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百年戦争

ひゃくねんせんそう

中世ヨーロッパのイングランド王とフランス王の間で起こった戦争。西暦1337年から1453年のおよそ百年間の間に数度の休戦期間を挟みながら1世紀以上に渡り続いたためこう呼ばれている。この戦争の結果イギリスとフランスの国境線はほぼ現在の形に決まった。
目次 [非表示]

百年戦争の発端と背景

ギュイエンヌ公国の宗主権

 イングランド王家であるプランタジネット(アンジュー)家はかつてフランス中西部アンジュー公国を支配していたが、さらに婚姻や相続の結果としてフランス王家をしのぐ広大な領土とイングランド王の地位を手に入れることとなった。

 だが失策とフランス王の策謀により領土のほとんどを失い、フランス王の臣下であることを認めることで南フランス・ギュイエンヌ地方のみを領有するという苦い過去があった。

 その結果イングランド王とフランス王は同じ王という立場でありながら、一方では臣従関係にあるという矛盾を抱えることとなった。

 この矛盾を解消するにはイングランド王がギュイエンヌの領有を諦めるか、フランス王が宗主権を手放すかのどちらかしか無く、どちらも自身の王としての権威を傷つけることとなり到底飲める条件ではなかった。

「ギュイエンヌ」と記述される地域の呼称について

 本項において「ギュイエンヌ公国」と書かれている、イングランド王所領のフランス南西地方を指す名称として、「ギュイエンヌ」「アキテーヌ」「ガスコーニュ」の語が慣用的に用いられている。この三つの名前が指し示す地理的範囲を厳密に定義することは困難と言え(完全には一致していなくとも重なり合う部分も多い)、しばしば混同されてきた。

 城戸毅らによれば、「アキテーヌ」が最も広い範囲(北はポワトゥから東はオーヴェルニュとも、ボルドーとオーシュの二大司教管区を合わせた領域とも)を指し、元は「アキテーヌ」のフランス俗語形であった「ギュイエンヌ」は次第に「アキテーヌ北西部」を指すようになり、「ガスコーニュ」は「アキテーヌ南西部」を指すとされる。

また、「ギュイエンヌ」の語はフランス側の文脈で用いられることが多く、イングランド史では「アキテーヌ(公国)」の語が用いられる。しかも、このうち二つ以上の語が一つの文献の中に用いられることもあるので、関連文献を読む際に、一つ注意すべきポイントである。

真の争点?

 アキテーヌは1154年以降、イングランド王でもあるアキテーヌ公の所領であった。事実上フランス王の支配から独立してきた(これが当時のフランス王権の限界でもある)地域であったアキテーヌ公領は、13世紀末までにはイングランドの最大の利害関心を集めるようになっていた。

 現在のフランス・アキテーヌ地域圏の州都ボルドーワインの生産地として世界的に知られているが、この地方では中世にあってもワインの生産が盛んだった。ワインは気候の関係でブリテン諸島では生産できないものであったので、アキテーヌ(特にガスコーニュ)はイングランドにワインを輸出し、穀物を輸入していた。

 赤ワイン(クラレット)とは、キリスト教の典礼に於いて、「キリストの血の象徴」とされる不可欠の品物であり、また当時の王侯貴族やエリート層にとってもディナーには不可欠なアルコールでもあった。ここに百年戦争の真の争点があった可能性を近藤和彦が示唆している。

こうした要素に加え、エドワード3世の臣下、特に商人が既に確立していた権益を保護する必要があったことなどから、エドワード3世らイングランド側にとってはアキテーヌの維持・拡大が決定的に重要であり、1415年の大陸遠征を除いて、ガスコーニュ以外の征服を試みようとはしなかった(1370~80年代に征服されたノルマンディーは、あくまでボルドー防衛の橋頭堡として看做されたにすぎない)。

フランスの王位継承問題

 フランスでは長く続いたカペー朝が断絶し傍系のヴァロア朝へと王位が継承された。が、それに異議を唱えたのがイングランド王エドワード3世であった。

 エドワード3世はフランス王家とも深い姻戚関係にあり、実際に母親がカペー家の直系だった。女系にも継承権があったがその主張が受け入れられることはなく、逆にギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げることを強いられた。


