣形を発動させ、自城ダメージ覚悟で一方的な攻城を行い落城勝ちを狙う


といった手段があり、巧みに駆使すれば手強い存在となる武将ではあるが、如何せんその陣形を展開する位置、及び士気の多さ等によって癖が強過ぎる為、他の武将とは違って相当使い手を選ぶ武将カードとなっている。


「15XX 五畿七道の雄」のバージョンアップに伴い、カードのエラッタによって統率が一つ減ったものの、特技「気合」が追加。これにより、結果としては伏兵や妨害・ダメージ計略に対してやや弱くなったものの、特技によって粘り強く戦場に残る事が出来る武将となった。


④の使い方に関しては、敵城方向に強制前進してしまうが攻城攻撃力が大幅に上がる計略「突貫の構え」を持つ土屋昌恒が武田家に実装されたことにより、昌恒1人でも虎口や城門に到達させれば敵城の半分近くを削ることが可能になり、突貫落城を狙う場合のキーカードとして高松が注目されるようになった。


「1582 日輪本能寺よりいずる」のバージョンアップでは、兵力が少ない程、武力と突撃ダメージと槍撃ダメージが上がるという全体強化計略「万死一生」を持った2枚目の勝頼が実装。武田家には1,5コストの気合持ちは少ない為、高松のスペックだけでも採用するケースが増えている。


殿軍は、俺に任せな。

大将、あんたは生きるんだ!


余談

余談

名前の読み方が間違われ易い人物であり、一部の関連書籍等では「たかまつ」とルビを振られる事もある。


関連項目

関連項目

戦国時代 戦国武将 戦国大戦 武田信玄 甘利虎泰 板垣信方

概要

概要

生年不明(後述)~天文19年10月1日(1550年11月9日)

戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。仮名は「十郎兵衛」で、受領名は「備中守」。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。


横田氏は家伝に拠れば、平安時代末期の武将で宇多源氏佐々木氏の当主である佐々木三郎秀義の末孫・佐々木次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、その褒賞として近江の横田川和泉村の畔に采地を受け、家号を「横田」に改めたという(因みにそれとは別に、下野宇都宮氏から派生した横田氏も存在している)。


甲陽軍鑑」によれば、高松は伊勢(現在の三重県北中部)出身といわれ、初めは六角氏の家臣として仕え、時期や事情は不明(※)であるものの、後に一族郎党を率いて近江から甲斐に入って武田信虎に仕えている。弓矢の巧者で、即座に騎馬三十、足軽百人と足軽大将の地位を与えられて甘利虎泰の相備えとなった。初めての出陣は、信虎と武田一族との戦いで、信虎の国内統一に功を挙げ、大永元年(1521)九月には駿河の今川氏親が放ち、甲斐国内を荒らし回った福島正成(「地黄八幡」として知られる北条綱成の実父)率いる15,000もの軍勢を迎え撃った際、高松は今川軍の5分の1ほどしかいない武田軍3000の先陣を切り、決死隊にも参加する等の大活躍を果たし、見事に今川勢の撃退に貢献している。戦後、信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられている。


後に信虎が嫡子・晴信に駿河に追放されると、以後はその晴信に忠実に仕え、天文16(1547)年閏7月から開始された信濃国北佐久地域の要衝である、笠原清繁が籠る志賀城の攻略戦では、高松は部隊を率いて行軍困難な城の後方へ回り込み志賀城の水手を絶って攻略に貢献、更には小田井原合戦では関東管領・上杉憲政が志賀城救援に差し向けた金井秀景率いる上杉軍3000を浅間山麓にて板垣信方、甘利虎泰と共に撃破する等、晴信の信濃侵攻に大いに活躍を果たした。


翌・天文17年2月14日(1548年)に、村上義清との上田原の戦いで板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った晴信は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に村上氏の拠点である砥石城(「戸石城」とも書く)を包囲した。この時高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍は止む無く退却を始めるが、ここで総大将・村上義清率いる村上軍が、本拠地である葛尾城から出撃、砥石城の守備軍との挟撃を企てて武田軍に襲い掛かり、武田軍は大混乱に陥る。世に言う「砥石崩れ」であるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支え、武田軍が完全に退却するまで村上軍を一手に引き受けて奮戦した末に戦死した。


