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もしかして果的であるさまは特効

概要


本来は通常の(その戦闘における標準的な)手段以外の攻撃全般を指す言葉であったが、神風特攻隊の影響から戦死を前提とした自爆攻撃という意味で用いられるようになった。


致死率の極めて高い作戦は古今東西で繰り広げられており、あるいは被弾により生還の見込みがなくなった兵士が個人の判断で体当たり攻撃を敢行するといった事例は第二次世界大戦中のアメリカ軍にも見られたが、組織ぐるみで初めから生還を期さない攻撃を展開したのは旧日本軍のみであった(ナチスドイツにもカミカゼにインスパイアされて編成したエルベ特別攻撃隊レオニダス隊といったグレーな部隊もありはするが・・・)。


その問題点は各所で語られ尽くしているため、本稿では航空機による特攻を中心に、同大戦における旧日本軍の狙いと戦術的意義を取り上げてゆく事とする。


戦術としての「特攻」

久納中尉と桜

戦争が長引くにつれ悪化の一途を辿った環境の中、尋常な戦法では連合軍に対抗できないという認識はほとんどの日本兵に共有されるようになっていた。

さりとて白旗を振る」という選択肢はこの軍に無く、残された道は逆転か、玉砕かのいずれかであった。

そのような中で前線で戦う将兵を中心に、文字通り必死の体当たり攻撃の上申が多く大本営などに寄せられるようになる。どうせ死ぬのであれば、敵も道連れにしたいという事である。

また、「甲標的」の搭乗員黒木博司大尉と仁科関夫中尉らが発案した特攻兵器人間魚雷「回天」や、叩き上げの特務士官であった大田正一特務少尉が発案した人間爆弾「桜花」など、実際に戦っている将兵や、現場に近い技術者たちからも特攻に特化した兵器の売り込みがあり、多くは自らが先陣を切って使用するという熱心な申し出を伴っていた


むしろ「統率の外道と捉えた海軍航空本部大西瀧冶郎中将のように、上層部の方に慎重論が根強く、そうした上申は却下されていた

……が、マリアナ沖海戦での大敗にもはやなりふり構ってられないという積極論がこれを凌駕し、特攻が開められることとなった。


この時点でのアメリカ軍は日本軍の航空戦力に対して「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」などと酷評しほとんど勝利を確信していたが、関行雄大尉(殉死後中佐に昇格)に率いられた零戦わずか5機が特攻によって護衛空母1隻撃沈、3隻損傷という戦果を上げるや、評価が一変し、

  • 「日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた」
  • 「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」
  • 「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない」

などと恐れるようになった。

またその後も続く特攻からの甚大な被害を見たフィリピン戦の最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍は

  • 「もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」

とも危惧したが、やがてフィリピン駐留の部隊は航空機が尽きてしまった。逆に言えば、本当に最後の1機・最後の1人になるまで飛び込み続けたわけであり、そうした精神面に対する攻撃(言い換えれば大和魂的なものの誇示)もまた無視できない「副産物」となっていった


硫黄島の戦いでもわずか32機の特攻機が護衛空母1隻を沈め、正規空母1隻を大破するなど大戦果を上げたが、いよいよ連合軍は沖縄に進攻し、沖縄戦が開始された。連合軍は今までの特攻の損害に懲りて万全の特攻対策を講じてきたが、日本軍も全力特攻作戦となる「菊水作戦」を発令し、沖縄の海と空で太平洋戦争での最大の海空戦が繰り広げられた。

連合軍の特攻対策の主なものは従来の充実した対空砲火に更に「空母搭載の艦載戦闘機を増やし迎撃力を強化する」「機動部隊本隊より先行したレーダーピケット艦による特攻機の早期発見で、味方戦闘機隊を余裕をもって有利な高度と位置で特攻機を迎撃させる体制」などであり、直衛機があるとはいえ爆弾を搭載して運動性の低下した特攻機に有利な体制で迎撃できる戦闘機の効果は高く、日本軍も、アメリカ軍の目となるレーダーピケット艦を攻撃して警戒網を寸断する、特攻機を高空と低空に分ける、多方向からの襲撃などで迎撃機の分散を図ったりするなどの対抗策を講じ、レーダー対策としてもチャフの散布や、レーダーに探知されにくい海面すれすれの超低空飛行などで対抗。さらにレーダーピケット艦として運用されていた駆逐艦そのものを主目標とするようになり、特攻機対レーダーピケットの駆逐艦の激戦が繰り広げられる事となった。


大型艦なら持ちこたえる攻撃でも駆逐艦では一発で致命傷になりかねず、「棺桶」とか「ブリキ缶」などと呼ばれて揶揄された。艦隊司令は「朝方に士気旺盛で出撃した新品の駆逐艦が夕方には艦も乗組員もボロボロになって帰ってくる」と嘆き、駆逐艦の乗組員は「自分たちは標的代わりに沖縄の近海に浮かべられている」「なんで(主力の空母や戦艦もいるのに主力でない)俺達が目標なんだよ」と憤激し、しまいに「Carriers This Way(空母はあっち)」という看板を掲げる艦まで出てくる有様だった。

逆に言えば駆逐艦が被害担当艦になる形で空母などの主力艦に対する損害が減じたわけであるが、その穴埋めに機動部隊を護衛する駆逐艦を割く必要が生じ、そうなると今度は肝心の機動部隊の警護が手薄になるというジレンマを味わう事となった

沈みこそしなかったものの深刻な損傷を被って修理のために長期離脱する艦艇も大量となり、その中には「そのまま沈めてしまうよりはスクラップにして転売した方が多少は元が取れる」と判断されて屑鉄同然で本土に曳航されるものも多かった。

連合軍側も撃沈前提で乗員救助用の舟艇や、除籍済みの廃艦を囮として置くなどの消極的な対策を取るようになり、それでも被害が続き必要な数の駆逐艦が確保できないと懸念したアメリカ軍第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督らは、大西洋から全駆逐艦を沖縄に回して欲しいと要請までしている。


結局、フィリピン戦で650機突入した特攻機は沖縄戦では3倍の1,900機になり、そのうち命中・至近弾を255機に抑えられて、有効率はフィリピン戦時の26.8%から沖縄戦14.7%と10%以上も減ったが、出撃の母数が増加したので、沖縄戦での特攻による連合軍の被害も甚大なものになり、沈没32隻、損傷218隻、アメリカ海軍兵士だけでも死傷は10,000人に上った(他にもイギリス軍、オランダ軍などの他の連合国将兵や、商船乗組員の死傷者も出ている)。損傷艦のなかには死傷者666人を出して沈没寸前まで追い込まれた正規空母「バンカーヒル」や、日本軍相手に散々無双してきた「エンタープライズ(CV-6)」なども含まれており、多くが終戦まで戦場に戻ることができず、また多くの損傷艦が修理されることもなくそのままスクラップとなった。


沖縄戦で大きく減じたとは言え特攻の有効率平均18.6%というのは、大戦末期に日本軍と連合軍の戦力差がついた状況下では高い確率であり、アメリカ軍の公式資料では、統計のある1944年10月(フィリピン戦で特攻が開始された時期)から1945年4月(沖縄戦初期)の間にアメリカ軍艦隊の視界内に入った日本軍航空機(従ってアメリカ軍艦隊到達前に撃墜された機は含まれない)による通常攻撃の攻撃有効率はわずか2.7%であったが、特攻の攻撃有効率は27.6%となっており差は10倍以上であった。(アメリカ海軍公式資料 Anti-Suicide Action Summary August 1945参照)

危うし!ピケット艦

特攻の意外な効果として次のようなエピソードもある。

九州各地から沖縄に向けて大量の特攻機が出撃し、連合軍艦隊に襲い掛かって大損害を被っている状況に業を煮やしたアメリカ軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、B-29本土空襲をしていたアメリカ陸軍航空隊戦略爆撃隊の第21爆撃機集団司令カーチス・ルメイ少将に、B-29を日本本土の大都市無差別爆撃任務から九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に回すよう要請した。

東京大空襲の大成功から、日本の大都市への焼夷弾による低空からの無差別爆撃を強化しようとしていた矢先であり、ルメイはニミッツの要請に難色を示したが、陸海軍の連携を重視するアメリカ陸軍中央からの指示もあり、渋々ながらB-29による特攻基地への戦術爆撃を開始した。このB-29による九州特攻基地への戦術爆撃任務は1945年4月初めから5月下旬の約1か月半行われ、延べ2,000機のB-29が出撃したが、その間は都市に対する無差別爆撃が休止されており、都市の被害の軽減に寄与しているのである。


なおB-29は元々そのような任務が不得手なことや、日本軍の巧みな偽装や航空機の隠匿もあって、特攻機に大きな損害を与えることはできず、逆に図体のでかいのが低空をウロウロするもんだから低高度ではまだまだ余力のあった日本軍戦闘機に襲いかかられ高射砲も精密に狙えるという有様になって伊号第十四潜水艦乗組員の酒の肴にされたやつもこの時期である)徒に損害を出し、結局爆撃任務は失敗に終わった。

富安俊助中尉機(第六筑波隊)-1

何だかんだで特攻は連合軍に物理的、精神的な大ダメージを与えた。10か月に及ぶ特攻で日本軍は2,550機の特攻機と約4,000人の特攻隊員を失ったが、55隻の連合軍軍艦を沈め、350隻以上に大小の損傷を被らせ、17,000人~33,000人(諸説あり)の連合軍兵士を殺傷した。

こうして見てゆくと(現代の一般的なイメージに反して)戦術的には大成功と言っても過言ではなく、むしろ当時の大多数の日本兵にとっては希望以外の何物でも無いものに映っていた事が理解できるだろう。


