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直江兼続

なおえかねつぐ

直江兼続とは、北陸・東北地方の戦国武将。幼少の頃より上杉景勝に仕え、内政などで優れた手腕を発揮。関ヶ原の戦いの遠因ともなった「直江状」や、「愛」の前立ての兜などでも知られる。(1560年-1620年)
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概要

平安時代末期の武将・源義仲(木曾義仲)の家臣で巴御前の兄とされる樋口兼光の末裔とされる。

幼名は与六。諱は兼続、重光。官途名は山城守。直江信綱(直江景綱の婿養子)の未亡人・お船の方(彼女は景綱の実娘でもある)を娶ったのを機に直江姓を名乗るようになった。


生来からの利発さを見込まれ、越後戦国大名上杉景勝長尾顕景)の近習として幼少の頃より取り立てられ、その腹心として活躍。景勝の家督が定まった御館の乱以降は景勝政権下における執政として、いわば二頭政治に近い形で家中の政務を司った。

その手腕は主に内政面で発揮され、内乱続きで疲弊しきっていた越後の立て直しに尽力。また後には江戸期上杉氏の領地となった米沢においても、城下の整備や治水など様々な施策を講じ、米沢藩の礎を築くに至っている。

一方、御舘の乱の終結時には、本来ならば当主である景勝が担当しなければならない論功行賞の分配を任されている等、単なる家臣とは思えない程の権限を備えていた事実から、上杉家最盛期における兼続は、当主である景勝以上の発言権を持っていたのではないかという通説さえ出ている。


石田三成とは上杉氏と豊臣政権との取次役としてしばしば面識があり、なおかつ同年代で互いに相通じる部分があった(主君に対する忠義の厚さなど)為か、「盟友」とも言われるほど懇意の間柄であったとも伝わっている。この事から後年の関ヶ原の戦いにおいて両者が徳川家康の挟撃計画を立てたとも言われたり、近年においても創作作品などで両者の関係性がクローズアップされる事も多く見られる。

もっとも史料上において、両者の個人的な友誼を示す記述は殆ど見られず、その関係性が単に実務官僚としての利害的なそれの域を出たものであったかどうかについては、再度の検討の余地がある事にも留意されたい。


生涯

幼少期~直江氏相続

永禄3年(1560年)、越後の武将・長尾政景(上杉謙信の義兄)の配下である樋口兼豊の長男として、越後の上田庄に生まれる。5歳の時に政景が急死し、遺児である顕景(景勝)が上杉輝虎(謙信)の養子となったのに伴い、与六も景勝の小姓・近習として春日山城に入ったとされる。


与六こと兼続が歴史の表舞台に出るようになったのは、謙信死後に発生した「御館の乱」収束の後の事である。兼続はこの内乱の戦後処理において、景勝への取次役や印判状の奏者などを務めていた事が確認されている。なお一部の創作作品において、兼続が御館の乱において中心的な役割を果たしていたと描写される場合もあるが、少なくとも史料上ではそれを裏付ける記述は今もって確認されていない。

この戦後処理の最中、上杉家中にて一つの事件が起こる。天正9年(1581年)、戦後処理のもつれを巡って景勝の側近・山崎秀仙が毛利秀広に殺害され、さらに直江信綱もその巻き添えを食って凶刃に倒れたのである。この時信綱に跡取りはなく、直江の名跡が絶える事を惜しんだ景勝は兼続に対し、信綱夫人であったお船の方の婿となるよう命じた。これにより兼続は直江氏の家督を継承、ここに「直江兼続」が誕生する事となった。


上杉氏の執政として

直江氏の家督を相続した後、兼続は狩野秀治と共同で上杉家中の政務を担うようになり、天正12年(1584年)末頃より秀治が病のため一線を退いてからは、政務における兼続の占める割合はさらに増し、当主・景勝との事実上の二頭体制が成立する事となる。後年通称の一つとして知られる「山城守」を称したのもこの頃であった。

この頃、同盟を結んでいた甲斐武田氏が織田軍の侵攻によって滅亡し、その遺領は織田氏の治めるところであったが、天正10年(1582年)に発生した本能寺の変をきっかけに織田氏の勢力が甲信地方から撤退すると、遺された領地を巡って上杉氏・北条氏徳川氏との間で「天正壬午の乱」が発生する。その際兼続は北信濃の国衆や武田の遺臣との取次役を務め、彼らの上杉氏への帰参や当地の武田遺領の接収に当たっている。