 その後両者の関係は悪化。フランス王が宗主権を行使してギュイエンヌ地方の没収を言い渡すと、イングランド王は臣下の礼を撤回。ヴァロア家に挑戦状を叩きつけ、百年戦争の火蓋が切られた。

 但し、近年の研究では、エドワード3世によるフランス王位請求は開戦の副次的動機に過ぎず、しかもフランス王位請求が少なくとも公式に主張されるようになるのは、開戦後の1340年であることが分かっている(それ以前には王位請求をした公的記録がない)。プランタジネット(アンジュー)家によるフランス王位要求が強まるのは、対仏積極論者であったヘンリー5世の時代、即ち15世紀前半である。


エドワード戦争

 この時期におけるプランタジネット朝イングランド軍は、クレシーの戦い、ポワティエの戦いなどで快進撃を見せ、ポワティエにおいてはフランス王ジャン二世を捕縛した。君主がいないことでフランスは無政府状態になり、内乱が勃発。フランスはやむなく屈辱的な平和条約(カレー条約)を結ぶことになる。しかしその条約も僅か9年ほどしか続かず、再び戦いが始まった。この和平の失敗によって、フランス、イングランドの双方ともこの戦争が引くに引けないものになってしまった。歴史家ロビン・フレイムに言わせれば、百年戦争とは双方とも最終的な和平に踏み切れない一種の膠着状態にすぎなかったのである。

 多額の賠償金や領地の没収でボロボロのフランスだったが、その後は賢王シャルル5世の内政改革や外交手腕のおかげでフランスの財政基盤は安定した。

 逆にイングランド陣営は、スペインでの王位継承問題への軍事介入の失敗により多額の負債を抱え自領地での重税を余儀なくされる。結果、土地の領主たちによる不服申立てによりフランス王の介入を招いてしまう。

 その後両陣営の戦線は膠着、イングランド王エドワードの死去により平和条約の締結なしに休戦となった。


フランス国内の分裂とシャルル6世の発狂

 シャルル5世亡き後、幼いシャルル6世の後見人として前王の王弟たちが国家財政の私物化を始めた。特にブルゴーニュ公フィリップは、豊かなフランドル地方の支配に成功し一大勢力を誇るようになった。

 これに危機感を覚えたシャルル6世は、弟であるオルレアン公ルイらと共に親政を宣言し後継人一派を排除しようとしたが、その矢先に精神錯乱を起こしてしまう(余談だが、シャルル6世の精神疾患あるいは脳神経疾患は遺伝性のものであったようで、彼の孫に当たるイングランド王ヘンリー6世も同様の病に苦しんでいる)。

 再びフランスは窮地に立たされた。オルレアン派とブルゴーニュ派とに派閥がわかれ、両派ともにイングランド王の援軍を求めるなど泥沼の対立を生んだ。


 エドワード王亡き後イングランド国内をまとめることに成功した新たなイングランド王ランカスター朝のヘンリー5世はブルゴーニュ派と同盟を締結。アジャンクールの戦いでオルレアン派を破った。

 内乱を利用してフランス北部に影響力を築いたヘンリー5世は、1420年にシャルル6世の長子・王太子シャルルを廃嫡し、自身を次のフランス王となる条約(トロア条約)を結ばせることに成功。イングランドによるフランス支配は目前であった。


 ところが事態は思わぬ方向へ向かい始める。フランス王の死後に王位を受け継ぐはずのヘンリー5世が先に死んでしまったのだ。後を継ぐヘンリー6世はまだ1歳の赤子。さらにその2ヶ月後シャルル6世も亡くなり混迷を深めていく。


ブールジュの王

 廃嫡された王太子シャルルはフランス王シャルル7世を名乗り、パリのはるか南ブールジュで抵抗を始めた。

 フランス王は代々フランス北部ランスにあるノートルダム大聖堂で戴冠式を行う習わしがあり、同時にそれが国際社会で正式な王として認められる証明であったが北部はイングランド王の影響下にあり、それは望むべくもなかった。戴冠式を済ませていないシャルル7世をフランス王と認める者はなく、「ブールジュの王」とさげすまれた。