もっとも特攻で痛撃を浴びたアメリカ軍からは、特攻機は原始的な誘導兵器しか存在しない時代に突然現れたオーパーツ的な精密誘導兵器に見えた。ただし、その当時はアメリカ軍に該当する兵器がなかったため、戦後しばらくたって対艦ミサイルが開発されてから、特攻機の戦術的な意味合いを再認識している。


対零式艦上戦闘機空戦戦術「サッチウィーブ」の考案者でもあった、ジョン・サッチ少佐は、後年になって特攻戦術を「時代の先を行く兵器であった」「我々が誘導ミサイルを手にする以前の誘導ミサイルであった」「人間の脳と目と手で誘導され、誘導ミサイルよりさらに優れていた」と評し、沖縄戦を取材したピューリッツァー賞受賞の従軍記者ハンソン・ボールドウィン記者も「こんにちのミサイルの出現を予見するものであった」と評している。


また、1999年5月にまとめられたアメリカ空軍の「精密誘導兵器」に関する論文においても、特攻機は「現代の対艦ミサイルに匹敵する兵器」と位置付けて、「対艦空中兵器として最大の脅威」「特攻機は比較的少数であったが、連合軍の作戦行動に大きな影響を与えており、実際の兵力以上に敵に多大な影響を及ぼす現代の対艦ミサイルのような存在であった」と結論付けられている。


従って、オーパーツ的な精密誘導兵器となった特攻機が、戦術的に有効であったのはある意味当たり前であった。ただし、その誘導装置が倫理感度外視の人力であったというのがこの戦術の最悪の問題点となるが・・・


特攻に痛撃を被ったアメリカ軍は、その対策として対空打撃力強化のために艦対空ミサイルの開発を開始、またレーダーピケット艦が多大な損害を被ったので、早期警戒網を艦船ではなく航空機に担わせることにして、強力なレーダーを搭載した早期警戒機が開発された。これらは現代においてもアメリカ海軍の防空戦術の要となっており、特攻が米海軍の防空戦術の近代化を促したと言っても過言ではないだろう。


だが戦局を挽回するまでには至らず、日本はついにポツダム宣言を受諾した。

結局、戦略的には特攻が寄与することはなかった


FAQ

特攻で撃沈した護衛空母は脆弱な構造で、一般の大型艦への有効打にはならなかったのでは?

USS Gambier Bay (CVE-73)

確かに護衛空母は戦時設計で「通常の空母よりは」簡素な構造をしていたが、それでも他の参戦国の空母と比較しても頑丈な造りで、満載時の排水量は10,000トン超と重巡洋艦クラスの威容を誇っていた。


そのため、撃沈することは非常に困難であり、大西洋、太平洋の両海域で対潜水艦のハンターキラー任務、艦船攻撃任務、上陸支援任務に加えて、戦艦や巡洋艦相手の砲撃戦など多彩な任務で暴れ回ったのにもかかわらず米軍が大戦中に失った護衛空母はたった6隻に過ぎなかった。

サマール沖海戦では「カリニン・ベイ」が20発以上の戦艦や重巡の巨弾を被弾したが致命的な損傷には至らず(これは薄い装甲であった為に徹甲弾が船体を貫通して外で爆発するだけで船体内部被害が少なかった事も原因)、その後も任務を継続しており、「ホワイト・プレーンズ」は「鳥海(重巡洋艦)」と撃ち合って、逆に鳥海を大破させるなど非常な難敵で、どれもアメリカ海軍お得意の「鬼ダメコン」も完備していた。

その中でも特攻が最強の敵となって「セント・ロー」「オマニー・ベイ」「ビスマルク・シー」3隻がわずか半年の間に特攻で沈められ、「サンガモン」が大破して除籍、他にも多数の護衛空母が特攻によって甚大な損傷を被っている。


そもそも特攻が本格化した1944年以降で、日本軍が航空機の攻撃で撃沈できた巡洋艦以上の大型艦は軽空母プリンストン」のたった1隻。これも消火活動の失敗などによる誘爆が主因であり、航空機による通常攻撃では、他に脆弱なはずの護衛空母すら撃沈できなかった。


とは言え、特攻が装甲で固められた戦艦装甲空母などに致命的な損害を与えることができなかったのは事実ではあるが

  1. 被害は水線下ではなく上部構造物のみになりやすく、突入角度も浅くなりがちでバイタルパートを装甲で纏った艦相手では貫通力に劣る。
  2. そのような艦艇に有効な魚雷は最早使用できない(飛行機は潜れない上、魚雷は爆弾より大きく重いので運動性が低下し、辿り着く前に撃墜される)。
  3. 制空権を確保し、大型艦をタコ殴りにできた大戦前期とは状況が異なっていたうえ、特攻と言う攻撃の性質上、確実にパイロットと機体が失われるので反復攻撃ができない。更には「成功したケースはパイロットが戻って来なかったケースの部分集合」という性質上、戦果確認や「特攻という戦術をより洗練させる」事にも制約が有る。

と、末期の戦局ではそもそも取れる手段が限られており、それ以前の戦果との単純比較はできない。

特攻が開始されて以降の連合軍の艦船の損失の80%が特攻によるものであり、大戦末期の日本軍にとって、特攻が敵艦船に有効な打撃を与えることができる最有力の戦術になっていた。

一方で、そもそも論として航空機による特攻は既存の軍用機をピーキーな運用をするか、ピーキーな仕様の特攻専用機を作るしかなく、特攻という戦術そのものが特攻機に積める爆弾≒純粋に物理的な破壊力の制約条件となっていたとも言える。

駆逐艦「ニューコム」や「ラフェイ」などは数回の特攻でも沈まなかったが?

「アブナ・リード」「ワード」「ロング」「オバーレンダー」「キャラハン」など1機で沈没しているし、「ウィリアム.D.ポーター」のように「命中こそしなかったが(※)」結果的には撃沈したものもある。特攻に限ったことではないが、要は当たり所次第ということだろう。

※:至近距離の海中で機体が爆発した結果、その衝撃波で海面から持ち上がる→再び海面に叩きつけられるという打撃により機関室に浸水を生じさせ最終的に転覆させたという。本来上部構造物を破壊しがちな特攻機が水線下に打撃を与えて沈めた例は珍しい。

特攻隊

飛行機ごとぶつかれば機体がクッションのようになって衝撃力を緩和してしまうのでは?

運動エネルギーの「質量に比例し速さの2乗に比例する」という法則からすれば、爆弾単体より、その数倍は質量のある機体も同時にぶつけた方が、単純には運動エネルギーが大きくなる。つまり角度や速度が同じであれば、爆弾単体より爆弾+特攻機の方が運動エネルギーは大きいことになる。

何より、特攻機の中には航空燃料が満載されていたので、命中すると「爆弾とナパーム弾が同時に命中したようなもの」と言われていた。そのため特攻を受けた艦艇の多くが炎上し、大量の水兵が重篤な火傷を負い、運よく生き残ってもダメージの大きさや後遺症から再起不能となるケースが多々あった。

(よって、「片道分だけの燃料を入れて飛ばした」という俗説はほぼ後世の創作と見ていい。入れれば入れるほど被害を拡大できるのだから。)

統計では1機の特攻機が連合軍艦船に命中する度に40名の連合軍将兵が死傷したとのことであり、米戦略爆撃調査団報告書でも「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」と総括されている。

機体の空気抵抗により、加速度が落ちるため衝撃力が弱まったのでは?

爆弾単体よりは特攻機の機体の空気抵抗によって命中時の速度が落ちるケースがあるというのは事実だが、それは高空から投下した場合の話。

日本軍による研究で、250㎏爆弾を投下した場合、高度2,000mからでは、命中時の時速は1,027km/h、1,000mからでは時速860km/h、500mからでは時速713km/h、特攻機が的確な角度で急降下した場合の命中時の速度が720km/hとなっている。

通常急降下爆撃は700m~400mの高度で投弾されるため、特攻機の機体の速度は急降下爆撃で投下した爆弾単体の速度とほぼ等しい計算となる。この条件下においては貫通力の観点でむしろ水平爆撃に比べ有効と言えた。


そもそも当時の爆弾は基本的に自由落下である。的確な角度で投下しなければ敵艦に掠りもせず、そのような腕を持ったパイロットは既に失われていた。だからマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」になったのである。

一方、最後まで操縦できる特攻機はさまざまな角度や速度で敵艦に命中できた。もちろんそれも理論上の話で、不慣れなパイロットによる不適切な操縦で爆弾単体よりも劣る結果に終わった例も多かったが。

特攻は志願兵によって行われたというが、いくらなんでも多すぎるのでは?

残念ながら現代で言う「パワハラ」や「同調圧力」にあたる事案が多発する、相当グレーゾーンな選考環境にあった事は確かである。

開始と同時に定められた「妻帯者、一人っ子長男などを除いて志願を募る」という自主規制も、当初から形骸化していたも同然であった。


だが、それを差し引いても熱烈な志願者は多かった。

士官学校卒の現役士官は「戦争が危急の際は率先して士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」などと、責任感による志願を行う傾向が強かった。

学徒出陣の予備士官においても、「我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた」というまさに合理主義的な勘定や、「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、いままで世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」というある種のノブレス・オブリージュが働いており、必ずしも士気は低くなかった。

中には「特攻隊員に志願しない者は航空機に乗せてもらえず、防空壕掘りや代用燃料の松根油の原料となる松の根っこ掘りに回されるという噂が広がり、自尊心から全員が特攻隊員を志願した」という筑波海軍航空隊の訓練生のような事例もあった。

だからこそ、彼ら自身が「パワハラ」や「同調圧力」の加害者になった例もまた多かった。


そもそも旧日本軍では、白旗を振らない=「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神は末端に至るまで広く共有されており、特攻どころか戦局の悪化以前から死亡率は高止まりしていた

そこから特攻に至るまでのハードルは、現代よりずっと低かったであろう事は想像に難くない。

戦国時代の戦闘が現代の常識では理解できないように、彼らもまた現代の感覚を超越した死生観の下に戦っていたというのが現実なのだろう。


でもこういうのって積極的なの陸軍だろ?