一方、越後国内でも御館の乱後の恩賞を巡って、新発田重家蘆名氏伊達氏の後ろ盾の元反乱を続けていた。この反乱の鎮圧のため、兼続は当時まだ湿地帯であった新潟の整備や、蘆名家中への調略などを通して新発田勢の駆逐に努めた。


既に天正14年(1586年)、主君・景勝が先んじて上洛し豊臣秀吉への臣従を約していたが、2年後の天正16年(1588年)には兼続も色部長真らと共に景勝に従って上洛し「豊臣」の姓を与えられた。のち従五位下山城守に叙任されている。

以降、上杉氏は豊臣政権の傘下に入り、佐渡征伐小田原征伐など全国統一事業にも従軍。佐渡平定の後には兼続が当地の支配を任された他、新たに上杉領と定められた庄内地方における城の改修や一揆の鎮圧にも従事している。また新発田重家の乱の鎮圧により、越後国内の再統一も成った事で、兼続は新田開発の推進や、青苧などの増産による産業育成・商業発展を通じて、相次ぐ戦乱により疲弊した越後国内の立て直しにも力を入れている。こうした施策により、越後はかつての謙信在世時にも比肩するほどの繁栄を取り戻す事となった。


慶長3年(1598年)、秀吉の命により上杉氏がそれまでの越後から会津120万石へ移封されると、兼続にも出羽米沢に30万石(寄騎の分も含めての数字で、兼続自身の分は6万石となる)の所領が与えられた。兼続の領する米沢と会津とは最上領によって分断されており、また兼続自身は上杉氏の執政である事から景勝のそばを離れられないため、米沢には代官を置いて当地の支配を任せる一方、米沢と会津を繋ぐ連絡路として、朝日連峰の尾根筋を縦走する「朝日軍道」の整備にも当たった。

しかしこの時、兼続が領国経営に直接力を入れられなかった事、なおかつ会津移封に際して新たに越後に入る事となった堀秀治(堀秀政の子)への様々な対応が、後々上杉氏に深刻な影響を及ぼす事となるのである。


会津征伐慶長出羽合戦

慶長3年に秀吉が薨去すると、豊臣政権内では五大老の一人・徳川家康が台頭するようになった。そんな中央の情勢を他所に、兼続は景勝の命により上杉氏の新たな居城である神指城の築城や、浪人たちの雇用を通して軍事力の強化に邁進していた(神指城築城に関してはそれだけでなく、会津の町の作り直しという狙いもあったとされる)。

しかしその一方、こうした動きは最上・伊達・堀など周辺の大名たちを刺激するものに他ならず、越後の堀氏に至っては兼続により後述するような悪意とも取れる対応(詳細は「人物」節を参照)を受けるなど、当時の会津を取り巻く情勢は穏やかならざるものがあった。そしてこれら諸大名からの実情報告を受けた家康にとってもこの情勢は看過出来るものではなく、上洛の上で弁明に及ぶよう求められるようになる。

このような状況下において、上杉家中では藤田信吉らのように徳川と上杉との関係修復に腐心していた者達もいたが、兼続はあくまで反家康の姿勢を堅持。これら避戦派を家中より追放すると、家康から再度派遣された使者に対し上洛拒絶の書状を突き付けている。

これが世に言う「直江状」である。


かくして上杉と徳川との関係は決裂を迎え、会津討伐も実行に移される事となった。

家康率いる討伐軍が会津に迫る中、兼続は領内の備えを強化すると同時に、越後の上杉旧臣らを扇動し後述の一揆を画策するなど、迎撃に向けての準備を進めていた。

ところがその間に盟友・石田三成らが挙兵に及ぶと、家康は会津討伐を中止し畿内へと引き返し、すんでのところで直接的な衝突は回避された。


家康の西上により、上杉氏には積極的な南下で徳川氏の本拠・江戸を接収出来る機会が生じたが、背後ではなおも最上義光が上杉氏への対抗姿勢を崩しておらず、表向き和睦を図る一方で先制攻撃の機会を窺っていた。その動きに対し、上杉氏は後顧の憂いを断つべく最上攻めを優先させる事を決定、北の関ヶ原とも言われる「慶長出羽合戦」の火蓋が切られる事となる。

