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武田信豊

たけだのぶとよ

武田信豊とは、戦国時代の人物で、同姓同名の人物が甲斐武田氏と若狭武田氏に存在する。なお、一般的には甲斐武田氏の方が有名である。

甲斐武田氏の武田信豊


1549年に武田晴信の弟武田信繁の次男として生まれ、長老と名付けられる。長老には5年前に生まれた兄三郎がいたが、三郎は側室の子に対して、長老は正室の子だった為、三郎は望月信雅の元へ養子に出され、長老は嫡男として育てられる。


1558年には、父である信繁から九十九のも上る「武田信繁家訓」を授かり、1561年の八幡原の戦いで信繁が討死すると親族衆の地位を13歳で継いでいる。なおこの前後に、長老は元服して信豊を名乗ったとされている。


1567年に信玄の嫡男である武田義信が廃嫡された際に、叔父の武田信廉共に生島足島神社に起請文を提出している。


1568~70年の駿河侵攻の際には、蒲原城攻め花岡城攻めの合戦で、従兄弟であり新たに信玄の後継者となった武田勝頼とも自ら槍刀を取って敵を討ち取り、武功を挙げている。


このころには、既に勝頼とかなり入魂の中になっていたようで、1573年に信玄が亡くなって勝頼が家督を継いだ時には、信廉や穴山信君共に親族衆の筆頭とされた。


1575年の長篠の戦いでは中央に陣取り、弟望月信永を失いながらも織田・徳川連合軍の陣をめがけて猛烈な攻勢を仕掛けるも、右翼では山県昌景が、左翼では土屋昌継真田信綱が討死し、兵力差から押し込まれ武田軍は敗退。信豊は撤退する勝頼の本陣の護衛を務め、甲斐へ帰還した。


1578年に上杉謙信が急死し、長尾政景の子上杉景勝北条氏康の子上杉景虎が家督を巡る戦いである御舘の乱が起きると、勝頼は同盟を結んでいた北条氏政の弟景虎を支援し、信豊は1万を超える大軍の総大将として川中島に派遣されている。

その後、徳川家康が遠江に侵攻する動きと景勝側の和睦要請もあってか、跡部勝資高坂昌信共に両者の和睦を成立させた後、川中島から撤退した。


が、年が明けた1579年に景勝が景虎を討った為、北条家との関係が悪化し、敵対することになると、北条軍の侵攻に備える為に、沼津に派遣される。


またこの間、武田家と上杉家は織田信長や北条氏政らに備えて甲越同盟を結び、信豊も従妹菊姫の輿入れに関わり、同盟締結に尽力した。

さらに常陸の佐竹義重を筆頭に宇都宮や佐野といった反北条勢力と武田氏の同盟である甲佐同盟を締結させるのにも、信豊は貢献した。


しかしそんな努力も空しく、1581年に徳川軍によって高天神城が落城すると、結果として岡部元信ら以下城兵を見殺ししてしまい、国衆は武田に対する信頼が失墜。

翌年には木曾義昌が織田家を裏切ったのをきっかけに甲州征伐が開始、信豊は木曾谷へ向け先鋒として派遣されるも、当時東国で異変の象徴とされた浅間山の噴火で兵の士気が低下し、義昌と織田援軍の金森長親河尻秀隆と衝突するもあっけなく敗走。


信豊は諏訪で勝頼と合流したのち、信豊は小諸方面へ逃れ、勝頼は甲斐へと逃れた。

3月16日信豊は武田家家臣の下曾根浄喜が城代を務める小諸城に逃げ延びるも、そこで浄喜の謀反に遭う。信豊は僅かな家臣達共に奮戦するも、多勢に無勢にかなわず、自害した。享年34。武田家滅亡の5日後であった。

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