上記にあるように海軍。海軍は基本的に志願制であったため、その発想は端から「自殺攻撃を自ら志願する人間」という発想だったから、回天桜花と言った乗り込んだ時点で死を意味する代物を出した(回天については異説もあるが)。一方、徴兵制の陸軍は徒に兵を怒らせると、士官1人あたりに対する兵の数の多さもあって、いつ背中を撃たれるか解らなかったため、将官は兵を宥める心得が必要だった。

陸軍が特攻作戦に乗り出したのはむしろ下からの突き上げを抑えられなくなった部分が大きい。というのも、徴兵されている兵の地元がB-29に空襲されるなどして一家全滅などという事態が絶えなかったため、せめて一矢報いたいという意見が段々と高まってきたのである。この為陸軍の特攻兵器をよく見ると(生還できるかはともかく)土壇場で脱出できないものは造っていない事が解る。この為陸軍には特攻に出撃して機体は連合軍に突っ込ませて生還してまた出撃するというちょっと信じられないような記録を持っている特攻兵が何人かいる。


軍が広く支給していたという覚醒剤(日本では代表的な大日本製薬の商品名に因んでヒロポンと俗称されている)によって出撃を強制されたのでは?

ヒロポンのパッケージ

ヒロポンの支給は事実であるが、当時の目的は専ら疲労回復、眠気覚まし、夜間視力の向上のためであり、しかも、疲労回復、眠気覚ましという目的に於いては、アメリカ、イギリス、ナチスドイツなどの主要参戦国でも同様に使用(アメリカでは近年まで使用)されていた。なお、夜間視力の向上については医学的に根拠はなかったことが判明している。


覚醒剤としての「副作用」が発見されるのは戦後の事であり、それも一般労働者の乱用を受けてである。幸か不幸か薬品の生産力も乏しかった日本では、軍関係者にすら十分な量が行き渡っていなかったとする指摘もあり、薬漬けにして意のままに操るなど到底夢物語であった。

限りあるヒロポンは工場に優先的に振り向けて昼夜を問わずに働かせるという自転車操業じみたサイクルを形成しており、それによって労働者の間で使用が習慣化したという流れのようである。


近年になって、覚醒剤の一種であるメタンフェタミンを軍需用に常用していたナチスドイツ独裁者アドルフ・ヒトラーも持病の治療のため常用していたという証言もあり)に倣って、チョコレートにメタンフェタミン混ぜ込んだ「ヒロポン入りチョコ」を製造していたという証言が注目され、その「ヒロポン入りチョコ」が特攻隊員に支給されて死への恐怖を失わせるために利用されていたのではないかという指摘もある。


しかし、当時の日本陸軍航空技術研究所の研究員の証言では、「ヒロポン入りチョコ」は栄養剤やブドウ糖などを混ぜて作られたチョコレートの試作品の中の一つに過ぎず、大量に生産されたものではないうえ、食品に混ぜて口から摂取する程度の量では、死への恐怖を解消させるレベルの意識を混濁させるような重篤な中毒症状になるかは疑問視される。また、多くの特攻隊員の生還者や関係者の証言でも、出撃前に「ヒロポン入りチョコ」などで死への恐怖を失わされた(失わせた)という証言は見当たらない。

上記の通り、覚醒剤中毒が蔓延してその危険性が認知されるようになるのは、戦後になってGHQの命令によって、日本軍が本土決戦用に貯蔵していた大量の覚醒剤が巷に放出され、より効果の高い注射による摂取が蔓延するようになってからである。

当時の評価

昭和天皇は、特攻開始直後に戦果を奏上されると「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ」と戸惑いも見せていたが、悪化する一方の戦局のなかで、ほぼ唯一戦果を挙げている特攻に期待を寄せるようになり、硫黄島の戦いで特攻が大戦果を上げたと奏上されると、特攻での反復攻撃を命じ、沖縄戦では毎日もたらされる特攻の戦果報告の奏上を心待ちにしていたという。

しかし、それは昭和天皇が軍の最高指揮官たる大元帥としての一面であり、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしているのを見て、侍従武官は昭和天皇が複雑な心境を耐えている様子を察している。戦後に「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。」と回想している。

奥日光に疎開していた明仁皇太子(後の125代天皇、現上皇)は、特攻の講義を受けて「それでは人的戦力を消耗するだけでは?」と疑問を呈し、その質問に誰もが返答に窮したという。

8月15日

主な目標であった米軍関係者は、純粋に軍事的観点のみに限れば「冷静で合理的な軍事決定」として肯定的な評価をする傾向にある。

特攻を受けた現場の兵士は兎も角、特に特攻と相対した戦争当時の米軍高官らや、軍事評論家や研究家の間では、有効な戦術であったとの評価が一般的である。あるアメリカの軍事評論家は「日本人には受け入れにくい意見ではあるが」と前置きをしたうえで「もっと早くから特攻を始めるべきであった」と指摘している。

所詮他人事であると言えばそれまでだが、ある意味、合理性を尊ぶアメリカらしい思考ともいえる。


終戦直後に発生した、インドネシアベトナム独立戦争では、工業技術に勝る宗主国の軍隊相手に、文字通り命を武器に刺突爆雷などによる自殺的な攻撃さえも手段として用いたほか、独立を勝ち取るためとはいえ宗主国軍をはるかに上回る人的被害を出している。

また、第二次世界大戦のソ連一国の人的被害が2800万人(!)である。


裏を返せば、どんな非道な戦法であれ勝てば官軍だったのである。


「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」-朝倉宗滴


旧日本軍に必要だったのは、武士の精神は武士の精神でも、江戸時代ではなく戦国時代の武士の精神、すなわち「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」に代表される『葉隠』の精神だったのかもしれない。


戦後に日本に進駐した連合軍は特攻について徹底的に調査し

  • 「44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間にアメリカ軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」
  • 「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」
  • 「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」
  • 日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された」
  • 十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された
  • 「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」

などという報告書を作成している。

また、アメリカ軍の高官らも

  • 「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」
  • 「沖縄戦は攻撃側にもまことに高価なものであった・・・艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻により生じたものである」

(太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥)

  • 「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」
  • 「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった」

(第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督)

  • 切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」

(第3艦隊司令ウィリアム・ハルゼー提督)

  • 「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」

(連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥)

  • 「沖縄戦で艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」

(アメリカの著名な歴史研究家サミュエル・モリソン少将)

などと、個々の思いこそあれその脅威が大きかった事は一様に評している。


とは言え、その合理的な判断を尊ぶ当時のアメリカ首脳陣が、究極に安全な特攻対策として何を決断したか……

そう、核兵器の投下である。

人類の歴史で唯一変わらなかったもの。

外道には外道を。それが総力戦の末路であった。


主な関係者

なぜか特攻を企画したり指揮した関係者はほんの数名を除いて全く責任を取らなかったとの俗説が流布しているが、実際には多くの関係者が自ら特攻したり、戦後に責任をとって自決している。

また、生き残った関係者も多くは罪の意識に苛まれ、なかにはその贖罪として、特攻隊員の慰霊や顕彰に尽力した者も多い。自死、生存いずれを選択しても、特攻は多くの関係者の人生に暗い影を落とし続けたと言える。


阿南惟幾

日本のいちばん長い日

終戦時の陸軍大臣。その高潔な人格には定評あり全陸軍からの信頼も厚く、また侍従武官であったときには昭和天皇とも親交があり、昭和天皇が信頼している数少ない軍人の一人であった。


小説やその映画化である『日本のいちばん長い日』で俳優三船敏郎役所広司の熱演もあり一躍有名になった。鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任する前は陸軍航空総監部兼航空本部長という陸軍航空の責任者の任にあり、沖縄戦の特攻作戦を指揮していた。

阿南自身は「特別攻撃は決死隊であっても、生還の道は講じるべきである。敵艦への航空特攻のように、死によってのみ任務遂行できる出撃を命じるのは、上官としてあまりに武士の情にかける」と前から特攻には反対であったが、連合軍に一撃を加えて有利な講和に持ち込むという軍の方針から、最も有効的な作戦としての特攻を推進せざるを得なかった。

しかし、常々「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」と言っており、特攻隊員を後を追うことを決めていた様子。だが戦局悪化で他に陸軍大臣の適任者がいないことから、周囲から「航空機に乗って特攻するよりも、重大局面で身を挺して陸軍大臣を務めるのが真の忠義」と説得され「自分は特攻で討ち死にする覚悟であり、絶対に大臣などはやらない」と抵抗したが、最後は昭和天皇からの信頼も厚い鈴木貫太郎首相直々の説得により陸軍大臣に就任した。結果はどうあれ、最後は自決する覚悟だったとか。


陸軍大臣としては、国体護持と昭和天皇の安全の保障を目的として、引き続き一撃講和を主張し続けたが、昭和天皇のご聖断によりポツダム宣言受諾による無条件降伏を受け入れた。

泣き崩れる阿南に昭和天皇は「心配はいらない」と優しく声をかけている。


その後陸軍省に帰ると、降伏を受け入れず決起を迫る青年将校に「不服のものはこの阿南の屍を越えていけ」と一喝したが、このシーンは『日本のいちばん長い日』におけるハイライトシーンのひとつ。

最後の聖断が下った夜、当初からの覚悟に従い「一死以て大罪を謝し奉る」という遺書を遺して、陸軍のすべての罪を一身に背負って自決した。


宇垣纏

二月十五日は生誕日

昭和20年2月10日付で第五航空艦隊司令長官に着任し、終戦まで沖縄方面の特攻作戦を指揮した人物。

8月15日の玉音放送を聞き届けた後、独断で彗星11機を引きつれ沖縄に出撃、若い将兵16名を道連れに死亡した。

なおポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため正式な特攻とは認められていない。連合艦隊司令長官小沢冶三郎も命令違反行為として語気鋭く批判している。