上杉軍は米沢・庄内の二方面から最上領への侵攻を開始、兼続率いる軍勢はまず畑谷城を陥落させると、最上方の重要拠点であった長谷堂城の攻略に取り掛かった。しかし圧倒的な兵力を背景に攻城に臨んだ兼続の軍勢に対し、志村光安鮭延秀綱らを始めとする守備兵は寡兵ながらも巧みな防戦を続け、さらに義光の要請によって伊達政宗が叔父の留守政景らを援軍を派遣した事で、戦況は予想外の膠着状態に陥る事となる。庄内方面からの軍勢が、上山城攻めでこれまた予想外の苦戦を強いられ合流が叶わなかった事も、兼続にとっては痛い誤算であった。

更には、それと並行して旧上杉領である越後でも、当地を再び上杉の領土にしようとしていた兼続独自の計画が進行しており、越後に農民として潜伏していた上杉氏の家臣達や百姓達による「上杉遺民一揆」が勃発。当初は弟の大国実頼によって先導された一揆勢側が機先を制した事で有利にあったが、堀氏当主である堀秀治、そして家老の堀直政の策略によって、裏をかかれた隙を突かれる形で一揆勢は殲滅。兼続の構想していた計画は悉く「失敗」という形で終わってしまった。


その間、家康率いる東軍と三成を中心とした西軍は関ヶ原にて激突、わずか半日足らずのうちに東軍が西軍を降す形で決着を見た(関ヶ原の戦い)。

関ヶ原本戦より半月ほど後にこの報せに接した兼続は、形勢不利に転じたのを悟って一旦は自害しようと考えたものの、前田利益(慶次郎)らの諫言により思い留まり米沢への撤退を敢行。最上・伊達連合軍による激しい追撃に見舞われる中、兼続自らも鉄砲隊を指揮して殿を務め、追撃を振り切って無事米沢への帰還を果たした。この見事な撤退戦は敵である義光や家康からも賞賛され、後世に至るまでの語り草ともなった。

とはいえ寒河江を始め、一度は手中に収めた最上領の各拠点も奪還されたばかりか、かつて最上との係争の末手に入れた庄内地方までも喪失する事となり、さらに防衛に成功したとはいえ伊達氏による福島地方への侵攻も許すなど、上杉氏にとっての「北の関ヶ原」は、正に惨憺たる結果に終わってしまったのである。


※なお上杉氏の挙兵を、盟友・三成もしくは常陸の佐竹氏との共謀の上での「家康挟撃計画」の一端と見做す見解もあるが、いずれも後年に記された軍記物などに拠るものであり、またその他の史料との矛盾や両者の連絡経路も確立されていなかった事などから、こうした挟撃計画の実存については否定的な見方も示されている事に留意されたい。


江戸期

関ヶ原の合戦後もなお、兼続は家康に対する徹底抗戦を唱えていたが、一方で本庄繁長千坂景親らのように和睦を主張する重臣も少なからずおり、景勝も後者の言を容れる形で終戦工作を開始する事となる。結果、会津征伐の開始から1年後の慶長6年(1601年)7月、兼続は景勝と共に上洛し、結城秀康の取り成しのもとで家康に謝罪。先んじて繁長らが折衝に当たっていたこともあり、すんでのところで上杉氏は存続を赦された。しかしその代償も当然大きく、上杉氏は会津120万石から米沢30万石と、それまでの1/4程度の大減封を受けたのである。

流石の兼続もここに至っては反家康の姿勢を改めざるを得なかったようで、以降は上杉と徳川の関係改善を図るべく、本多政重(徳川氏重臣・本多正信の次男)を自身の婿養子として迎え入れ、さらに後の大坂の陣においても景勝と共に従軍し鴫野の戦いなどで武功を上げるなど、ひたすら上杉氏存続の為に徳川氏に従い続ける事となる。また慶長13年(1608年)には諱を重光と改めている。


