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田原成貴

たばらせいき

日本の元騎手、元調教師、競馬評論家、漫画原作者、エッセイスト、コラムニスト。
目次 [非表示]

概要

昭和後期から平成初期にかけてトウカイテイオーマヤノトップガンなどの主戦騎手を務め、「天才騎手」の異名をとった。

引退後は調教師となったが、覚醒剤に手を出して逮捕され競馬界から追放された。

現在は競馬評論家漫画原作者エッセイストコラムニストユーチューバー


プロフィール

生年月日1959年1月15日
出身地島根県鹿足郡柿木村(現・吉賀町
所属栗東トレーニングセンター
厩舎谷八郎厩舎(デビュー~1989年)⇒フリー(1989年~引退)
身長169cm
体重51kg
家族構成妻、長男、長女

来歴

競馬界と関係の無い一般家庭に生まれ育つ。

幼少期は萩原健一に憧れ、アイドル歌手を夢見ていた。

中学生の時にタケホープ号が当時の人気馬・ハイセイコー号を撃破した1973年度の日本ダービーに感銘を受け、騎手を志すようになる。

中学校を卒業後、馬事公苑・騎手養成所に入所。

1977年、養成所を卒業し騎手免許試験を受験するが不合格。

1978年に二度目の受験で合格。谷八郎厩舎所属騎手としてデビュー。同期の騎手には、昆貢嘉堂信雄安藤賢一らがいる。


騎手時代

1970年代~1980年代

1978年3月4日、谷の管理馬・テンシンニシキに騎乗し、デビュー戦にて初勝利を掲げるなど早くも頭角を現し、翌年1979年には計64勝を挙げ、2年目にして関西リーディングジョッキーに輝くなどの活躍ぶりを発揮。同年に落馬事故の影響で引退を余儀なくされた福永洋一福永祐一の実父)に次ぐ「天才騎手」として徐々に期待が集まり、同じく栗東トレーニングセンターに所属する先輩騎手・河内洋とは、毎年リーディングジョッキー争いを繰り広げるようになる。

1983年、リードホーユーに騎乗して同年度の有馬記念に勝利し、八大競走を初制覇。このことが称えられ、同年度のリーディングジョッキーに輝く。

1984年には、グレード制導入後最初のGI競走となった桜花賞をダイアナソロンで勝利し、日本初のGI騎手ともなった。


しかし、この頃から落馬による負傷が元で騎乗数を制限するようになる。

1986年にはリーディング争いに参戦するなど活躍するが、6月に騎乗馬の故障に伴う転倒の後、他馬に蹴られてしまい全治半年以上の重傷を負ってしまう。しかし9月には騎乗数を制限しながらも復帰、年末にはその騎乗数制限もやめた。1987年にはマックスビューティ桜花賞優駿牝馬の牝馬二冠を勝ち復活をアピール。

1989年にはコガネタイフウ阪神3歳ステークスを勝ちGI級競走7勝目。しかし、1990年にはそのコガネタイフウ騎乗中に落馬、腰椎と骨盤を骨折する重傷を負った。騎手にとっては致命傷にもなりえる腰の怪我であり、これ以後は騎乗数を常に制限しながら活動することになる。


1990年代~引退まで

1992年有馬記念、本来の主戦である岡部幸雄が騎乗停止になって鞍上未決だったトウカイテイオー陣営から騎乗依頼を受け、これを受諾(オファーのきっかけは、この前後に同じ松元省一厩舎所属の同馬主の馬に騎乗して勝利していた繋がりがあったため)。この時はテイオーの体調不良やスタート直後の不利などもあり11着と大敗するが、翌1993年の有馬記念で再度騎乗することになる。岡部がビワハヤヒデの先約があったこと、馬主は代役に武豊を希望したが、武の主戦であるベガの出走が決まって断られたことの2つが重なっての再起用であった。結果は最後の直線で先行したビワハヤヒデを追撃し半馬身差し切って優勝。勝利騎手インタビュー・口取りでは感極まり涙を流す姿が全国に放映された。

なお、最も仲の良かった後輩である藤田伸二は、自著『騎手の一分』において、田原が元々レース前から調教時の好感触でテイオーの勝利を確信しており、インタビュー後周囲の騎手との雑談で「ああやって泣いたほうがファンやマスコミも感動するやろ?」と冗談めかして語っていたことを明かしており、「あれは絶対嘘泣きだ」と評している。田原は「1年のブランクがあるから厳しいかもしれない」と語りつつも自信ありげな目付きをしていたことから、藤田は「ウソをつけよ!」と呆れ半分で聞いていたと語っている(ただし、最も故障明けもあって実際テイオーのコンディションは思わしくなく、田原もテイオーの強さや能力は認めていたものの内心では勝利を完全に信じきれていたわけではなかったらしい)。