宇垣は第五航空艦隊司令長官に就任した直後から最後は自ら特攻出撃すると決心しており、命令違反となっても、当初からの決心による出撃となった。なお僚機については宇垣は5機準備するように命令したが、そんな少ない機数で司令官を出撃させるわけにいかないと、部下たちが出撃志願して合計11機となった。

宇垣は隊長の中津留達雄大尉が操縦する隊長機に搭乗したが、偵察員の遠藤秋章飛曹長が宇垣との交代を拒否したため、宇垣は遠藤と同じ席に座って出撃することとなった。

また宇垣が自決に拘ったのは特攻作戦の他に自身が開戦時の聯合艦隊参謀長であったこと、ブーゲンビル上空で襲撃された時に山本五十六が死んだのに自身はおめおめと生きて帰ったことなど、様々な自責の念に囚われていたともいわれる。

厳密には命令違反の出撃での死亡であって戦死にはあたらないが、靖国神社には合祀されており、遊就館にも遺品が展示されている。


寺本熊市

「陸軍航空の父」と呼ばれたほど、日本陸軍航空隊の育成に尽力。太平洋戦争開戦時には「よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種を自動車でバラ撒いただけで、ほっておいても穀物の出来る国だ。その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄ってきた国だ。国力を侮ったらいかん。しかし決まってしまった以上は天子様にお仕えするだけだ。」と戦争の先行きに警鐘を鳴らしていたが、寺本の予言通りアメリカの圧倒的物量に対し日本軍は圧倒されて、本土付近まで連合軍が迫る事態に。

沖縄戦が開始された1945年4月には陸軍航空本部長として陸軍の特攻を指揮することとなったが敗戦を迎え、終戦直後に「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」という遺書を残して、古式通りの作法に則って割腹自決した。

寺本と阿南の自決によって、特攻が開始されて以降の陸軍航空の最高責任者であった航空本部長は2代続けて自決したことになる。


大西瀧冶郎

二千万! もうあと二千万!

昭和19年10月17日に第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任。レイテ海戦の際に爆装した零戦隊を特攻出撃させる。

特攻の考案者ということであたかも「冷酷非情な人でなし」のような印象を抱かれやすい男だが、本人は特攻について"統率の外道"と否定的に考えていた。その後軍令部次長となり、終戦まで海軍特攻の総指揮を執る。

終戦前には、このまま中途半端に無条件降伏を受け入れては、今まで出撃させてきた特攻隊員に申し訳が立たないと、徹底抗戦を説いて回った。その際に「あと2,000万人、成年男子の半分を特攻に出せば、日本は必ず勝てる」と主張していたというが、最後は昭和天皇の聖断により終戦が決まった。


最初の神風特攻隊となった関行男大尉らを見送ったときから、最後には自ら出撃するという強い意志であったが、終戦でそれもかなわなかったため翌日攻隊員たちに対する感謝と謝罪の旨を記した遺書を残し、官舎にて割腹自決した。自身への罰ということなのか介錯治療も拒否し、なるべく長い時間苦しむようにしたのだという。

終戦直後に自決したことから、彼が関与していない事柄まで責任を押し付けられている可能性が指摘されている。

最後まで徹底抗戦を主張していたが、遺書には若者たちに向けて「隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ」「日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡せよ」と軽挙妄動を謹んで全世界の平和のために尽くせと書いてあった。


戦後は遺志を継いだ妻の淑恵が特攻隊の慰霊行脚を行った。ある慰霊法要に招かれた淑恵は「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」と遺族や生き残った特攻隊員に土下座して詫びたが、その真摯な姿を見た遺族らからは逆に「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」と大西を擁護することばが上がったという。淑恵は多くの慰霊会や戦友会に呼ばれたが、そのたびに真摯な態度で謝罪を続けたので、いつしか、遺族や特攻隊員から大西を非難する声は聞かれなくなったという。

大西はのちに政府から勲一等旭日大綬章を追叙されたが「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」と述べている。淑恵の元には常に旧海軍軍人やその遺族が集っていたが、体調を崩して入院したときも、旧知の海軍軍人だけでなく、特攻隊員の遺族や生き残った特攻隊員のお見舞いが引きも切らず、大西の副官であった門司親徳(日本興業銀行役員、丸三証券社長)に看取られて亡くなった。誰ともなく、「特攻の父」と呼ばれた大西に対して、淑恵は「特攻の母」と呼ばれるようになったという。


伊藤整一

各種特攻兵器開発開始を日本海軍が組織決定したときの軍令部次長、その後、第二艦隊の司令官を拝命し、沖縄戦で戦艦大和を主力とする第一遊撃部隊を率いて沖縄に海上特攻した。伊藤は連合艦隊からの、「一億総特攻の魁となっていただきたい」という命令を受け入れたが、予備士官69人を出撃前に大和から降ろし、また大和が米軍艦載機の集中攻撃で沈没寸前の状況に陥ると作戦中止を命令し、自らは長官室に入って大和と運命をともにした。

伊藤の作戦中止の命令により、第一遊撃部隊は全滅を逃れ、雪風など4隻の駆逐艦が生還し3,000人の命が救われた。伊藤の息子伊藤叡(あきら)中尉も沖縄戦の特攻で戦死している。


有馬正文

第二十六航空戦隊司令官、「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と航空特攻を早くから提唱、台湾沖航空戦の際にも「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と述べて、参謀や副官が止めるのも聞かず司令自ら一式陸上攻撃機に搭乗して初の航空特攻を行うため出撃し戦死した。

他の軍高官が占領地で美食にふけるなかで、有馬は兵士らと同じ粗食を食するなど高潔な人柄で部下将兵に慕われたという。


城英一郎

1943年6月に特攻隊の構想をまとめ上申するも、当時軍令部に勤務していた「特攻の父」こと大西瀧冶郎少将に、「意見は了とするがまだその時ではない」と一旦は却下される。そのあとも熱心に航空特攻の開始を上申したが受け入れられず、結局、航空特攻は城の上申を却下した大西によって開始されることとなった。

その後にレイテ沖海戦では空母千代田の艦長として囮作戦に参加、任務を完遂したのちに米海軍艦隊に捕捉され、千代田と運命をともにした。


神重徳

あけましておめでとうございます

連合艦隊主席参謀在任時に戦艦大和の海上特攻を発案。若い頃からヒトラーに心酔しており、特徴のちょび髭はヒトラーを真似たもの。

神は「第一次ソロモン海戦」や「レイテ沖海戦」など、戦艦・巡洋艦の主力艦の突入作戦を好み、大和特攻についても昭和天皇の「なぜ陸海軍は反撃にでぬのか?逆上陸作戦などやってはどうか」という提案を利用して作戦を立案し、特攻作戦には批判的であった上官となる連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が不在の時を狙い、連合艦隊豊田司令長官の決裁をとってしまった。

しかし、海上特攻を第二艦隊司令の伊藤中将に伝える役目は上官草鹿に押し付け、厄介な役目を背負わされた草鹿は「決まってから参謀長の意見はどうですかもないもんだ」と立腹している。

終戦時には第10航空艦隊参謀長に異動し、出撃も自決もすることなく終戦を迎えたが、終戦後1か月経った9月15日に練習機「白菊」で他の高官らと移動中に白菊が海上に不時着水。そのまま行方不明となった。

神は水泳が非常に達者であったことや、他の高官らは全員救助されたこと、また、神が手を振って海に没していったとする目撃証言もあって、救助を拒否して自決したとの主張もあるが、神の息子は「父の性格からして自決はあり得ない」と述べており、真相は不明である。

また神は何らかの埋蔵金(一説には北京原人化石)を隠すために北海道に飛んでその帰りに遭難したという都市伝説も一部で信じられている。


隈部正美

フィリピンで陸軍航空隊の特攻を指揮した第4航空軍参謀長であったが、フィリピンで同軍が壊滅したため、その後は閑職に更迭されていた。

陸軍航空の叩き上げで、航空軍の参謀をする前は、陸軍航空部教育部長として多くの特攻隊員を育成して前線に送り出している。

第4航空軍参謀在籍時に、司令官の富永恭次と一緒に敵前逃亡に近い形で最前線のフィリピンを脱出したことを悔やんでおり、終戦直後に母親、妻、2人の娘と心中した。娘が小さいころから習ってきたバイオリンを奏でる中で、隈部が家族をひとりひとり拳銃で射殺し、最後に自ら撃ち込み自決したという。


親泊朝省

大本営報道部部長、内閣情報局情報官。主に国民や報道機関に戦況を知らせる責任者として、悪名高い大本営発表で過大な戦果を広報して国民を煽り続けた

特に沖縄戦における特攻では4月16日までに「特攻により393隻を沈没もしくは大損害を与えたが、そのなかには21隻の空母、19隻の戦艦、16隻の戦艦または大型巡洋艦、26隻の大型軍艦、55隻の巡洋艦、53隻の駆逐艦が含まれ、巡洋艦以上の大型艦85隻を含む217隻は撃沈確実である」「沖縄海域の敵艦船の60%はすでに沈没したか傷ついた」などと過大な戦果発表を行って、特攻隊員ら将兵や国民を煽り判断を狂わせた。

親泊は陸軍士官学校を主席で卒業した秀才ながら、前線で戦うことを好み、嘘の過大戦果報告をしなければいけないこの任務で「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。心の中では申し訳ないと詫びつづけている。ほんとうに辛い職務だ」と悩み続けていたという。