 一方イングランド軍はブールジュを制圧するため軍を発し、オルレアンを包囲し始めた。



 そうしたフランスの混乱の中、一人の少女が現れた……


ジャンヌ・ダルクの登場

 イングランド軍がオルレアンの包囲をする中、啓示を受けたジャンヌの軍勢が僅か7日間という驚異的なスピードで包囲する砦を落とし、イングランド軍を撤退させた。

 このことにより彼女は聖女救世主と呼び、オルレアンの兵士市民たちは歓喜した。その後フランス軍は息を吹き返し、今までイングランドに占領されていたロワール川沿いの各地域を制圧していき、最後はランスに到達した。そしてシャルル7世がランスに到着しノートルダム大聖堂で戴冠式を終え、正式にフランス王になることとなりフランス軍の士気が上がった。

 1429年にシャルル7世はジャンヌにパリの解放を指示したが失敗、彼女はブルゴーニュ派によってイングランドに売り渡され、キリスト教の異端者として破門され、火刑にあい死んだ。ジャンヌ・ダルクの処刑はフランス王国内部の対立関係から起こったと言えよう。しかも、シャルル7世はジャンヌの救出に少なくとも積極的に動くことはせず(動けなかった?)、結果的に見捨てる形になる対応を取った


終息の時

 ジャンヌ・ダルクは処刑されたもののフランスの勢いは留まらず、その後は巻き返し、1435年にブルゴーニュ派とオルレアン派が和解(アラスの和議)したあとは、同年にイングランド王ヘンリー6世の叔父で、またこの時期のイングランドにおける事実上の指導者の一人であったベッドフォード公ジョンの死去に起因するイングランド内政上の混乱もあって大いにイングランドを圧倒した。そして1453年10月19日、イングランド王の都市ボルドーが陥落しイングランド軍は大陸から撤退、百年戦争は長い年月を経て事実上終結した。

その後のフランスとイングランド

 イングランドは百年戦争における疲弊は大きく、ヘンリー6世の脳神経疾患が原因となってイングランド諸侯の反乱である薔薇戦争が勃発してイングランドは不安定な時期に突入する。しかし、薔薇戦争後に即位したテューダー朝のヘンリー7世の手腕もあり、(むしろフランスより先に)王権の強化が進んでいく。

 また皮肉にもフランスは百年戦争を期に集権化が進み、百年戦争は「近代国家への出発点」とも解されるが、それは同時に国内的には強い緊張関係を抱える体制でもあった。フランスは1494年以降数次にわたるイタリア戦争を経て疲弊し、さらには1562年に36年にわたってやはり断続的に繰り広げられるユグノー戦争が勃発する。ブルボン朝が勃興しより国力、そして王の権力がより強化され、ルイ14世を代表とする政治体制絶対君主制へと進むのはその後の話である。

 なお、イングランドは大陸側の領土を全て喪失した訳ではなく、カレー(ドーバー海峡のフランス側)だけが1558年までイングランドの占領下にあった。また、戦争終結に際し、正式な講和条約が結ばれなかったため(つまり建前上は戦争継続中と言う扱いになっていた)、ヘンリー6世以降のイングランド王(1707年以降はグレートブリテン王)はハノーヴァー朝ジョージ3世在位中の1800年までフランス王の称号を自称することになった。

 城戸毅によれば、外交条約で正式に「フランス王位請求」を放棄したのは1822年のことである。

「英仏分離」としての百年戦争と「国民意識」の形成

 中世ヨーロッパにおける「」は、近代以降の国家とは大きく様相を異にしているが、百年戦争をイングランドとフランスを明確に切り離した戦争とする見方が存在する。関連して、特に15世紀以降には、相互の敵対感情を通じて、「フランス人」、「イングランド人」としての緩やかな帰属意識が生まれてきたことを論じる研究が主流になりつつある。ただし、これを以て、近代的な「ネイション意識」に直結させることが言える訳ではないようだ。

