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曖昧さ回避

  1. 歴史上の古代氏族、源氏一族のこと(本記事で説明)
  2. 紫式部の小説『源氏物語』に登場する源氏の君、光源氏。⇒光源氏
  3. 近現代の苗字としての「源」氏 ⇒ 
  4. 遙かなる時空の中で3』に登場する源頼朝を棟梁とする一族。
  5. 高河ゆんによる漫画『源氏』。
  6. Fateシリーズに登場よる「源氏」 ⇒ 源氏(Fate)

源氏一族

 日本においては皇族が臣籍降下する際に名乗る氏の一つであった。代表的な家紋は笹竜胆。もっとも有名なものは、幕府を開き将軍の家柄となった武家の清和源氏であるが、家格が最も高いのは村上源氏であるとされる。

村上源氏は村上天皇の子孫であり、太政大臣に上った源雅実をはじめとして、平安時代後期の一時は藤原摂関家と競うほどの権勢を誇り、以後も太政大臣職に就くことのできる九清華家の一つ・久我家として栄え続けた。源氏の長となる「源氏長者」も室町時代までは足利義満以降の足利将軍家と交互に、室町幕府滅亡以後も久我家の事実上独占の形で名乗り続けた。しかし江戸時代に入ると徳川家に独占され、久我家が源氏長者に返り咲くことはなかった(異説あり)。

また南北朝時代北畠親房北畠顕家を輩出した北畠家も村上源氏である。

明治の元勲で右大臣として明治新政府を主導した岩倉具視岩倉家は久我家の分家である。

その他佐々木道誉京極高氏)・六角定頼尼子経久等を輩出した宇多源氏(近江源氏)、渡辺氏や松浦氏といった武家を生んだ嵯峨源氏など全部で21人の天皇の血筋をひく源氏二十一流がある。

例えば応天門の変で事件の黒幕であると伴善男に誣告された源信源氏物語主人公光源氏のモデルの一人とされる源融は嵯峨天皇の七男と十二男である。

このように「源」は皇族が臣籍に降る際に最も一般的な氏であった。

ことに室町~江戸期以降、橘氏が宗家・薄家の断絶で社家程度しか生き残れず、平氏も坂東平氏の末裔である長尾氏や相馬氏、伊勢平氏傍流の後北条氏とか他に一時期豊臣秀吉が名乗ったりしたもののその衰退が著しいものであり、幕府政治が長く続いたこともあって「皇族子孫」を名乗る者のうち堂上公家や有力武家の殆ど全てが源氏で埋め尽くされる状態となった。

一方で、皇族の臣籍降下制度は特に江戸期以降滅多に起こらなくなった。まず天皇や世襲親王家に世継ぎ以外の男子が生まれても、その子は幼少期より寺社に預からせ、早くに出家し「法親王」として有力な門跡となる。そのような法親王は生涯独身が原則であり、仮に庶子が生まれても「ご落胤」として内々に処置され、単なる寺坊主として育てられる。後継ぎでない子が還俗・結婚を許されるのは何等かの形で天皇・世襲親王の後継ぎに欠員が出た場合である。

従って臣籍降下そのものも殆ど事例が無くなり、あったとしても既に存在する名門公家に後裔がいない場合の養子となる場合である(例:近衛家)。このような家を皇別と呼び、実系統が皇室系の家系となるだけで、その家が藤原氏を本姓とする家なら養子も藤原氏となった。


その後現代まで

明治維新以後は「本姓」制度が廃止となり、各家が自由に名乗っていた「氏」「苗字」が正式な苗字として華族から平民に至るまで統一されてしまった。源氏の事実上の長である源氏長者も廃止となり、源姓を名乗ったのは都の栄華から既に遠く離れ本姓以外の苗字を持たない地方の分家出身者や南朝末裔くらいとなった。

また、近代皇室制度が形成されるにあたり、明治天皇に存命の男兄弟や男系の従兄弟レベルの皇族男子も存在しなかったがために皇室は一時期においては臣籍降下制度の無い「永世皇族制」が採用された。これにより臣籍降下する皇族というものが暫くの間存在しなかった(清棲家教や上野正雄など、個別の特殊な事情による例外は存在する)。

後に明治天皇と縁遠い伏見宮系皇族が増えすぎたこと、大正天皇が十分な数の健康な男子に恵まれたことで、永世皇族制は徐々に解除され、宮家の後継ぎ以外は臣籍降下するという従来の制度に則した形を取るようになった。しかし基本的に、近現代の臣籍降下した元皇族を指して「崇光源氏」と呼ぶようなことは殆ど無い(明治時代以降臣籍降下をした男子皇族全員の男系直系の先祖は何れも北朝3代崇光天皇となる)。インターネット上の記述で一部見られるのみである。