生年は不明だが一説では長享元年(1487年)とあり、その場合享年は64歳となる。


(※)一説によると甲斐に入った時期は永正16年(1519年)といわれている。


子孫

子孫

横田家は高松の没後、婿養子として迎えた横田康景(別名は「横田綱松(つなとし)」。実父は「鬼美濃」または「夜叉美濃」と呼ばれた原虎胤)が後を継ぎ、上野和田城での防衛戦で上杉謙信率いる軍勢を退却させる等、養父・高松に劣らぬ活躍を果たすが、その康景も長篠の戦いで戦没。康景の嫡子である横田尹松(ただとし)が徳川家康の家臣となり、江戸時代に入った後は旗本として5000石(後に尹松の玄孫である横田準松(のりとし)の代に9500石に加増され、旗本最高位となる)を与えられ、以後横田家の血筋は途絶える事無く現在に到る事となる。


逸話

逸話

武勇に優れる一方で、甲賀者を用いて敵の動向や作戦等の様々な情報を収集、察知して武田氏の戦略に大いに貢献したと言われる。


信玄は高松の死を嘆いた際、近習の者に「武篇の者になろうとするならば、原美濃(原虎胤)、横田備中の様になれ」と言い伝えたと言われる。


小説家・新田次郎氏の代表作である「武田信玄」では、史実通り信濃侵攻にて活躍する描写があるものの、史実での最期である「武田軍の殿として討ち死にした」のではなく、無闇に佐久を攻めたてる晴信を諌めるべく、砥石城攻めの際には「叛く佐久を殺せば限りなく武田に叛き、佐久の人、悉く叛いて死に絶えても、草木が武田に叛く」といった言葉を晴信に遺した後、先陣を切って砥石城を攻め、砥石城の守衛の軍勢が落とした落石に当たって亡くなった、という最期になっている。


戦国大戦

戦国大戦

武田家の武将として参戦。上の見出し画像は戦国大戦のカードイラストがモデルになっている。


スペックはUC(アンコモン)で、コスト1.5の槍足軽、武力・統率が共に5と武将としては平均的な能力値だが、無特技なのが寂しい。更には同コストの武田家の槍は彼よりスペックが優れたり特技に恵まれた者(例:矢沢頼綱出浦守清小畠虎盛小幡昌盛)が多い為、 中々声が掛からないのが実情である。


所持計略である「水手断ち」は、敵部隊の移動速度を下げる陣形を敷くもので、士気は5と結構重いものの、陣形の範囲は横に広く、高松自身が中央にいれば戦場の両端まで完全に覆う事が出来る(その一方で、縦幅はカード1.5枚分程と狭いのだが)。


またその速度低下は凄まじく、騎馬ですら効果時間いっぱいかけてその陣形を抜けきれるかどうか、と言うほどであり、速度上昇計略や奥義を用いた場合でも速度低下によって翻弄される事もある。


しかし問題はその陣形を展開する位置で、「自身の後方」つまり自城側に陣を展開するという大変珍しいもので、他の陣計略同様に回転も出来ない為、攻め込んでいる時には全く役に立たない。


その為、計略の用途としては……、


①・引き際を間違えた敵部隊を逃がさない。

②・敵の包囲から単騎抜け出し追撃する部隊を足止めして攻城に向かう。

③・味方による速度上昇計略(例:高坂昌信の「疾風の陣」や武田勝頼の「猛進の陣」)や速度上昇奥義で味方の部隊共々、敵の攻城ラインまで一斉に駆け上がり、攻城を妨害してくる敵部隊の足止めをさせて味方の攻城を助ける。

④・敵に弓や鉄砲がいない場合、敵が高松の後方を通過したタイミングで陣形を発動させ、自城ダメージ覚悟で一方的な攻城を行い落城勝ちを狙う


といった手段があり、巧みに駆使すれば手強い存在となる武将ではあるが、如何せんその陣形を展開する位置、及び士気の多さ等によって癖が強過ぎる為、他の武将とは違って相当使い手を選ぶ武将カードとなっている。