終戦後に後処理を律儀に終わらせたのち、8月20日に自宅で妻子と自決。親泊と妻女は拳銃で自決、10歳の長女と5歳の長男は青酸カリで自殺したが、家族4人が枕を並べてきちんと姿勢を正した状態で発見されたという。

親泊はフィリピン決戦前に国民を煽るために作曲された「比島決戦の歌」で西条八十の作詞に、曲のサビとして「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」というパワーワードを加えたことでも知られている。


小林巌

航空総軍兵器本部で陸軍特攻兵器の開発を担当した責任者。戦後に手榴弾で自爆した。


水谷栄三郎

陸軍技研爆弾関係部長兼審査部員、主に陸軍特攻機の搭載爆弾やその爆装についての研究開発を行った責任者。

大本営の命令とはいえ特攻機の開発を行ってきたことの責任を果たすために8月15日の深夜に研究・開発に従事してきた福生飛行場(今の横田基地)で拳銃自決、水谷の遺書により遺体は飛行場に葬られた。


加藤秀吉

練習機「白菊」で特攻作戦を行った海軍高知航空隊司令官。未熟な訓練生を即席で特攻隊員として、練習機で特攻に出撃させるという末期の日本軍の苦境を象徴するような作戦であり、上層部も大きな期待はかけておらず、特攻に反対したとされる(実際は違うが)夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の隊長美濃部正少佐からは「2,000機あっても無駄、俺なら1機の零戦でも全滅させてやる」と味噌糞にdisられたが、周到な訓練と巧みな作戦指揮もあって2隻の駆逐艦を撃沈するなどの戦果を挙げて、連合軍をビビらせている。ちなみに練習機特攻をdisった「芙蓉部隊」の艦船攻撃の戦果は0であった。戦後になって責任を感じて自決しようとする加藤を、そうはさせまいと部下が拳銃や軍刀を取り上げ軟禁したが、部下の隙をついて井戸に身投げして自決したという。なお、高橋ヒロシのヤンキー漫画の金字塔クローズに同姓同名キャラが登場している。


岡村基春

日本軍における戦闘機搭乗員の第一人者のひとり、その卓越した操縦技術は「岡村サーカス」などと呼ばれた。

早くから航空特攻開始を提唱し、自分をその指揮官にしてほしいと懇願し、人間爆弾「桜花」を運用する「神雷部隊」の指揮官を拝命。桜花の初陣の日に桜花隊の護衛戦闘機を希望の機数準備してもらえなかったので、飛行隊長の野中五郎少佐に「自分が代わりに出撃する」と命じるも、野中から「そんなに自分が信頼できませんか、ごめん被ります」と拒否されている。野中隊は敵艦隊に接触できすに全滅、岡村はその報を聞くと大声で嗚咽したという。

その後も桜花や通常の特攻機を送り出したが敗戦。戦後は進駐軍から皇族を護持する「皇統護持作戦」にも関わったが、皇室は存続したので、その後は復員省で部下の復員と故郷への帰郷を支援しながら、休みには自費で特攻隊員の慰霊巡りを行った。戦後処理の目途もついた1948年に最初に特攻を上申した千葉で線路に飛び込み鉄道自殺を遂げた。


藤井権吉

陸軍飛行第66戦隊戦闘隊長。

第66戦隊は沖縄戦で主に鹿児島の万世基地より、「99式双発軽爆撃機軽爆撃機」を主戦力として、特攻及び艦船攻撃や沖縄飛行場爆撃などの特攻支援任務につき69人の戦死者を出した。

終戦後に戦闘隊長の藤井は妻子が疎開していた黒部市に向かい、ダグラス・マッカーサーが厚木基地に進駐してきた8月26日に黒部で妻子とともに拳銃で自決した。義父に充てた遺書には特攻を推進した陸軍第6航空軍司令部への批判と、勝機を逃して余力を残したまま降伏した政府に対しての不満が記してあった。


林野民三郎

下志津陸軍飛行学校教官およびテストパイロットとして陸軍特攻隊員の育成と航空機開発に携わり、終戦直後に多数の教え子を特攻で死なせた責任をとって割腹自決した。

大石小学校(2001年閉校)通学時に作詞した故郷の岩手県の唐丹湾大石浜を詠った「大石賛歌」という唱歌が伝わっている。


橘健康

陸軍航空隊第29戦隊戦闘班長。

同隊は1945年から台湾を基地として「四式戦闘機(疾風)」で特攻機の直掩を行っていたが、途中からは戦隊自ら特攻を行った。

橘は当初は直掩任務につき多くの特攻機を見送ったが、最終的には自ら特攻に志願し隊長として出撃する予定であった。しかし出撃前に終戦となったため、多くの特攻機を見送ったことと、自ら出撃できなかった悔恨により、愛機「疾風」のコックピット内で拳銃自決した。


黒木博司・仁科関夫

君が為 只一筋の 誠心に 当たりて砕けぬ 敵やあるべき

人間魚雷「回天」の提唱者。

「必死の戦法さえ採用せられ、これを継ぎゆくものさえあれば、たとえ明日殉職するとも更に遺憾なし」と自ら「回天」に搭乗して特攻することを志願。志願通りに回天隊員となったが、黒木は訓練中に事故に遭遇。海底に着底し酸素が薄れ行く回天の中で取り乱すことなく、意識を失うまで事故の原因や遺書を艇内に書き残し殉職したという。

仁科は黒木の遺骨を抱いて初の回天作戦に出撃し大型タンカーに特攻。これを撃沈して戦死した。


中原一雄・長島良次

徳島海軍航空隊、練習機「白菊」特攻隊士官。

両名とも学徒出陣の予備士官であったが、戦友や部下らの多くが特攻で散華したにも拘わらず自身は出撃することなく終戦を迎えたことに責任を感じ、徳島空の部下らの復員を見届けたのちにお互いに航空機銃を相手に向けて撃ち合うという壮絶な自決を行った。

海上自衛隊徳島教育航空群の徳島基地には両名の慰霊碑が建立され、今日でも生徒らにより定期的に清掃が行われている。


橋口寛

人間魚雷「回天」の教官で、「回天」特別攻撃隊神州隊長でもあった。

先に出撃した戦友や教官として育成した回天隊員の後に続こうと「回天」での出撃を志願し、志願かなって終戦直前に「回天」特別攻撃隊神州隊長として出撃するも母艦の「伊-36潜水艦」が損傷したため、出撃することなく帰還。

その後再出撃の機会をうかがっていたが終戦となり、死に遅れたと感じた橋口は終戦後の8月18日に出撃を強行するも、司令部からの命令により帰還させられた。「1億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代において神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到し罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、責を執らざるべからず(要約:わたしの働きが足りなかったがために、わたしの代で神州=日本の在り方を守りきれず終わってしまった罪を、天皇陛下やその祖先の方々の前に深くお詫びし、その責任を取ります)。」とする遺書を遺して「国体を護持」できなかった責任をとるために自決した。


奥山道郎

義烈空挺隊

日本本土を空襲するB-29を地上で撃破するためにサイパン島へ突入すべく編成された空挺特攻隊「義烈空挺隊」の指揮官。

空隊部隊から柔道剣道有段者などの精鋭が集められたが、奥山はその指揮官を志願した。のちに「義烈空挺隊」には陸軍中野学校スパイも参加し、敵地に潜入し情報収集や破壊活動を行う計画もされたが、やもすればエリート意識も高い中野学校のスパイたちも奥山の豪放磊落な人柄に触れて心酔している。

「義烈空挺隊」は紆余曲折を経て、最終的に沖縄戦で日本軍の最大の障害となっていた沖縄本島の米軍飛行場に突入することとなったが、奥山は一番機に搭乗して真っ先に突入。残念ながら奥山の機は突入直前に撃墜され、奥山以下全員が戦死したが、原田宣章少尉率いる4番機が米軍の読谷飛行場に突入成功し、輸送機や大型爆撃機など9機を爆破炎上させ、29機を撃破、ドラム缶600本70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、20人の米兵を殺傷して全滅した。


国定謙男

第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀など搭乗員の育成関連の軍務を歴任し、多くの特攻隊員を育成。

終戦前には軍令部参謀となり、特攻推進派の軍令部次長大西の下で主に沖縄戦や本土決戦の戦備関係の軍務に就いた。国定が育てた搭乗員の多くが特攻隊員として戦死しその責任を痛感していたとのことで、終戦後に妻子と共に自決した。


小野寺謙介

陸軍航空士官学校で、多くの陸軍航空士官を育成、育成された航空士官の多くが特攻隊として散華した。

終戦後にとある寺で「自分達将校は作戦を誤ったばかりに、こんな惨めな敗戦となり、上は天皇陛下の宸襟を悩まし奉り、国民には惨めな敗戦の苦痛を味あわせ、今は死をもって御詫びする以外にないと立ち至りました。どうか自決の場所に境内の一角をお貸し頂きたい」と訪れた。その寺の住職は思いとどまるよう説得するも小野寺の意志は固く、自決を応諾せざるを得なかったという。小野寺は墓地の一角でパラシュートを下に敷いて割腹自決を遂げた。


藤井一

熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官として特攻隊員を育成したが、自分も教え子たちと一緒に特攻出撃したいと考え特攻志願。

しかし陸軍は藤井が教官であることや、新妻と幼子がいることから志願を却下。それでも諦めずに何度も志願する夫を見て、妻が「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます」と遺書を遺して子供と心中。悲嘆に暮れる藤井は志願書を血書で提出し、事情を知った陸軍はようやく藤井の志願を受理。藤井は教え子たちと沖縄に突入して戦死した。


菅原道大

沖縄戦で陸軍の航空特攻を推進した第6航空軍の司令官。

特攻隊員を「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と送り出し、実際に自分が乗り込む特攻機を用意する命令まで出していたが、玉音放送で天皇からの停戦命令あるや、命令通り出撃は断念。