それと言うのも、前述の通り本姓制度が廃止されているため、何を以て源氏と成すのかという根本的定義が失われてしまったためである。特に近年の皇位継承権者不足により彼らが注目される際も一般には「旧皇族」と呼ぶのが普通であり、彼らが源氏であるという定義は不正確かつ不明であると言える。中世以後の臣籍降下における男子の殆どが「源氏」を選択したことは、必ずしも「臣籍降下した元皇族=源氏」とはならないし、現に橘・平を初め古代には他にも臣籍降下した元皇族が選ぶ姓はあったことからも言える。


清和源氏

 清和天皇の子孫である源氏のこと。清和天皇の孫、経基王が臣籍となって源経基を名乗り、その子源満仲(多田満仲)は安和の変で伴善男を失脚させる密告を行ったことをきっかけに藤原摂関家の側近となり力をつけた。長男・源頼光が摂津源氏、次男・源頼親が大和源氏、三男・源頼信が河内源氏の祖となった。しかし大和源氏は早々に没落し摂津源氏もあまり奮わなかった。河内源氏も一時期は壊滅状態になったが最終的には繁栄した。以降も頼信の子孫が征夷大将軍の座を独占し天下を制したので、一般には清和源氏というと河内源氏を指すことが多い。


河内源氏

 河内源氏とは、頼信が河内国石川郡壺井(大阪府羽曳野市)の「香炉峰の館」を本拠としたことから由来する。頼信は平忠常の反乱を鎮定し名を挙げた。嫡男・源頼義とその長男・義家は陸奥守や鎮守府将軍となって前九年の役と後三年の役といった現地豪族の争いに介入して勝利することで、東国に多くの臣下を集める。しかし、その後継者・源義親(義家の次男)が西国で官人を殺して朝敵となって平正盛(清盛の祖父)に滅ぼされ、さらに一族の内紛が続いて衰退。義親の孫である源義朝は、再度東国に下って勢力を伸ばした。さらに保元の乱のおり後白河天皇の側に立ち、勝者となって朝廷でも有力者となって復活するも、敗者となった崇徳上皇藤原頼長の側に立った父・源為義や兄弟のほとんどは処刑され、一族にとって大きな打撃となった。これに対して一族のほとんどを束ねて後白河帝についたのが平氏の棟梁・平清盛である。清盛はまた、祖父以来三代に渡って院政に尽して幼少期から出世街道を進み、平家政権の基礎を築いた。一方の義朝は一族の多くを失った上に、義家死後からの源氏の混乱の結果として任官当時の官位は低かった。かくして義朝は所領、官位とも清盛の後塵を拝することになる。しかしながら義朝について言えば、保元の乱前後での出世スピードは清盛に劣るものではなく、また東国の武士団を多く従えることになったことも忘れてはいけないであろう。出世競争を焦ったのか、義朝は平治の乱の首謀者の一人となって清盛に敗れ、斃れることとなった。再び源氏は衰退したかに見えたが、三男・源頼朝が父の事業を受け継ぎ、鎌倉幕府を開くことで河内源氏嫡流は全国の実質支配者にまで登りつめることになった。


 その後の河内源氏嫡流は、いずれも頼朝の子である鎌倉幕府二代将軍・源頼家の修善寺幽閉と暗殺、公暁(頼家の次男)による三代将軍・源実朝の暗殺と公暁の処刑により滅亡した。公暁の実朝暗殺の動機はわかっていない。幽閉され殺害された父の仇を討ったとも言われているが、頼家が殺害されたころの実朝はまだ少年であり、この説には首をかしげる歴史学者が多い。また、和歌や蹴鞠に興じるなど公家化し始めた実朝を北条氏が公暁に将軍職を餌に殺害をそそのかしたとも言われているが、実行者である公暁がその場で殺害されているので、この説も有力ではあるが歴史上の事実として確定したわけではない。

 源頼朝の系統が絶えた後は、義朝の同盟者だった足利義康の次男で頼朝の義弟でもあり鎌倉創業に貢献した足利義兼の系統が事実上の河内源氏嫡流として遇された。足利氏は北条氏と協調しながら、莫大な財力と河内源氏としての権威を保ち、これが足利尊氏足利直義兄弟による鎌倉幕府打倒と室町幕府成立の原動力となった。