しかしこうした兼続の、良く言えば「臨機応変」、悪く言えば「日和見主義」とも取れる徳川氏への対応は、会津征伐等での判断の巡りも加わって、本庄繁長ら一部の家臣達との関係悪化を引き起こす要因ともなった。前述の大坂の陣の折、徳川氏より感状を得て喜んでいた兼続に対し、安田能元水原親憲が公然と痛烈な皮肉を浴びせたのも、その一つの表れといえよう。

とりわけ実の弟で、反家康派の代表的存在でもあった実頼とは修復不可能なまでの対立に発展。遂には実頼の刃傷事件(政重を迎えるために上洛した使者を殺害)と高野山への出奔という事態を招いてしまう。この時実頼には娘(阿虎)が一人いたのだが、父の出奔に伴い兼続に引き取られた後、兼続の意向で本多政重に嫁ぐという皮肉な運命を辿る事となった。


また、徳川政権との関係改善を図る一方、領国経営においても兼続は深刻な問題に直面していた。前述の通り、兼続はその立場上米沢の内政に力を入れる事が出来ずにいたため、上杉氏の米沢減封に際して内政が殆ど整っておらず、城下も旧主・蒲生氏の頃からの小規模なものに留まっていたのである。そんな状況下の米沢に、会津から上杉の家臣団や越後以来の寺社などが大挙して移住してきた事で、必然的に米沢城下は混乱を来す事となった。

そのため兼続は米沢城の大改修と並行し、城下町の整備も進めていく事となる。その際大勢の家臣団のうち、下級の家臣を城下近郊の東原・南原の原野に配置、さらに一軒に対して2~3世帯を同居させ、それでも足りなければ掘立小屋を建てて住居に充てるなどといった施策を講じた。これが後に下級家臣の侍町である「原方」の原点ともなった。

これ以外にも、新たな土地の開墾を推進するための治水事業の一環として、最上川上流に「直江石堤」と呼ばれる3㎞にも及ぶ堤防を設け、越後時代と同様に新田開発にも精力的に取り組んでいる。さらにこれと並行して殖産興業や鉱山開発なども進めており、結果として表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに生産力を向上させ、ひいては米沢藩政の基礎を築く事ともなったのである。


元和5年12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷にて病のため60年の生涯を閉じる。この頃までに養子の本多政重は養子縁組を解消の上で加賀藩へ帰参、その後を受けて嫡男となった実子・景明も慶長20年(1615年)に父に先立って早逝しており、その後も新たに養子を迎えなかったため、結果として寛永14年(1637年)のお船の方の死去に伴い直江氏も断絶となった。

一説によれば直江氏の断絶は、上杉氏の減封を招いた責任を取るため、もしくは知行返上により米沢藩の財政の一助とするため、兼続が意図的に行ったという見方も存在する。


死後

兼続、そしてお船の方の死後、当初は直江氏の菩提寺であった米沢の徳昌寺に葬られた。法名は「達三全智居士」で、後に院号が贈られ「英貔院殿達三全智居士」とされた。後年、徳昌寺と林泉寺(上杉氏の菩提寺)との間で起きた争いの結果、徳昌寺が米沢を追われたため東源寺(兼続の母方の祖とされる尾崎氏の菩提寺)に改葬され、さらに後には林泉寺に墓石が移された(位牌は東源寺に残置)。また分骨が高野山清浄心院に納められている。


兼続が亡くなってからも、お船の方はその遺志を継いで藩政運営に当たり、景勝の嫡男・定勝の養育を務めるなど、上杉家中において引き続き強い影響力を行使した。さらにお船の方の死後は兼続の片腕とも言われた平林正興が藩政運営を引き継ぎ、米沢藩政において重きをなした。

とはいえ他の家臣達からの反発や、定勝の成長に伴い自身の権限強化のために様々な施策を講じた事もあり、兼続の旗本衆として家中で権勢を振るっていた「与板組」も、相対的にその力を失っていく事となる。

また兼続本人に対しても、米沢藩の礎を築いた功労者である一方、その米沢への減封のきっかけを生んだ事などもあり、死後しばらくの間はその評価はお世辞にも芳しいものとは言えず、酷い時には「主君を誤らせ上杉氏を窮地に陥れた奸臣」とまで評された事もあった。