1994年には史上11人目となる通算1000勝を達成。

1995年にはワンダーパヒューム桜花賞マヤノトップガン菊花賞有馬記念を勝ち、1996年にはファイトガリバーで桜花賞2連覇、フラワーパーク高松宮杯スプリンターズステークスを勝つなど一気にGI勝ち星を量産。当初は1996年一杯での引退を考えていたが、マヤノトップガン、フラワーパークが1997年以降も現役続行すると決まったため、引退を先延ばしにしていた。

特にマヤノトップガンはその変幻自在の脚質とナリタブライアンとの激戦、フラワーパークはスプリンターズステークスにおけるエイシンワシントンとのハナ差1cmでの勝利、などそれぞれが劇的なエピソードと共に語られる事が多く、田原の代表的騎乗馬に挙がることが多い。


そして1998年2月に調教師免許合格。これに伴い2月21日の京都開催を最後の騎乗として、騎手引退。通算8648戦1112勝、うち重賞65勝、GI級15勝という成績だった。


調教師時代

引退直後~開業

引退後すぐには厩舎を開かず、1年間技術調教師として調教師の勉強にあてた。そして1999年、栗東に厩舎を開業。開業当初は関口房朗(フサイチ)、土井肇(ヤマニン)、西山茂行(セイウン/ニシノ)の支援を受けていた。4月10日にはフサイチゴールド(鞍上・藤田伸二)で騎手時代同様の「初出走・初勝利」を決める。2000年にはフサイチゼノンで弥生賞を勝ち重賞初制覇と順風満帆に見えたが、この直後、同馬の状態を巡り馬主関口との意見の対立があり、田原が独断で皐月賞回避を決めたことに激怒し、殆どの所有馬が転厩する騒ぎとなった。

調教師としては、門下生の騎手はいなかったものの、藤田を筆頭に親交の深い騎手(武豊四位洋文千田輝彦など)を起用することが多かったが、福永祐一・和田竜二武幸四郎などの若手から岡部幸雄河内洋などのベテランまで幅広く起用している。


逮捕~免許剥奪、収監

2001年7月、管理馬の耳に小型の発信機をつけて調教していたことが発覚し過怠金を課せられた。


同年10月、羽田空港で手荷物検査中、ナイフの所持が発覚し銃刀法違反で逮捕される。さらに身体検査の結果覚醒剤の所持も発覚し覚醒剤取締法違反で再逮捕。


この結果を受けて田原の調教師免許剥奪が審議、決定され、田原厩舎はわずか3年で解散となってしまう。さらに銃刀法違反と覚醒剤取締法違反については有罪が確定(懲役2年、執行猶予3年)。JRAは田原に対し15年間の競馬関与禁止処分を発表した(15年は当時の規定で設定できる最長の処分期間であった)。


さらに2009年に大麻取締法違反で逮捕、起訴。再び執行猶予つき有罪判決を受ける。この間にJRAでは無期限の競馬関与禁止処分をくだすことが可能なように規定が改定されていたため、JRAは田原の競馬関与禁止処分を無期限へと延長した。

さらに同年、今度は同居男性に対する傷害の容疑で逮捕・起訴。ついに実刑判決を言い渡され、田原は2013年まで懲役刑を受けて過ごすこととなる。


出所後~現在

出所後はしばらくは一般企業に就職し(藤田元騎手は「まともな仕事」とだけ語り、具体的には明かさなかったものの、後にコンサルティング企業の営業職であることが判明した)更正に向けて活動していたようである。2020年まではメディアにも姿を現さず、また各社のアーカイブ映像などでも取り上げられない時期が続いた。

転機になったのは2020年の12月。東京スポーツにて独占インタビュー記事が掲載され、釈放以来初めて公の場に姿を現した。記事内では関与禁止処分もあって競馬界からは完全に離れていたことや、1996年の阪神大賞典及びスプリンターズステークスでの騎乗について語っている。以降は東スポの専属解説者として展開予想などを披露するようになったり、YouTubeやイベントなどへの出演も積極的に行うようになった。そして2022年9月には勤め先の企業を円満退社し、東京スポーツに入社した。