 河内源氏の源頼朝がそれまで臨時職としてのみ存在していた征夷大将軍位につき実質的に日本の広域を支配する鎌倉幕府を開き、その後足利尊氏に始まる室町幕府徳川家康に始まる江戸幕府と、清和源氏(の中でも河内源氏に限られる)の将軍が続いたため(徳川氏は自称)、清和源氏は唯一征夷大将軍となれる家系であるという俗説が生まれた。しかしながら、大伴弟麻呂を初めとする頼朝以前の将軍は清和源氏ではなく、頼朝以降でも見ても実朝死後は藤原氏九条頼経が将軍となっている。足利氏に代わって天下人として君臨していた織田信長(自称・平氏)に対し、朝廷は征夷大将軍、太政大臣、関白いずれの官職を望むか意見を求めているが(三職推任問題)、この時に信長が平氏であることが問題とされた形跡は無い。このように実際には、制度的な意味でも実務的な意味においても、清和源氏でなければ将軍になれないなどといった決まりはいかなる時代にも存在しなかった。鎌倉時代中期に蒙古襲来元寇)という未曽有の危機に直面した際、執権・北条時宗が御家人たちの奮起を促すため、当時の将軍である惟康親王を源頼朝になぞらえたことが「源氏将軍」神話の始まりとされる。また、鎌倉時代に清和源氏こそが「武家の棟梁」であるという観念も生まれていたという説がある。すなわち、前九年の役と後三年の役を勝ち抜き、自らの財産から褒賞を部下に与えるという御恩と奉公の武家政権の仕組みを最初に作った英雄・源義家を武家政権の元祖とし、これを引き継いで武家政権を完成させた源頼朝の家系をその直系後継者とみなす考え方である。(ただし、南北朝時代においてはいずれも後醍醐天皇の皇子である護良親王成良親王宗良親王が征夷大将軍に任じられている。宮将軍自体は鎌倉幕府にも存在したが、鎌倉時代のそれが北条氏の傀儡であるのに対し、彼らはみずから軍を率いて幕府軍もしくは北朝軍との戦いに臨んでおり、その点で鎌倉幕府の宮将軍とは大きく異なっている)


摂津源氏

 頼光の子孫の摂津源氏は満仲以来の本拠地・摂津国川辺郡多田荘(兵庫県川西市)を受け継いでいた。頼光の孫・源頼綱は多田荘と祖父・満仲に因んで「多田」を家号とし、嫡流を継いだ長男・明国の系統を多田源氏と呼ぶことがある。多田源氏は代々藤原摂関家との関わりが強く、京都を活動拠点にしていた。しかし勢力範囲が京都周辺に限られていたために動員力が少なかった。さらに保元の乱では明国の孫に当たる頼盛と頼憲の対立もありせいぜい五十騎程度しか集められなかったという。

また河内源氏の義家や義朝は東国に勢力を伸ばして動員力を増やし、また院政にも接近したため次第に清和源氏内の実力者の座を奪われていったと考えられる。


頼綱の次男・源仲政は「馬場」を号し北面の武士・院近臣として活躍した。さらに子の源頼政は平氏政権時代に公卿となるなどの活躍で仲政流は多田源氏に代わって事実上の摂津源氏主流になっていった。しかし、頼政は平家に反旗を翻した宇治合戦において嫡子・源仲綱や嫡孫・源宗綱らと共に果ててしまう。生き残った末子の源広綱や孫の源頼茂、曾孫の源宗仲は鎌倉後家人となった。ちなみに頼茂は承久の乱前哨戦において後鳥羽上皇の軍勢に攻め滅ぼされている。

ちなみに頼政の子孫には太田道灌太田資正馬場信春(実家は美濃源氏)・下間頼廉などの戦国武将がいる。


この頃の多田源氏当主だった多田行綱(頼盛の長男)は鹿ケ谷の陰謀で平清盛に事の顛末を密告したことで知られる。のち平家に対して反旗を翻し摂津方面の武士たちを率いて活躍したが、源頼朝に疎まれ本拠地多田荘を奪われ没落してしまった。


また頼綱の弟・国房が美濃に土着し美濃源氏を称した一流はのちに土岐氏となり室町時代には土岐頼遠明智光秀などを輩出した。


清和源氏の象徴

 清和源氏の象徴といえば、嫡流の証したる太刀、「髭切」である。源満仲が作らせた刀とされ、試し斬りに罪人の首を斬らせてみたところ、首ばかりか髭まで斬れたので、髭切と名付けられたという。その後源頼光に引き継がれ、その家臣・渡辺綱が一条戻り橋にて鬼女の腕を斬ったという故事から鬼切と名を改めた。その後何度か名前を変えながら河内源氏に伝わった。さて友切と呼ばれていたころ、源義朝が当時の戦で敗戦が続いていたことについて八幡大菩薩の加護が失われたのかと嘆いたところ、夢に八幡神が現れて「友切という名が良くない、髭切に戻すが良い」と告げたという。このように髭切は鬼退治と八幡神に縁のある刀ということになる。