「15XX 五畿七道の雄」のバージョンアップに伴い、カードのエラッタによって統率が一つ減ったものの、特技「気合」が追加。これにより、結果としては伏兵や妨害・ダメージ計略に対してやや弱くなったものの、特技によって粘り強く戦場に残る事が出来る武将となった。


④の使い方に関しては、敵城方向に強制前進してしまうが攻城攻撃力が大幅に上がる計略「突貫の構え」を持つ土屋昌恒が武田家に実装されたことにより、昌恒1人でも虎口や城門に到達させれば敵城の半分近くを削ることが可能になり、突貫落城を狙う場合のキーカードとして高松が注目されるようになった。


「1582 日輪本能寺よりいずる」のバージョンアップでは、兵力が少ない程、武力と突撃ダメージと槍撃ダメージが上がるという全体強化計略「万死一生」を持った2枚目の勝頼が実装。武田家には1,5コストの気合持ちは少ない為、高松のスペックだけでも採用するケースが増えている。


殿軍は、俺に任せな。

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 戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎、武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。

概要

概要

生年不明(後述)~天文19年10月1日(1550年11月9日)

戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。仮名は「十郎兵衛」で、受領名は「備中守」。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。


横田氏は家伝に拠れば、平安時代末期の武将で宇多源氏佐々木氏の当主である佐々木三郎秀義の末孫・佐々木次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、その褒賞として近江の横田川和泉村の畔に采地を受け、家号を「横田」に改めたという(因みにそれとは別に、下野宇都宮氏から派生した横田氏も存在している)。


甲陽軍鑑」によれば、高松は伊勢(現在の三重県北中部)出身といわれ、初めは六角氏の家臣として仕え、時期や事情は不明(※)であるものの、後に一族郎党を率いて近江から甲斐に入って武田信虎に仕えている。弓矢の巧者で、即座に騎馬三十、足軽百人と足軽大将の地位を与えられて甘利虎泰の相備えとなった。初めての出陣は、信虎と武田一族との戦いで、信虎の国内統一に功を挙げ、大永元年(1521)九月には駿河の今川氏親が放ち、甲斐国内を荒らし回った福島正成(「地黄八幡」として知られる北条綱成の実父)率いる15,000もの軍勢を迎え撃った際、高松は今川軍の5分の1ほどしかいない武田軍3000の先陣を切り、決死隊にも参加する等の大活躍を果たし、見事に今川勢の撃退に貢献している。戦後、信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられている。


後に信虎が嫡子・晴信に駿河に追放されると、以後はその晴信に忠実に仕え、天文16(1547)年閏7月から開始された信濃国北佐久地域の要衝である、笠原清繁が籠る志賀城の攻略戦では、高松は部隊を率いて行軍困難な城の後方へ回り込み志賀城の水手を絶って攻略に貢献、更には小田井原合戦では関東管領・上杉憲政が志賀城救援に差し向けた金井秀景率いる上杉軍3000を浅間山麓にて板垣信方、甘利虎泰と共に撃破する等、晴信の信濃侵攻に大いに活躍を果たした。


翌・天文17年2月14日(1548年)に、村上義清との上田原の戦いで板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った晴信は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に村上氏の拠点である砥石城(「戸石城」とも書く)を包囲した。この時高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍は止む無く退却を始めるが、ここで総大将・村上義清率いる村上軍が、本拠地である葛尾城から出撃、砥石城の守備軍との挟撃を企てて武田軍に襲い掛かり、武田軍は大混乱に陥る。世に言う「砥石崩れ」であるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支え、武田軍が完全に退却するまで村上軍を一手に引き受けて奮戦した末に戦死した。


生年は不明だが一説では長享元年(1487年)とあり、その場合享年は64歳となる。


(※)一説によると甲斐に入った時期は永正16年(1519年)といわれている。


子孫

子孫

横田家は高松の没後、婿養子として迎えた横田康景(別名は「横田綱松(つなとし)」。実父は「鬼美濃」または「夜叉美濃」と呼ばれた原虎胤)が後を継ぎ、上野和田城での防衛戦で上杉謙信率いる軍勢を退却させる等、養父・高松に劣らぬ活躍を果たすが、その康景も長篠の戦いで戦没。康景の嫡子である横田尹松(ただとし)が徳川家康の家臣となり、江戸時代に入った後は旗本として5000石(後に尹松の玄孫である横田準松(のりとし)の代に9500石に加増され、旗本最高位となる)を与えられ、以後横田家の血筋は途絶える事無く現在に到る事となる。