なお、田原の競馬関与禁止処分は今なお続いているため、田原自身は競馬場やトレセンに出入りすることができない。そのため、予想に必要な情報は東スポの記者が田原の指示を受けてトレセンなどに出向き、収集させているという。

福永祐一と四位が対談の際に現役晩年時代の田原について言及したり、岩田康誠騎手の騎乗についてYouTubeでコメントを残せば当の岩田がそのアーカイブを見てコメントを返したりするなど、JRA所属の人物でも間接的な形で田原に言及することは今でも続いている。


人物・騎乗スタイル

騎乗スタイルは馬の性質を細やかに察知し乗りこなすことを得意とした感覚派のもので、田原自身は騎手としての特徴を「良く言えば感覚、悪く言えば狂気の部分」と称している。一方で理論家としても著名であり、例えば1996年のスプリンターズステークスにおけるフラワーパークの「1cmハナ差勝利」については、ゴム毬を素早く握ると次の瞬間に膨張する理屈を応用した奥の手を使ったことを述べている。他にも「騎乗理論を説明した上で、優れた騎手というのはこうだ、岡部幸雄さんはこうだ、武豊はこれがこうできるから優れているということは言える」として、インタビューやエッセイで度々騎乗の要点について述べている。


そんな田原でも、ただ一人、悲運の天才騎手として知られる福永洋一については「説明しろといわれても説明できないレベルのものを一つ持っていた」と評しており、自身が洋一の後継として期待され「天才」と呼ばれていたことについては、「俺は天才じゃない」と否定した。ただ洋一と親しかった杉本清は、田原について「福永洋一ほど極端ではないが、タイプとしては洋一タイプと言えるだろう」と述べている。

ちなみに田原は、洋一の息子である福永祐一について、祐一がデビューして間もない頃に出版した自身の著書で「(武豊や横山典弘と比較すると)騎手としての素質をさほど持ち合わせていない」と評したことがある他、出版直後より祐一の家に出向いてマンツーマン指導を行った。この時を振り返った祐一曰く「研修生のような状態」で、1998年の皐月賞(キングヘイローに騎乗して2着)の時には、レース直後の調整ルームで「下手くそ!」「お前、今日のレースは勝ってたぞ」と酷評されたという。


先述したトウカイテイオーの奇跡の復活や、マヤノトップガンの変幻自在な脚質を生かしたGⅠ4勝、フラワーパークの1cmハナ差勝利など華々しい活躍をする騎手としても有名だったが、反面目立ちたがりなところもあった。マヤノトップガンに騎乗して勝利した際には、ランフランコ・デットーリを真似て「十字を切って投げキッス」という派手なパフォーマンスをやったことがあり、「馬よりも鞍上の方が目立っていた」と評されることがある。

また、その騎乗や言動、行動からよく騒動を巻き起こしたトラブルメーカー的な人物でもあった。1982年のスプリングステークスにおける敗戦が八百長の疑いをかけられたサルノキング事件」や、サンエイサンキューの状態を危惧する発言をサンケイスポーツが曲解して報じたことに端を発する「サンエイサンキュー事件」は有名である。

なお東スポの専属解説者となった後は、展開予想の生配信中、「馬を自分に憑依させてレースを振り返る」というイタコ芸を度々披露している(田原自身はこれについて「記憶が無い」と主張している)。これは視聴者からも概ね好評の声を持って迎えられている。


ちなみに概要で述べた通り、著述家としても活動していた。その中でも原作を手掛けた「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」はベストセラーとなった他、「法の庭」はフジテレビによってドラマ化もされている。

東スポで展開予想を寄稿するようになってもその文才は遺憾なく発揮されており、馬や騎手に対する熱い思いを語っているが、その例え(例としてグランアレグリア新垣結衣シュネルマイスターについて心の本命と語るなど)がネットでは怪文書と呼ばれたりすることもある。


主な騎乗馬

GI級競走勝利馬

※勝鞍は田原とコンビを組んだもののみ記載。★はJRA顕彰馬

※海外GI(G1)は()に開催国を記載。

※地方GIは〈〉に開催地を記載。



重賞勝利馬

田原とのコンビで、GIIまたはGIIIを制覇した馬たち。


関連タグ

競馬 JRA 騎手 調教師

土田世紀(漫画作品『競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬』の作画担当)

大島やすいち(漫画作品『Jockey』の作画担当)

本宮ひろ志(漫画作品『勝算(オッズ)』の作画担当)


外部リンク

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