 戦国時代に武田信玄を輩出した甲斐・武田氏にも始祖・新羅三郎義光(源頼義の三男・源義光)に由来する「御旗(日章旗)・楯無(大鎧)」が代々伝えられ、「御旗楯無ご照覧あれ」と誓い出陣したという逸話が残されている。


清和源氏の人物一覧

 河内源氏の流れをくむ家系は実に多い。足利氏やその諸分家、新田氏、義光流の武田氏小笠原氏佐竹氏などの等々。それぞれに将軍や幕府重臣、有力な大名等を輩出している。また土岐氏は、美濃源氏とも呼ばれる源頼光の子孫で、摂津源氏傍流である。


清和源氏嫡流・摂津源氏の有名な人物

清和源氏主流・河内源氏の有名な人物


清和源氏傍流の主な有名な人物

河内源氏・八幡太郎義家の系譜


河内源氏・新羅三郎義光の系譜


その他の河内源氏

江川英龍隈部親永:満仲の次男・頼親の末裔(大和源氏)

村上義清村上武吉:頼信の次男・頼清の末裔(頼清流信濃源氏)

夏目広次(吉信):満仲の五男・満快の末裔(満快流信濃源氏)


摂津源氏・源国房の系譜


摂津源氏・源頼政の系譜


その他自称・清和源氏

徳川氏…新田氏の分家、得川氏または世良田氏の後裔を自称。

島津氏…秦氏後裔・惟宗氏。初代が源頼朝の御落胤であると自称。

大友氏…藤原北家・魚名系。初代が源頼朝の御落胤であると自称。

結城氏…秀郷流藤原氏。初代に源頼朝の御落胤説有り。

蠣崎氏…甲斐源氏(武田氏)の傍流を自称。

木曽氏…秀郷流藤原氏。木曽義仲の末裔を自称。


源氏と言えば夜戦?

 保元の乱にて、上皇方の源為義と天皇方の源義朝がともに夜討ちを提案したことは知られているが、源氏の戦いには何故か夜襲による勝利が多い。平維盛の東海遠征軍に対して甲斐源氏が夜間河を渡って潰走させた富士川の戦い、同じく北陸を攻め上がってきた平維盛の大軍に対して木曽義仲が昼間は劣勢と見せかけて夜戦の不意打ちで大いに破った倶利伽羅峠の戦い、源義経が三草山の要害で夜間に油断していた平資盛を奇襲した三草山の戦い。また、戦国期にも武田信玄が第4次川中島の戦いにおいて妻女山にこもる上杉謙信に対し、夜襲をしかけ失敗している(きつつき戦法)。偶然、なのだろうか・・・?


構造的欠陥・・?

 なにかと比較される高望王平氏は坂東時代は平将門平貞盛たちが争い、その後は貞盛の弟・平繁盛と将門の娘婿・平忠頼が争った。忠頼の子・忠常が乱を起こし関東を追われてからも関東時代の因縁から伊勢平氏と尾張平氏が抗争したが最終的に伊勢平氏が主導権を握ってからは落ち着いている。保元の乱で崇徳上皇藤原頼長についた平忠正平家弘の一族、平家の都落ちに加わらなかった平頼盛の一族を除けば「壇ノ浦の戦い」で滅亡するまでどうにか結束を保ちつづけたのに対し、河内源氏は


  • 義家の後継者となった四男・義忠を暗殺した叔父・義光
  • 義光に唆され大叔父・義綱を滅ぼした為義
  • 関東でいざこざばかり起こす義光と義国
  • 父・義朝の命により叔父・義賢を殺害した義平
  • 保元の乱で敵対することとなった為義・義朝父子
  • 木曽義仲・志田義広・源行家と頼朝の対立
  • 兄・頼朝に追いつめられ自害を強いられる義経
  • 謀反の嫌疑をかけて弟・範頼を処刑する頼朝

など、枚挙にいとまがないほど骨肉の争いをくりひろげている。甲斐武田氏に至っては家祖から戦国時代に滅亡するまで親子兄弟の相剋がデフォルトである。・・・なにか構造的に問題があるのだろうか・・?


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