逸話

逸話

武勇に優れる一方で、甲賀者を用いて敵の動向や作戦等の様々な情報を収集、察知して武田氏の戦略に大いに貢献したと言われる。


信玄は高松の死を嘆いた際、近習の者に「武篇の者になろうとするならば、原美濃(原虎胤)、横田備中の様になれ」と言い伝えたと言われる。


小説家・新田次郎氏の代表作である「武田信玄」では、史実通り信濃侵攻にて活躍する描写があるものの、史実での最期である「武田軍の殿として討ち死にした」のではなく、無闇に佐久を攻めたてる晴信を諌めるべく、砥石城攻めの際には「叛く佐久を殺せば限りなく武田に叛き、佐久の人、悉く叛いて死に絶えても、草木が武田に叛く」といった言葉を晴信に遺した後、先陣を切って砥石城を攻め、砥石城の守衛の軍勢が落とした落石に当たって亡くなった、という最期になっている。


戦国大戦

戦国大戦

武田家の武将として参戦。上の見出し画像は戦国大戦のカードイラストがモデルになっている。


スペックはUC(アンコモン)で、コスト1.5の槍足軽、武力・統率が共に5と武将としては平均的な能力値だが、無特技なのが寂しい。更には同コストの武田家の槍は彼よりスペックが優れたり特技に恵まれた者(例:矢沢頼綱出浦守清小畠虎盛小幡昌盛)が多い為、 中々声が掛からないのが実情である。


所持計略である「水手断ち」は、敵部隊の移動速度を下げる陣形を敷くもので、士気は5と結構重いものの、陣形の範囲は横に広く、高松自身が中央にいれば戦場の両端まで完全に覆う事が出来る(その一方で、縦幅はカード1.5枚分程と狭いのだが)。


またその速度低下は凄まじく、騎馬ですら効果時間いっぱいかけてその陣形を抜けきれるかどうか、と言うほどであり、速度上昇計略や奥義を用いた場合でも速度低下によって翻弄される事もある。


しかし問題はその陣形を展開する位置で、「自身の後方」つまり自城側に陣を展開するという大変珍しいもので、他の陣計略同様に回転も出来ない為、攻め込んでいる時には全く役に立たない。


その為、計略の用途としては……、


①・引き際を間違えた敵部隊を逃がさない。

②・敵の包囲から単騎抜け出し追撃する部隊を足止めして攻城に向かう。

③・味方による速度上昇計略(例:高坂昌信の「疾風の陣」や武田勝頼の「猛進の陣」)や速度上昇奥義で味方の部隊共々、敵の攻城ラインまで一斉に駆け上がり、攻城を妨害してくる敵部隊の足止めをさせて味方の攻城を助ける。

④・敵に弓や鉄砲がいない場合、敵が高松の後方を通過したタイミングで陣形を発動させ、自城ダメージ覚悟で一方的な攻城を行い落城勝ちを狙う


といった手段があり、巧みに駆使すれば手強い存在となる武将ではあるが、如何せんその陣形を展開する位置、及び士気の多さ等によって癖が強過ぎる為、他の武将とは違って相当使い手を選ぶ武将カードとなっている。


「15XX 五畿七道の雄」のバージョンアップに伴い、カードのエラッタによって統率が一つ減ったものの、特技「気合」が追加。これにより、結果としては伏兵や妨害・ダメージ計略に対してやや弱くなったものの、特技によって粘り強く戦場に残る事が出来る武将となった。


④の使い方に関しては、敵城方向に強制前進してしまうが攻城攻撃力が大幅に上がる計略「突貫の構え」を持つ土屋昌恒が武田家に実装されたことにより、昌恒1人でも虎口や城門に到達させれば敵城の半分近くを削ることが可能になり、突貫落城を狙う場合のキーカードとして高松が注目されるようになった。


「1582 日輪本能寺よりいずる」のバージョンアップでは、兵力が少ない程、武力と突撃ダメージと槍撃ダメージが上がるという全体強化計略「万死一生」を持った2枚目の勝頼が実装。武田家には1,5コストの気合持ちは少ない為、高松のスペックだけでも採用するケースが増えている。


殿軍は、俺に任せな。

大将、あんたは生きるんだ!