そんな兼続への評価に一石を投じるきっかけとなったのが、米沢藩中興の祖とも評される9代藩主・上杉治憲(鷹山)の存在であった。治憲は藩政改革に当たって兼続の施策を手本としたとされ、さらに兼続の二百回忌法要に際して公式に香華料を捧げるなど、こうした動きは後年の兼続に対する再評価の礎となった。

さらに時代が下って近代に入ると、石田三成に対する再評価に伴いその盟友であった兼続に対しても、評価の見直しが試みられるようになる。ちなみにこの三成再評価論者の一人が、ジャーナリストの福本日南であるのだが、この日南も自著「直江山城守」を通して兼続の称揚に一役買った事を付記しておく。

こうした流れを経て、1924年(大正13年)には宮内省より従四位を追贈され、さらに1938年(昭和13年)には時の米沢市長の提案により、兼続の英霊が米沢の県社・松岬神社に合祀されるなど、死後200年余りを経て兼続の名誉もようやく公的な回復を見たのである。


昭和後期~平成期にかけては、童門冬二『北の王国』や藤沢周平『密謀』などを始め小説や漫画の題材とされる機会も増え、2009年(平成21年)には火坂雅志の著作を原作としたNHK大河ドラマ天地人』も放送されるなど、その知名度もさらに向上しつつある。


人物

京都妙心寺の著名な学僧・南化玄興の弟子であったとされており、玄興からは「利を捨て義をとる者」 と評されていた。ただし、これは義理人情に厚い事を意味しているのではなく、乱世の時代においても学問の大切さを心得ている事を表した評価とされており、実際に兼続は、戦国時代の武将としては珍しく学問にも造詣が深く、この点は盟友である三成だけでなく、敵対する立場にあった家康にも通じるものがあった(両名とも、歴史等に関する学問への研鑽を心掛けていた)。

こうした学問に対する姿勢は後年に至ってもなお変わらず、朝鮮出兵の折には肥前名護屋城に在陣中、300巻にも及ぶ医学書を2か月間で書写させ、朝鮮半島への渡海後には戦火に曝された漢籍を保護し日本に持ち帰っている。さらに米沢への転封の後も、南朝梁の詩文集である『文選』を木活字にて出版し、米沢藩の学問所で後の米沢興譲館高校の原点となった「禅林文庫」の創立にも携わった。


兼続に対する同時代人の評価としてもう一つ、「名将言行録」にて豊臣秀吉が述べた言葉として、次のようなものが残されている。

 「陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも仕兼間敷ものなり」

 (筆者訳:私の陪臣で天下の差配を任せても人後に落ちない三人の名を上げるとすれば、直江山城守兼続、小早川左衛門佐隆景堀監物直政だろう)

この言葉を見る限り、少なくとも内政の面について有能であった点については、まず疑いが無さそうである。実際越後再統一後の国力回復、そして米沢減封に伴う藩政改革やその後の配置転換なども、ひとえに兼続の辣腕によるところが大きい。


さて昨今の創作作品の影響から、兼続について「清廉潔白な人物で、「愛」を重んじ悪を許さない正義の武将」と解釈される事も少なくないが、そこは力こそが全ての戦国時代である以上、短絡的にこうした見方とは結びつけ難い側面もまた持ち合わせている。

例えば後述の「閻魔大王への嘆願書」の逸話、それに越前藤島城に籠城した一揆衆の鎮圧や、慶長出羽合戦における畑谷城での「撫で斬り」など、時には虐殺をも辞さない非情かつ強引な措置に出る事も少なからずあった。無論、こうした振る舞いは戦国武将と呼ばれる者であればその殆どが一度は通る道であり、兼続一人が取り立てて残虐非道であった事を示す訳ではない。

だが、御舘の乱終結時にて景勝から論功行賞の分配を任された際は、明確に武功を挙げた新発田重家や毛利秀広には何の恩賞も与えようとしないばかりか、大して活躍していない自身や実頼の所属する上田衆のみに恩賞を振り分けるという暴挙に出ている(論功行賞としてはあり得ない方針で、しかも御舘の乱時に「勝った者には思いのままの褒賞を与える」とまで言い切っていた)。この結果、当然激怒した秀広によって信綱と秀仙の二人が殺害されてしまう事態となり、重家に至っては大規模な反乱を起こされてしまう等、上杉家を危機的状況に陥れてしまう事になっている。