それでも、海軍の特攻司令官宇垣の出撃を知った参謀や特攻隊員らから、「一緒に出撃しましょう」と懇願されるも、天皇からの停戦命令があった以上、無駄な犠牲を避けるべく「命令通り、出撃は不可」と参謀らを説き伏せた。

終戦直後は天皇からの命令通り特攻出撃は断念したものの、責任をとって自決するつもりで、そのタイミングを「九州を去る時」「軍司令官罷免の時」「敵の捕手、身辺に来る直前」などと考えていたが、軍司令官として終戦処理に追われている間にタイミングを逸していた。

そんなある日、部下の参謀から「海軍の特攻指揮官は自決したので、もっとも特攻を知る指揮官として隊員の供養をしたらどうか?」と進言され、「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」「海軍側については宇垣纏中将、大西瀧治郎中将既に無く、福留繁中将あるも極めて限定的なり」と思い立ち、もっとも特攻を知る者として特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことに。


特攻隊員との約束を破りおめおめ生き延びたなどとバッシングされることも多い一方で、除隊後にはじめた農業の稼ぎの多くを特攻隊員遺族巡りに費やし、畳もないゴザ敷きのあばら家に居住するなど質素を通り越して貧相な生活を送りながら、戦後に自衛隊に入って出世した元部下や政治家などの人脈を最大限に活用、特攻隊員慰霊のための特攻平和観音像を知覧に建立するために募金活動などで尽力した。特攻平和観音像は「特攻の母」として名高い鳥濱トメも特攻隊員を慰霊するために建立を切望しており、その後に特攻平和観音近くには知覧特攻平和会館も併設されて、多くの観光客が知覧を訪れるきっかけともなっている。

これらの慰霊活動についても「自己正当化だ」ともバッシングを受けたが、「申し訳ない。私は鬼畜生と思われてもいい。だが彼ら(特攻隊員)のことは悪く書かないでくれ。」と土下座して詫びたという。


次男からも「父は自決すべきだったが、前途ある若者を道連れにしなかったことがせめてもの救い」などと厳しい言葉を投げかけられながらも、晩年に認知症となるまで活動を続けて特攻平和観音奉賛会を設立、特攻戦死者の慰霊顕彰に尽力した。そして菅原が特攻を命じて戦死した特攻隊員の遺族からの信頼を得て、菅原の三男が特攻平和観音奉賛会から発展した特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の理事長を務めることに。


戦史作家の大家高木俊朗とは当初こそ良好な関係で、高木の執筆活動のために貴重な資料や証言を提供していたが、軍バッシングの急先鋒であった高木が、提供した資料や証言と反するようなことを記述したため、途中から協力を拒否したところ、高木から徹底的にdisられるようになり、また、それを真に受けた他の作家などからもボロクソに叩かれるようになってしまったが、自分に対する悪評には一切反論しなかった。


そのため陸軍航空隊の育ての親的な存在で、大戦初期から中期はマレー、シンガポール、蘭印(今のインドネシア)、ビルマ(今のミャンマー)で航空部隊を指揮して多大な戦果を挙げたにも拘わらず、その功績は一切無視されてしまっている。


富永恭次

帝国陸軍・富永恭次(とみなが きょうじ)

第4航空軍の司令官としてフィリピンにおける陸軍航空隊の特攻を指揮。

前任の陸軍次官時代は、総理大臣兼陸軍大臣の東條英機大将と懇意なことを笠に着て威張り散らし、「東條の腰巾着」などと呼ばれて大変に評判が悪かったという。

しかし第4航空軍にきてからは、最高司令官にもかかわらず、空襲になると高射砲陣地に陣取って敵機の銃爆撃のなかで対空射撃の陣頭指揮を執るなど勇ましいところを見せたり、将兵らと一緒に飲み会したり、功績を自分の目で確認すると大盤振る舞いで昇進させたり、プレゼントを送ったり、出撃する隊員には一人一人泣きながら握手したり、地上で苦戦する地上軍のために周囲の反対を押し切って、作戦機で補給物資の空輸を行うなど、多少オーバーアクション的な対応が好評を博し、特攻隊員らパイロットたちの評判はむしろ高かった。

新聞記者が特攻隊員と飲み会すると特攻隊員は口々に「参謀は信用できんが富永司令官は俺たちのことをわかってくれる」と話していたという。何度も特攻出撃させられた「不死身の特攻兵」として有名な佐々木友次伍長も大変に富永を慕っていた様子。


逆に参謀や高級士官には厳しく当たったり、独断専行することが多かったりしたので煙たがられていたが、参謀や高級士官の言うことはあまり聞かなくても、優秀な若手士官の意見を参考にすることもあって、陸軍次官時代には「陸海軍統一運用」や「松代大本営」といった重要な施策を部下からの上申を受けて実現化にむけ尽力し、大変に頼りにされていたという。


フィリピンの戦いで第4航空軍は通常攻撃や対艦船特攻、空挺特攻など多彩な作戦でアメリカ軍に大損害を与えるも、航空機を使い果たしてしまった。富永は、後から続くと言って出撃させた特攻隊員に申し訳ない、マニラを死守して討ち死にすると主張していたが、アメリカ軍がルソン島に上陸すると、部下将兵を置いたまま最前線のフィリピンから敵前逃亡に等しい無断撤退をしてしまった。

この無断撤退、

  1. 後方のフィリピンで戦力を立て直した方がいいとする助言が南方軍や第14方面軍などから富永に寄せられた
  2. 富永自身、航空戦力もない第4航空軍が慣れない地上戦を戦って玉砕するよりも、戦力を立て直したいと考えが変わってきていた
  3. 特攻隊を毎日見送ってかなり精神が参っていたらしく、「鳥の鳴き声がうるさいから全部打ち落とせ」などと無茶振り。その頃、同じく台湾への後退を希望していた参謀長からの「大本営から台湾への後退の命令が来た」という虚偽報告を信じたふりをして撤退した

……というのが真相である。


が、簡単に追認されるという目論見が外れて大問題となり「敵前逃亡」扱いされてしまう。

第4航空軍の台湾への撤退を内心仕方ないと考えていた直属の司令官の山下奉文大将は、正式な許可も取らずに独断専行した富永に激怒し、フィリピンに残された将兵からも密かに替え歌を歌われるほどバカにされてしまう。

逃亡時の飛行機には部下をわざわざ下ろし芸者を一緒に乗せたとか、ウイスキーを大量に積んだとか、無能ぶりを際立たせる目的で濡れ衣を着せられることもあるが、富永が逃亡時に搭乗したのは復座の99式襲撃機であり、芸者を何人も詰め込むことはできないし、実際にはデング熱で弱っていた富永を、参謀たちがどうにか後部座席に押し込んで出発させている。

また、富永としばらく寝起きを共にしていた読売新聞従軍記者によれば、富永は下戸であり、わざわざ飲めないウイスキーを持っていくとは考えられないし、芸者に至っては、マニラの日本陸軍ご用達の料亭『廣松』の芸者たちは、ルソン島に残った第14方面軍の管理下にあって、富永らが逃亡後もルソン島に残り、第14方面軍とルソン島山中を終戦まで彷徨っており、一緒に逃げたという事実はない。


このような濡れ衣を着せられたのは、富永の看護をしていた日本赤十字社の従軍看護婦を慰安婦と勘違いした兵士がデマを広げたり、また、料亭『廣松』が富永ら第4航空軍専属の料亭で、富永らが愛人を囲っていたとか事実ではないことを、戦後の「暴露」ブームのなかで面白おかしく雑誌や戦記に書かれたからであった。どうにか日本に生還した料亭『廣松』の女将が戦後に語ったことによれば、料亭『廣松』は第14方面軍の管理下であり、女将を始め芸者たちは、自分ら同世代で若くして死んでいく特攻隊員たちに同情し、富永ら司令部の年寄たちが特攻すればいいと非難していたなど、第4航空軍司令部には批判的であったとのことで、特別に親密な関係ではなかったとしている。


結局、今さら富永をフィリピンに戻しても仕方がないという陸軍中央の判断もあって、敵前逃亡に等しい独断での撤退は追認されたが、さすがに現役にはとどまれず、予備役行きとなった。

しかし本土決戦準備による根こそぎ動員の師団濫造で師団長ができる階級の将官が不足したために急遽現役復帰させられ、根こそぎ動員師団の師団長に(軍司令官から根こそぎ動員師団師団長であり明確な降格)。富永の師団は満州に送られたが、ソ連軍と戦闘前に終戦となったのでそのままソ連軍の捕虜となった。

戦後はモスクワに連れて行かれて6年間も尋問されたのち、軍事裁判で死刑の求刑に対して強制労働75年の判決が出て強制収容所に収容されたが、強制労働させられていた最中に身体を壊して釈放となった。


シベリア抑留は長期に及び、日本に帰還したときには満足に歩行できないほど衰弱していた。帰国後は当然、敵前逃亡に等しい無断撤退などでバッシングを受けたが、陸軍兵学校の同期や可愛がっていた特攻隊員の生き残りや遺族などは擁護する声も多く論争を巻き起こした。

本人はそんな論争をよそに、シベリアに残された抑留者の開放を各方面に呼びかける運動をしたのちは「敗軍の将は兵を語らず」として積極的に反論することもなく、5年後に心臓衰弱のため死去した。


長男は父親の汚名を返上しようと特攻に志願し、そのあまりに堂々とした態度に「あれは誰か」と参謀が尋ねると「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたとされる。その手には富永から贈られた日章旗を握りしめていたとか。

菅原道大と同様、作家高木俊朗の著書で徹底的に罵倒された影響で実像以上に悪者にされている気の毒な人でもある。


黒島亀人

センシティブな作品

山本五十六の懐刀として数々の奇策を発案し、「変人参謀」と言われた男。軍令部第2部長時代に海軍特攻の採用に決定的な役割を果たし、自らも「甲標的」丙型、「震洋」など多くの特攻兵器を立案した。