余談

余談

名前の読み方が間違われ易い人物であり、一部の関連書籍等では「たかまつ」とルビを振られる事もある。


関連項目

関連項目

戦国時代 戦国武将 戦国大戦 武田信玄 甘利虎泰 板垣信方

概要

概要

生年不明(後述)~天文19年10月1日(1550年11月9日)

戦国時代の武将で、甲斐武田氏(武田信虎武田晴信(後の武田信玄))に仕えた。仮名は「十郎兵衛」で、受領名は「備中守」。「武田二十四将」かつ「武田五名臣」の一人。


横田氏は家伝に拠れば、平安時代末期の武将で宇多源氏佐々木氏の当主である佐々木三郎秀義の末孫・佐々木次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、その褒賞として近江の横田川和泉村の畔に采地を受け、家号を「横田」に改めたという(因みにそれとは別に、下野宇都宮氏から派生した横田氏も存在している)。


甲陽軍鑑」によれば、高松は伊勢(現在の三重県北中部)出身といわれ、初めは六角氏の家臣として仕え、時期や事情は不明(※)であるものの、後に一族郎党を率いて近江から甲斐に入って武田信虎に仕えている。弓矢の巧者で、即座に騎馬三十、足軽百人と足軽大将の地位を与えられて甘利虎泰の相備えとなった。初めての出陣は、信虎と武田一族との戦いで、信虎の国内統一に功を挙げ、大永元年(1521)九月には駿河の今川氏親が放ち、甲斐国内を荒らし回った福島正成(「地黄八幡」として知られる北条綱成の実父)率いる15,000もの軍勢を迎え撃った際、高松は今川軍の5分の1ほどしかいない武田軍3000の先陣を切り、決死隊にも参加する等の大活躍を果たし、見事に今川勢の撃退に貢献している。戦後、信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられている。


後に信虎が嫡子・晴信に駿河に追放されると、以後はその晴信に忠実に仕え、天文16(1547)年閏7月から開始された信濃国北佐久地域の要衝である、笠原清繁が籠る志賀城の攻略戦では、高松は部隊を率いて行軍困難な城の後方へ回り込み志賀城の水手を絶って攻略に貢献、更には小田井原合戦では関東管領・上杉憲政が志賀城救援に差し向けた金井秀景率いる上杉軍3000を浅間山麓にて板垣信方、甘利虎泰と共に撃破する等、晴信の信濃侵攻に大いに活躍を果たした。


翌・天文17年2月14日(1548年)に、村上義清との上田原の戦いで板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った晴信は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に村上氏の拠点である砥石城(「戸石城」とも書く)を包囲した。この時高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍は止む無く退却を始めるが、ここで総大将・村上義清率いる村上軍が、本拠地である葛尾城から出撃、砥石城の守備軍との挟撃を企てて武田軍に襲い掛かり、武田軍は大混乱に陥る。世に言う「砥石崩れ」であるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支え、武田軍が完全に退却するまで村上軍を一手に引き受けて奮戦した末に戦死した。


生年は不明だが一説では長享元年(1487年)とあり、その場合享年は64歳となる。


(※)一説によると甲斐に入った時期は永正16年(1519年)といわれている。


子孫

子孫

横田家は高松の没後、婿養子として迎えた横田康景(別名は「横田綱松(つなとし)」。実父は「鬼美濃」または「夜叉美濃」と呼ばれた原虎胤)が後を継ぎ、上野和田城での防衛戦で上杉謙信率いる軍勢を退却させる等、養父・高松に劣らぬ活躍を果たすが、その康景も長篠の戦いで戦没。康景の嫡子である横田尹松(ただとし)が徳川家康の家臣となり、江戸時代に入った後は旗本として5000石(後に尹松の玄孫である横田準松(のりとし)の代に9500石に加増され、旗本最高位となる)を与えられ、以後横田家の血筋は途絶える事無く現在に到る事となる。