百年戦争におけるスコットランド

 百年戦争はフランス・ヴァロワ朝とイングランド・プランタジネット(アンジュー)朝の戦争ではあるが、実際には各領邦フランドル、ブルゴーニュ、教皇庁(アビニョン教皇庁、教会大分裂の時代でもあったが)、スペインスコットランドなどが絡んだ非常に複雑な構図があったが、特に、イングランド側にとって厄介なのは地理的に近いスコットランドの存在であった。

 13世紀末から10年ほど、スコットランドとフランスは同盟関係にあった。その同盟関係はエドワード1世、即ちイングランドがフランスに遠征するとスコットランド軍がイングランドへ侵攻するというものである。これはイングランドへの抑止力となった。

 一時的に同盟は解消されたが、1326年にスコットランドとフランスは同盟関係を結ぶ。地図を見れば分かるが、この同盟はイングランドにしてみれば南北からに挟まれる恐怖に他ならなかった。1334年にスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに亡命し、フィリップ6世の庇護を受けたことが、エドワード3世が百年戦争開戦に踏み切る最も重要な引き金になった。デイヴィッド2世は1346年から57年までイングランドに捕囚された。余談だが、デイヴィッド自身はイングランド王家の血を引き、またがイングランド王エドワード3世のであった為、捕虜と雖も厚遇を受けていたらしい。

 スコットランドは百年戦争に於いて一貫してフランス側につき、フランス王太子シャルル(のちのシャルル7世)の軍勢にスコットランド軍が加わっていたことも分かっている。

その後の戦争

当時は騎士が誇りをかけて剣や槍で戦うのが主流で、飛び道具は弓、弩での援護が主で主力武器としての使用は邪道とされていたが、ジャンヌが砦の破壊に大砲を好んで使用した事(歴史的にはクレシーの戦いでエドワード黒太子が初めて実践使用していた)でジャンヌの名と共に大砲の有用性が広まり、戦術を大きく変えた。

「百年戦争」という用語やその指し示される期間について

歴史的事実には恐らくよくあることだが、「百年戦争」ということば、ならびにその期間の取り方は後世の産物である。当時にあって、1337年に正式な宣戦布告が出された訳ではなく、また1453年にイングランドとフランスの間で講和条約が締結された訳ではない。実際に、1337年以前にもイングランドとフランス両王家の対立はあり、また、イングランドは1453年以後もフランスに侵攻している。

 イングランドとフランスの14世紀から続く戦争をひとまとまりの時代とする見方は15世紀16世紀にも見られるが、これは「両国の間のいわば永遠の戦争」(16世紀のポリドア・ヴァージル)という類の見方であった。17世紀に書かれたフランソワ・ド・メズレの『フランス史』では1337年を一連の戦争が始まった年と看做し、18世紀のデイヴィッド・ヒュームの『イングランド史』や19世紀のヘンリー・ハラムの『中世におけるヨーロッパの状態の概観』やフランソワ・ギゾーの講義では、1337年から1453年が一つのまとまった時期であるとする明白な観念が示された。

 用語としての「百年戦争」は19世紀中葉から用いられ始め、1870年代にフランスではギゾーの『フランス史』で、イギリスではジョン・リチャード・グリーンの『イングランド国民小史』によって定着する事となった。

 城戸毅によれば、現代の歴史学に於いてはこうした時代区分に疑問を呈し、百年戦争がより長期にわたるイングランドとフランスの関係に胚胎したことを指摘し、「百年戦争」時期中にもいくつかの段階がある事を主張するようになっているという。

 しかし、定着した「百年戦争」の用語を使わないことも現実的な話ではなく、また、百年戦争の期間を1337年から1453年とする見解は有効ではある。他方、百年戦争の終点を1475年のピキニー条約(休戦条約)や1492年のエタープル条約(平和条約)におく見解も提示されている。日本の研究者では、上田耕造が1453年を実質的な終点としつつも明確な線引きを1475年におき、城戸毅はエタープル条約が百年戦争を終わらせた条約であると記している。