黒木大尉と仁科中尉が発案した人間魚雷「回天」、大田特務少尉が発案した人間爆弾「桜花」の開発が決定されたのも黒島の意向がはたらいたためと言われる。

戦後に多くの陸海軍将官が自決したなかでも黒島は生き残り、軍令部の重要書類を勝手に焼却したり、宇垣纒の手記(後に「戦藻録」として出版)を遺族から借り出して自分に都合の悪い部分を「電車に置き忘れた」として「紛失」したり。ほかにも軍関係の資料を借りて「紛失」しており、自分に都合の悪い資料を破棄した可能性が指摘されている。


戦中に資産家の木村家が戦災で苦労しているのを援助した縁で、戦後に木村家が開業した顕微鏡販売業の会社に迎えられるが、戦中は「軍神」と持て囃された山本の妻女が、国の援助もなく住居にも事欠く困窮生活を送っていたのを知るや、自分は常務に退いて山本礼子を副社長に迎えることで経済的に支援を行った。

住居は厚意で木村家の豪邸に寄宿させてもらっており、黒島は非常勤役員として豪邸の庭で果物や野菜などを栽培して暮らしていたが、木村家からは頼りにされて会社経営の助言をよくしていたという。木村家の子供たちも黒島によく懐いて「黒島のおじちゃま」と呼んでいた。

黒島は農作業と会社業務の傍らで一心不乱に何かをノートにまとめていたといい、木村家の家族に「戦死した若い部下が出てきた。霊魂はあると思う」と語っていたこともあって、そのノートには特攻を含む戦史がまとめてあることも期待された。

享年72歳で天寿を全う、遺言は「南の島に飛行機が行く」であったが、黒島の死後に遺されたノートを木村家の家族が確認したところ、宗教哲学のような理解困難な記述ばかりで軍関連の記述は一切無かったという。


美濃部正

特攻を拒否した部隊として、特攻をdisる際に必ずといっていいほど持ち持ち上げられる夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の指揮官。「特攻を拒否しても、特攻を凌駕する戦果をあげた」などと特攻専用叩き棒としてマスコミなどに愛用(笑)されている。

しかし、実態は部隊編成時から敵機動部隊に対する特攻戦術を採用しており、実際には硫黄島の戦い沖縄戦では志願もしてない隊員に特攻を命じ、連合艦隊からは特攻戦死者に対する感状も授与されている。それだけやっても戦果らしい戦果はほぼないという残念な戦績であった。しかし、他の多くの日本軍指揮官と同様に「俺も後を追う」と宣言しながら特攻も自決もせずに天寿を全うした。なお「特攻拒否宣言」についても芙蓉部隊隊員からは「そんな話聞いてねーよ」「オレたちも特攻隊員だったぜ」などというツッコミもあっており詳細は不明である。

しかしマスコミや一部書籍などで持ち上げられまくった結果、実像とかけ離れた印象が定着しているため、disられることが多い旧日本軍人の中でも数少ない勝ち組と言えるだろう。


くわしくは「芙蓉部隊」を参照。


玉井浅一

第201航空隊副長のときに、大西が提案した神風特別攻撃隊の編成に携わった男。特攻第一号と称されている「敷島隊」の関行男大尉(死後中佐に昇格)を隊長として人選したのも玉井であった。その後201空の司令官に昇進してフィリピンでの特攻を指揮。

元々は温和な人物であったが、特攻の指揮では人が変わったかのように厳しく、ある日特攻出撃しながら体当たりをせず、敵艦に爆弾を投下して帰還してきた特攻隊員がいたが、玉井はその特攻隊員を数時間にも渡って叱責、同じ日に再度特攻出撃させたりしている。


一方で、出撃したものの接敵できず帰還した特攻機が「故障で爆弾が投棄できなかったので危険を冒してそのまま着陸を強行、無事に着陸」できたのを見た玉井はその特攻隊員を泣きながら抱きかかえて無事を喜んだという。また、特攻に志願したエースパイロットを思いとどまるように説得したこともあった。

従軍記者などに裏から手を回して、特攻隊員を飲みに連れて行ったりして、気持ちを和ませるように手配しているなど、きめ細やかな気配りもしている。

フィリピンが米軍の手に落ちると、台湾に撤退して、新しく編成された第205航空隊指揮官として、終戦まで沖縄に特攻機を送り続けた。ある意味、航空特攻の開始から終戦までもっとも特攻に携わった指揮官とも言える。


戦後は、先に自決した元上官の大西の遺書にあった「日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡せ」ということばに影響されて、生き延びることを選択したが、周囲からは若者を特攻で死なせながら生き永らえる玉井に批判もあり、就職もままならず、悪徳商法にひっかかったりと、極貧生活のなかで性格も荒れて娘にDVすることもあった模様。

老境に差し掛かった頃に知人の薦めもあって、自分が送り出した特攻隊員の霊を慰めるために仏門に入り、一から修行して住職となった。仏門に入ってからは、どんなに寒くとも毎日水垢離の苦行を欠かさず、また自分が出撃を命じ戦死した特攻隊員の名前を全員記憶しており、お経と一緒に唱えながら冥福を祈っていたという。

高齢になって身体が弱っており、家族から水垢離の苦行を止めるように言われていたが、まるで自分の身体を虐めるかのように止めることはなく、厳冬のある朝に水垢離の苦行中に心臓発作で急死した。


猿渡篤孝

日本陸軍第4飛行師団の参謀長としてフィリピンで特攻を指揮。とくに「不死身の特攻兵」こと佐々木友次伍長に何度も特攻を強要し、それでも帰還を繰り返す佐々木を徹底的に罵倒したなどと主に作家高木俊朗の著書やそれを引用した書籍に書かれて、ある意味、無能で非人道的な特攻作戦の参謀の典型的な人物として激しいバッシングを受けている人物。


しかし、猿渡は飛行兵から叩き上げで航空参謀にまでなった苦労人で、日中戦争、ノモンハン事件、そして太平洋戦争と、日本陸軍航空隊が戦った戦場で常に航空作戦に携わってきた航空作戦のエキスパートであった。

飛行兵からの叩き上げで参謀になった猿渡は飛行兵たちからの信頼も厚く、戦後には猿渡が特攻を命じた少年航空兵たちの戦友会が、自分らの証言集を出版したときには序文の寄稿を依頼されたりしている。


富永ら第4航空軍司令部が台湾に逃亡したあとは、第4航空軍の置き去りにされた兵士の指揮をとり、自らも先頭に立って最前線で戦い、フィリピンゲリラの手榴弾によって目を負傷している。

このときに猿渡が、自分が何度も特攻を強要したのに結局生き残ってしまった佐々木に対し、このままでは特攻で戦死したと報告した手前、自分の立場が危うくなるので、狙撃隊を組織して暗殺指令を出した。などという真偽不明の噂を流布する者もいたが、これは他の第4飛行師団関係者や、佐々木と行動を共にしていた特攻隊員から否定されている。そもそも、明日をも知れない身で、日本に帰国できる望みなど全くなかった当時の猿渡が、日本における自分の立場を心配して、アメリカ軍との激戦の中で、わざわざ狙撃隊まで組織するなんて設定として無理がありすぎると思われる。


終戦時には、周辺で徹底抗戦をしていた部隊に投降を呼びかけて回って、多くの兵士の命を救ったりしている。あと、自分に都合が悪いと暗殺指令まで出したはず(笑)の佐々木の復員手続をしたのも猿渡であった。

戦後は航空関連会社を立ち上げて、日本の航空技術の進展に大きく寄与するなど社会的にも成功し、陸軍航空隊の戦友会の副理事も務めた。高木らからの誹謗中傷に対して、周囲が事実に基づかないなら反論すべきと勧めたが「この時代になっていろいろ言うのは野暮だから、もう何も言わないことにした」と敢えて反論することもなかった。


倉澤清忠

元々はパイロットで、鉾田教導飛行師団で自ら航空機を操縦しスキップボミングの研究をしていたが、乗機が故障で墜落してしまった。

倉澤は頭蓋骨を骨折して意識不明の重体となり、助からないと軍医に言われていたが、どうにか一命を取り留めた。しかし負傷の後遺症で極端な視力低下と慢性的な頭痛に襲われるようになり、軍を除隊したいとも考えたが、戦争激化で航空士官の数が足らず、後遺症に苦しむなかで軍に復帰させられた。

復帰後は航空機の操縦は無理となったので参謀となり、引き続きスキップボミングの研究を行ったが、全陸軍から精鋭が集められたはず研究パイロットらのあまりの技量の低さに、陸軍航空隊パイロットにはスキップボミングは無理と諦めて、体当りしか方法がないという結論に至っている。実際、部隊は後に陸軍初の特攻隊「万朶隊」となった

その後に沖縄戦で陸軍特攻を指揮した第6航空軍参謀に異動、特攻隊の編制に関わるとともに、機体故障や特攻すべき敵艦が発見できずに帰還したパイロットが寝泊まりする施設「振武寮」の運営に携わった。


慢性的な頭痛に悩まされていた倉澤は、痛み止め代わりに酒をいつも飲んでおり、泥酔した状態で一部の反抗的な特攻隊員に「そんなに命が惜しいのか」となじったり、竹刀で殴ったり、軍人勅諭を筆写させるとかの罰ゲームをさせて、一部の特攻隊員に大変嫌われていたとか。