もう一つ、兼続を語る上で心得ておきたいのが、主君・景勝への忠義や盟友・三成に対する友誼の厚さとは裏腹に、一度敵と見做した相手に対する過剰な、というより執拗なまでの反抗姿勢である。後述の様々な逸話の残る伊達政宗や、「直江状」にて散々に煽られ貶された徳川家康もさる事ながら、兼続のこうした姿勢によって最も辛酸を舐めさせられたのは堀秀治であろう。

秀治は上杉氏の会津移封の後、新たに越後に配された大名であるが、この国替えの際に兼続は本来半分は残しておくのが慣例であった年貢や農民らを全て持ち去っていったばかりか、その年貢の半量の返還要求にも一切応じないという対応に及んでいた。さらにその埋め合わせのため秀治が新潟代官・河村彦右衛門から借りた米についても、兼続は彦右衛門と旧知であった事からその借米証を入手し、秀治に対ししきりに返済を催促するという行動にも出ていたりもする。

前述の会津征伐における越後国内での一揆の扇動も含め、こうした堀氏に対する兼続の振る舞いの数々は本来「義」を尊ぶ上杉の家風と相反するものであろう事は言うに及ばず、また同時に堀氏による家康への訴えや東軍への助力などに繋がった事も考えると、正しく「藪蛇」も同然な結果を招いたと見る外ないのがまた痛いところではある。

また藤田信吉・上条政繁・上条義春(政繁の養子、能登畠山氏出身)らが出奔した原因とされる。


以上のようにおおよそ「清廉潔白」とは見做し難い一面も持ち合わせていたり、また外交や軍略といった方面においてはその気質ゆえの失敗も目立つ一方、前述の通りの学問に対する造詣の深さ、それに内政面での様々な功績といった美点は決して否定され得るものでもなく、この両極端とも言える事績が(後述の創作作品で形成されたイメージも含めて)兼続に対する評価の大きく分かれる要因となっていると言えよう。

確実と言えるのは、(良くも悪くもそこに囚われ過ぎてしまったきらいも否めないとはいえ)主君・景勝に対する終生変わらぬ忠義、という一点だろうか。


「愛」の前立て

兼続を語る上で欠かせないものの一つとして挙げられるのが、「愛」の一字を象った前立てが特徴的な、彼の所用として伝わる兜である。この前立ての由来は愛宕権現、もしくは愛染明王のいずれかが有力とされており、前立ての台座に当たる三日月状の意匠と併せて、「白雲(瑞雲)に乗って顕現する神仏」を表したものとされる。

またこの様式の兜は、上杉謙信やその養父である上杉憲政のそれとも共通したものであり、この事から兼続所用の兜は謙信もしくは景勝から下賜されたものではないかとも見られている。


閻魔大王への嘆願書

良くも悪くも、兼続という人物をよく表した逸話として広く知られる。


 ある時、兼続の家臣がふとした行きがかりから自らの下人を無礼討ちにしたところ、その下人の遺族らが兼続に対して「無礼討ちにされる程の粗相はしていない」と訴え出た。兼続もその訴えを尤もとして、件の家臣に対し遺族らへ慰謝料を支払うよう命じたのだが・・・これで収拾がつくかと思いきやそうではなかった。

 遺族らはなおも下人を返せと言って聞かず、兼続の再三の説得にも全く応じなかった。そこで兼続もとうとう折れて下人を返すと約したのだが、さらに続けて「あの世に遣いにやれる者がおらぬ故、そなたらが閻魔大王の元に参って死者を受け取って来てくれぬか」と告げると、なんと遺族らの首を刎ねて河原に晒し、その横に「この者どもを使いに出すから死人を返せ」という立札を立てたのである。


この逸話について、無礼討ちに及んだ家臣とされる三宝寺勝蔵が史料上に存在しない事から、その信憑性について疑問を抱く向きもいる一方、昨今の研究から会津への国替えに対する抵抗勢力の処断と、それに伴う国中の騒動の収束という史実を投影している可能性がある、という指摘もなされている。