参考文献

※2014年2月の加筆時に参照した文献を中心に列挙する。

書籍

  • 城戸毅『百年戦争――中世末期の英仏関係――』(刀水書房 2010年)

 意外なことに、百年戦争に関する日本では初めての(訳書ではない)本格的な専門研究書である。

  • 佐藤賢一『英仏百年戦争』(<集英社新書> 集英社 2003年)
  • 佐藤猛『百年戦争期フランス国制史研究――王権・諸侯国・高等法院』(北海道大学出版会 2012年)
  • 柴田三千雄『フランス史10講』(<岩波新書>岩波書店 2006年)
  • 近藤和彦『イギリス史10講』(<岩波新書>岩波書店 2013年)
  • 朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編『中世英仏関係史 1066-1500 ――ノルマン征服から百年戦争終結まで』(2012年 創元社)
  • フィリップ・コンタミーヌ(坂巻昭二 訳)『百年戦争』(<文庫クセジュ>白水社 2003年)[原著Contamine, Philippe. La Guerre de Cent ans. Presses Universitaires de France, 1968]
  • ロジャー・プライス(河野肇訳)『ケンブリッジ版世界各国史 フランスの歴史』(2008年 創元社)[原著Price, Roger. A Concise History of France. 2nd. Cambridge: Cambridge University Press, 2005.]
  • ラルフ・グリフィズ(北野かほる監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史 第5巻 14・15世紀』(2009年 慶應義塾大学出版会)[原著Griffiths, Ralph, ed. The Short Oxford History of the British Isles: The Fourteenth and Fifteenth Centuries. Vol. 5. 11 vols. Oxford: Oxford University Press, 2003.]

論文・書籍のセクション等

  • 鶴島博和「11世紀~近世前夜」(近藤和彦編『イギリス史研究入門』山川出版社、2010年 所収)
  • 佐藤彰一「カペー朝からヴァロワ朝へ」(佐藤彰一・中野隆夫編『フランス史研究入門』山川出版社、2011年 所収)
  • 堀越宏一「書評 城戸毅著『百年戦争――中世末期の英仏関係――』」(『史學雑誌』第121編10号/2012年10月)※『中世の秋』の翻訳や『ジャンヌ=ダルク――百年戦争のうずの中に』の著書がある堀越孝一氏とは別人である。

関連タグ

ジャンヌ・ダルク エドワード黒太子

薔薇戦争

ファイナルファンタジータクティクス:この戦争をもとにした「五十年戦争」と、その後の薔薇戦争をもとにした「獅子戦争」がこの作品の下地となっている。

第2次百年戦争:名誉革命成立後の1689年から1815年までイングランドとフランスの間に起こった戦争の総称。イギリスの歴史家J.R.シーリーによる命名。

日露戦争:1904年に勃発したこの戦争でロシアの同盟国だった当時のモンテネグロ公国が宣戦布告し実際に軍も派遣していたのだが、日本側に宣戦布告文書が届かず放置プレイ状態に。2006年のモンテネグロ再独立に際して「両国は現在戦争状態にない」ことが確認されるまで、書類上は101年間「戦争状態」だったことになる。

魔法少女たると☆マギカ:百年戦争をモチーフにしている。

サガフロンティア2:作中での戦乱の時代を纏め上げた用語として「サンダイル百年戦争」がある。

Fate/GrandOrder:この戦争をもとにしたシナリオとして「邪竜百年戦争オルレアン」がある。

イース9:この戦争をもとにした、グリアとブリタイとの間の「百年戦争」が物語のカギを握っている。

装甲騎兵ボトムズ:アストラギウス銀河を二分するギルガメスとバララントはもはや開戦理由を誰も知らない戦争を100年続けていた為に作中で100年戦争と呼ばれている。

第2次百年戦争 アメリカの独立戦争やフランス革命戦争、ナポレオン戦争などの、二度目の100年にわたる英仏戦争のこと。イギリスの歴史家J.R.シーリーの命名による。

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