逸話

逸話

武勇に優れる一方で、甲賀者を用いて敵の動向や作戦等の様々な情報を収集、察知して武田氏の戦略に大いに貢献したと言われる。


信玄は高松の死を嘆いた際、近習の者に「武篇の者になろうとするならば、原美濃(原虎胤)、横田備中の様になれ」と言い伝えたと言われる。


小説家・新田次郎氏の代表作である「武田信玄」では、史実通り信濃侵攻にて活躍する描写があるものの、史実での最期である「武田軍の殿として討ち死にした」のではなく、無闇に佐久を攻めたてる晴信を諌めるべく、砥石城攻めの際には「叛く佐久を殺せば限りなく武田に叛き、佐久の人、悉く叛いて死に絶えても、草木が武田に叛く」といった言葉を晴信に遺した後、先陣を切って砥石城を攻め、砥石城の守衛の軍勢が落とした落石に当たって亡くなった、という最期になっている。


戦国大戦

戦国大戦

武田家の武将として参戦。上の見出し画像は戦国大戦のカードイラストがモデルになっている。


スペックはUC(アンコモン)で、コスト1.5の槍足軽、武力・統率が共に5と武将としては平均的な能力値だが、無特技なのが寂しい。更には同コストの武田家の槍は彼よりスペックが優れたり特技に恵まれた者(例:矢沢頼綱出浦守清小畠虎盛小幡昌盛)が多い為、 中々声が掛からないのが実情である。


所持計略である「水手断ち」は、敵部隊の移動速度を下げる陣形を敷くもので、士気は5と結構重いものの、陣形の範囲は横に広く、高松自身が中央にいれば戦場の両端まで完全に覆う事が出来る(その一方で、縦幅はカード1.5枚分程と狭いのだが)。


またその速度低下は凄まじく、騎馬ですら効果時間いっぱいかけてその陣形を抜けきれるかどうか、と言うほどであり、速度上昇計略や奥義を用いた場合でも速度低下によって翻弄される事もある。


しかし問題はその陣形を展開する位置で、「自身の後方」つまり自城側に陣を展開するという大変珍しいもので、他の陣計略同様に回転も出来ない為、攻め込んでいる時には全く役に立たない。


その為、計略の用途としては……、


①・引き際を間違えた敵部隊を逃がさない。

②・敵の包囲から単騎抜け出し追撃する部隊を足止めして攻城に向かう。

③・味方による速度上昇計略(例:高坂昌信の「疾風の陣」や武田勝頼の「猛進の陣」)や速度上昇奥義で味方の部隊共々、敵の攻城ラインまで一斉に駆け上がり、攻城を妨害してくる敵部隊の足止めをさせて味方の攻城を助ける。

④・敵に弓や鉄砲がいない場合、敵が高松の後方を通過したタイミングで陣形を発動させ、自城ダメージ覚悟で一方的な攻城を行い落城勝ちを狙う


といった手段があり、巧みに駆使すれば手強い存在となる武将ではあるが、如何せんその陣形を展開する位置、及び士気の多さ等によって癖が強過ぎる為、他の武将とは違って相当使い手を選ぶ武将カードとなっている。


「15XX 五畿七道の雄」のバージョンアップに伴い、カードのエラッタによって統率が一つ減ったものの、特技「気合」が追加。これにより、結果としては伏兵や妨害・ダメージ計略に対してやや弱くなったものの、特技によって粘り強く戦場に残る事が出来る武将となった。


④の使い方に関しては、敵城方向に強制前進してしまうが攻城攻撃力が大幅に上がる計略「突貫の構え」を持つ土屋昌恒が武田家に実装されたことにより、昌恒1人でも虎口や城門に到達させれば敵城の半分近くを削ることが可能になり、突貫落城を狙う場合のキーカードとして高松が注目されるようになった。


「1582 日輪本能寺よりいずる」のバージョンアップでは、兵力が少ない程、武力と突撃ダメージと槍撃ダメージが上がるという全体強化計略「万死一生」を持った2枚目の勝頼が実装。武田家には1,5コストの気合持ちは少ない為、高松のスペックだけでも採用するケースが増えている。


殿軍は、俺に任せな。

大将、あんたは生きるんだ!


余談

余談

名前の読み方が間違われ易い人物であり、一部の関連書籍等では「たかまつ」とルビを振られる事もある。


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