伊達政宗との関係

兼続と同時代に活躍した武将の一人・伊達政宗とも、次のような逸話が残されている。上杉と伊達の因縁が相当に深い上に、兼続と政宗それぞれの気質もどうにも合わなかったのかも知れないとはいえ、この逸話群から垣間見える両者の関係性はお世辞にも良好とは言えないものばかりである。

但しこれについても、出典となる書籍が兼続存命時より時代が下ってから成立したものであり、どこまで事実を反映しているか定かでない点について注意が必要である。


 最初の逸話は天正~文禄年間、聚楽第での事。ある時政宗は聚楽第への途上の際、当時貴重であった「天正大判」を持参し、これを同席していた諸将に自慢げに披露していた。如何にも目立ちたがり屋な政宗らしい行動である。

 この時兼続も末座にあったのだが、やがて彼の元にもこれ見られよと大判が回ってきた。すると兼続は大判を手に取る事無く、持っていた扇子で受けるとぽんぽんと撥ね上げるようにして表裏を眺めたのである。上杉の陪臣故に遠慮しているのかと思ったのか、政宗も手に取って眺めるよう勧めたところ、兼続からは放り返された大判と共に、このような答が返って来たのであった。


不肖この山城めの手は、先代・謙信公より先陣の指揮を任され、軍配を握った手にございます。誰の手に渡ったかもわからぬ賎しきものを手にとっては汚れますので、扇子に乗せて拝見させて頂きました(意訳)」


 この皮肉たっぷりの物言いに政宗も苛立ったものの、流石に諸将の居並ぶ前で一陪臣に対して腹を立てるのも体面が悪いと見てか、その場は苦笑して収めたという。


 もう一つの逸話は慶長出羽合戦終結の後、兼続が江戸城に初めて登った際の事とされる。この時兼続は廊下にて政宗と出くわしたのだが、会釈すらなく素知らぬ顔ですれ違って行ってしまった。

 このあまりに礼を失した振る舞いにはさしもの政宗も我慢ならなかったようで、兼続を呼び止めると「陪臣の身でありながら大名のわしに挨拶もなしとは無礼ではないか」と咎めた。すると兼続は非礼を詫びつつも、


これまで伊達様と相見えたのは戦場でのみ、しかも背を向けて逃げる姿しか見ておりません故、一向に気が付きませんでした(意訳)」


 ・・・と、相変わらずの皮肉を含んだ返答に及んだのである。この言にさらに怒りが募ったであろう政宗だが、ここでもやはり城中で事を荒立てるのは得策ではないと見たのか、腹立ちを露わにその場を去って行ったという。


直江状

前述の通り、直江状は関ケ原の戦いの発端となったとされる書状で、「往来物」として出回ったが、原本が存在せず偽文書説などもあり、見解が分かれる。

しかし『鹿苑日録』や上杉景勝発給書状により、書状が取り交わされたこと及び、直江状にあるような状況であったことは確認されており、家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」等とある事から、少なくとも家康を激怒させるだけの内容であったのは想像に難くない。

現在の一般的に知られる直江状の内容を一般的に訳すと…


ご機嫌用、内府様。

潔白の誓紙を差し出せと言っても、そんな物に意味はありません。

何故なら、これまで散々誓紙を出しても、内府様はどうせ読みもしないからです。

秀吉様の死後に掌を返して鞍替えをしている不届きな輩(大名)がいるようですが、

我等上杉家をそんな者と同類扱いするのは傍迷惑以外のなにものでもありません。

武器を集めているのは事実ですが、これは調略好きな何処かの大大名(露骨に家康を指す)が茶道具を集める事と同じで、

田舎武士の我々は武器を集めるのが好きなだけです。

どうせあなたが疑うのは、告げ口した人間(堀秀治)がいるからで、

その者を調べず鵜呑みにするのは無能以外の何者でもありません。

それでも我々が悪いというのなら、どうぞお構いなく。いつでも相手になりますよ?