しかし地元の女子高生による慰問の学芸会日本舞踊(今日でいう創作ダンス的なもの)や合唱会などをかなりの頻度で開催し、そのうち仲良くなった特攻隊員とJKが付き合うのを黙認し、近所の警固公園デートするのを容認したり、電力会社OLとのお茶会(今でいう合コン)を企画し、翌日特攻隊員がOLと親交を深めるため外出するのを許可したり、かなりの頻度で歯医者に治療に行くと申し出る特攻隊員を(当然嘘)疑いも調べもせずに休暇と外出を許可したり、朝鮮人特攻隊員の賛美記事を自ら書いて新聞に寄稿したりと特攻隊員の福利厚生(?)に気を配っている一面も見せている。

また、帰還したのちに再出撃を申し出た特攻隊員を「お前ら臆病者に機体はやれん」と再出撃の申し出を却下したため、倉澤に虐められた特攻隊員は再出撃を逃れて"結果的に"全員生還している。とは言えやはり嫌われてはいたようで、大戦末期には階級が下の特攻隊員から反抗されて逆に殴り倒されることもあった。

しかも第6航空軍の高官は逆に殴った特攻隊員の肩を持って倉澤を叱責する始末で、(自業自得な気もするが)中間管理職の悲哀を味わっている。なお「振武寮」の運営には数人の参謀が携わっており、倉澤はその中でもっとも若く、一番の下っ端であった。


戦後は印刷会社を経営し、経済的に成功したので陸軍航空隊の戦友会の幹事などを務めて元陸軍軍人たちには人望があった一方で、虐めた特攻隊員からの報復を恐れていたのか軍刀やピストルを携帯し続けたという。なお亡くなる数年前に、倉澤が自ら警察署に父親の遺品として届け罪にはならなかったとのこと。

晩年に認知症の症状も出るなかで取材を受けた際、「軍人は命を落とすことが前提なのだから、命を惜しんで戻ってくる方が悪い」などと嘯いてしまったり、「振武寮」を舞台とした毛利恒之の小説(とその映画化)『月光の夏』で、倉澤をモチーフにした登場人物が俳優高橋長英の熱演もあって悪い意味で印象に残ったり、「月光の夏」のスマッシュヒットにより、「振武寮」にスポットライトが当たって、戦争当時に倉澤に後遺症の八つ当たりで虐められた特攻隊員達の回想本の出版やテレビ出演が続いたりして悪い意味で有名となってしまい晩節を汚してしまった。程なく(先の取材から数ヶ月後)天寿を全うしている。


大田正一

米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾「桜花」の発案者。

海軍航空隊の陸上攻撃機に搭乗し、日中戦争に従軍して数えきれないほどの実戦をくぐり抜けた歴戦の偵察士で、実戦の功績で4等兵(末端)から特務士官少尉まで昇進した叩き上げ。

太平洋戦争でも最前線ラバウル輸送機の機長として任務につき、戦局の悪化を目のあたりにして、かつてからアイデアマンであった大田は挽回の妙策を色々と考案していた。

大田は日本軍が無線誘導の対艦ミサイルを開発中であるという情報を聞きつけると、開発困難な誘導装置を諦めて人間が操縦する「人間爆弾」にした方が実用化は早いと思い立ち、東京大学航空研究所や海軍航空技術廠の協力を取り付けて図面なども作成し海軍軍令部に提案した。

軍令部も悪化する戦局を一発逆転できるような兵器を兵器を望んでおり、本来なら採用されるはずもない、技術将校ですらない特務士官の案が採用されて「桜花」の開発が決定した。

大田の「自ら搭乗する」という熱心な説得が多くの技術者たちの心を揺り動かしたが、偵察士であった大田が操縦士の訓練を受けたものの「操縦適性なし」と判定されて自ら桜花で出撃することはなかった。


その後、大田は桜花を運用する「神雷部隊」に配属されて隊員たちの世話役に。

ある日予備士官と下士官で揉め事があり、下士官が軍刀で予備士官に斬りかかろうとしたときは、自ら身を挺して「俺を斬ってからいけ」などと制止、両者の仲裁をおこなったことも。下士官たちは兵卒から叩き上げで特務士官となった大田だから自分たちの気持ちが解ると頼りにしていたという。

しかし、何の権限もない大田にできることはこのぐらいで、桜花は本土決戦決戦兵器としてジェットエンジン化されるなど改良が進められたが、技術者ですらない大田は全く関与していなかった。

終戦直前には精神的に病んでおり、自殺も心配されたので仕事も与えられず監視下に置かれたが、終戦が決まると練習機に乗って飛び出してそのまま行方不明となり死亡と認定された。

だが練習機は海上に不時着水しており、大田は漁師に救助された。助かった大田は無戸籍のまま生きることとし、「横山道雄」という偽名で履歴書がなくても働ける職を転々とし、妻子がいながら新しい恋人もつくって事実婚し、子宝にも恵まれた。

桜花などの新兵器や新戦術を数多く考え出したように発想豊かで、また手先も器用だったことから、自宅も自分で建築して、地下には工作所まで誘致している。

口もうまく、無戸籍であったので職を転々とせざるを得なかったが、職が途切れることはなく75歳まで働いたという。


事実婚の妻と子供は「横山道雄」が偽名で、本名は大田であることを知っており、大田も酒に酔うと大田姓での戦争体験の話をよくしたが、桜花の話をすることはなかった。

前立腺がんを患い、自分の寿命が長くないことを知ると、高野山を訪ねて僧侶に自分が大田正一で桜花の発案者であることをカミングアウトし、その足で和歌山の三段壁から飛び降り自殺を図るも警察に発見されて未遂に終わった。

家族に保護された大田はがんの進行で衰弱しており、余命いくばくもなかったが、うわごとで戦争のときのことを話し、「すまなかった」と詫びたりしているのを見て、家族は太田が「桜花」戦没者へ贖罪して生涯を終えたかったと痛感させられた。

自殺未遂の半年後に大田はこの世を去ったが、家族は死亡届を「大田正一」で提出して受理されたという。


ハヨ・ヘルマン

カミカゼにインスパイアされ、対戦略爆撃機用の空対空特攻隊「エルベ特別攻撃隊」を編成。

一回目の出撃で大失敗してヒトラーの怒りを買い解隊となり、終戦時にソ連軍捕虜となったが、無事生き延びて捕虜から解放されたあとは弁護士となって幸せな余生を送り、ナチス擁護とホロコースト否定を主張し続け97歳で大往生した。


ハンナ・ライチュ

ドイツ初の女性テストパイロット。

ヒトラーに気に入られ、兵器開発に口を挟めるようになったので、報復兵器「V-1飛行爆弾」の有人化を提言し採用された。

本人はこの特攻兵器に乗ることはなく、そもそも実戦に投入されることもなかったものの、その後もナチスドイツ版特攻隊となる「レオニダス隊」の編成を進言しまた採用

だがこれも終戦直前に36名のパイロットが500㎏爆弾を搭載したBf109に搭乗し、ソ連赤軍の足止めをするためとして軍艦でも航空機でもない橋に特攻させられて全員が戦死、ソ連軍の足止めも失敗と最悪の結果に終わった。

「レオニダス隊」が特攻しているころ、ライチュはベルリンの総統防空壕の中にいたが、ヒトラー自決前に総統防空壕を逃亡して生き延びた。戦後はグライダーパイロットとして余生を送り、独身のまま67歳で他界した。


その後の「特攻」

イランイラン・イラク戦争において組織的な自爆攻撃を指揮・運用・実行した。当時のイランはイラン革命の混乱からイラクに対し劣勢であり、対抗手段の一つとして自爆攻撃を採用した。


イランの特攻の特徴は、革命に勝利したのが敬虔なイスラム教の信者であるという事を最大限に利用していた点にある。

宗教指導者達は死後の天国行きと祖国の勝利を確約すると、「天国への鍵」と言われる金属製乃至プラスチック製の「」をシンボルとして渡し、バイク自動車、時には徒歩によって実行させた。

主に革命防衛隊の中から志願者を募っていたらしく、構成員の殆どは10代の若者だったという。


これらの自爆歩兵と人海戦術により戦況を一時好転させるが、イラク軍がやがてソ連流の火力による突撃破砕戦術を身につけると効果を失っていった。

しかし、戦術自体はイスラム世界を中心に各地に流出して継承され、それらが現在も各地で発生する自爆テロに繋がってゆくのである。

2001年ニューヨークで起こった9.11旅客機追突や2015年11月13日に起こったパリ同時多発テロの自爆攻撃を「Kamikaze」と呼ぶ報道も多々あった。


ただし、現代の日本政府や自衛隊はもちろん、かつての特攻関係者の多くもそれらを特攻の系譜とは看做しておらず、同一視される事に不快感を覚える傾向がある。

手法に洗脳的要素が多分に含まれる点、被害者も「加害者も」民間人が含まれる事案が多々ある点は特に嫌悪しており、彼らはむしろ本質的に異なるものであると主張している。

これは単なる大和魂ではなく、「正規軍から正規軍に対する攻撃」は戦争の重要な構成要件だからである。厳密には「正規の服装で」という規定も含まれるが、これも旧日本軍は最後まで遵守していた。その限りは自殺攻撃を禁止する戦時国際法は無く、実際特攻自体が原因で裁きを受けた関係者は存在しないのである。

だが、それを目の当たりにした者が抱く恐怖とその行為を理解しがたい心情は、当時、戦争とはいえここまでするのかと特攻隊の攻撃を前にしてアメリカ軍将兵が抱いたであろう諸々の感情に近いと言え、その意味ではそれらの戦術もまた成功しているのかもしれない。


ちなみに現代では技術と資金さえ注ぎ込めば、標的を見つけるや否や本体ごと突っ込んで自爆するドローンなどという兵器も作れてしまう。

これらはそれが本務であるので「特攻」には含まれず、「徘徊型兵器(参考)」と呼ばれる。


現在、特攻隊として多くの若者が出撃した航空基地があった鹿児島県知覧には特攻に関する資料館があり、平和の啓蒙に努めている。

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桜花突入

特攻の零零戦


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