実際の直江状と、内容がどこまで合致しているのかは不明だが、明らかに相手をバカにしているとしか言い様の無い物であるのは確かで、しかもそれを当主の景勝ではなく家臣に過ぎない兼続が文章を考えて書いて出したのであれば、家康や秀治はおろか、徳川家の家臣(井伊直政本多忠勝ら)や家康と同盟を結んでいる大名達(伊達政宗最上義光福島正則加藤清正ら)をも怒らせるのは明白であった。

喜ぶのは三成や宇喜多秀家を始め、家康に反感を抱いている者達ぐらいであろう。


主君である景勝も、あくまで「上杉の潔白を主張する書状を送る」よう言っただけで、「家康に喧嘩を売ってやれ」などとは全く命じてはいない。

その事も考えると、直江状は兼続個人の反家康感情を表した文章とも取れ、直江兼続の熱心なファンから見れば「カッコいい」と思える内容だが、客観的に見れば外交に携わる重臣としては、その後の上杉氏の顛末を抜きにしても、下策も同然なものであると言わざるを得ない。


創作作品

かつて週刊少年ジャンプで連載されていた原哲夫漫画花の慶次』や、コーエー発売のアクションゲーム戦国無双』シリーズなどの作品で登場キャラクターとして描かれたり、記憶に新しいところでは、フジテレビ系『トリビアの泉』で取り上げられたり、NHK大河ドラマ天地人』で主人公として描かれたりしたことでその名が広く知られるようになった。


しかしその一方で、石田三成と同様に「判官贔屓されやすい戦国武将の一人」として扱われる傾向も強く、ドラマやフィクション等における美化された兼続の義を重んじ悪を憎む人格と、実像についての大きな剥離から、下手をすると別人に等しいものになる事も…。

また、ビジュアルに関しても、所謂イケメン武将として描かれる事が多い。


トリビアの泉』におけるもの

演:榎木孝明

2004年6月2日放送分の「戦国時代に「愛」という字を掲げた兜をかぶった武将がいた」というトリビアで紹介される。

当時は直江兼続の知名度が低かったこともあって89へぇを記録、見事金の脳を獲得した。この放送で『世界の中心で愛を叫ぶ』をもじった「戦場の中心で愛をかぶる」というキャッチコピーを付けられていた。

ちなみに『風雲児たち』で知られる漫画家みなもと太郎はこの番組を見るまで兼続の事を知らなかったらしく、あとでそのあまりの人物の濃さに驚いたとのこと。


戦国無双』シリーズにおけるもの

馬上直江

CV:高塚正也

戦国無双2』からプレイアブルキャラクターとして登場する上杉家の武将。

詳しくは 直江兼続(戦国無双) の記事へ。


天地人』におけるもの

愛の兜

演:妻夫木聡加藤清史郎(少年時代)

2009年NHK大河ドラマ『天地人』の主人公。

ドジっ子であり泣き虫の兼続が成長していき、やがて上杉家家老として活躍するストーリー。

兼続を正義の味方に見せる必要があった為か、史実の非情な行いや都合の悪い人間の存在は悉くボカされており、逆に敵対する徳川家康は、これでもかと言わんばかりに誇張する形で、悪逆非道の極悪人に脚色されているのも特徴。

この為、視聴率は高い反面、放映当時より賛否両論も目立っていた。


真田丸』におけるもの

真田丸より直江兼続

演:村上新悟

これまでの創作作品における兼続像とは一線を画し、国の維持のためなら極刑を下すこともいとわない、史実に寄せた冷徹非情な謀略家としての色彩が強い人物造形となっている。

別名「セコム直江」。


花の慶次』におけるもの

愛の兜

CV:安富史郎浪川大輔(義風堂々)

上杉景勝配下の武将。前田慶次が男として惚れるほどの文武両道の名将で、後に慶次とは終生の友となる。

慶次の朱槍を軽々と振り回すほどの膂力の持ち主だが、普段は温和で優しい性格。石田三成とも義兄弟の契りを交わす仲であった。


慶次と上杉家小姓の諍いでは、小姓の親である老臣達が慶次を罵るのに対し「利いた風な口をきくな~!!」と一喝。上杉家に味方する振りをして敵と通じていた本間氏当主・本間左馬助の軽薄な態度に対しては血の涙を流しながら鉄拳を御見舞いするなど、「義」を重んじる熱い性格が見て取れる描写が多い。

作中では「なつ」と言う名前の妹が登場するが、兼続に妹あるいは弟が居たかどうかについては現在のところ推測の域を出ていない。


慶次は出家後、兼続の願いにより米沢30万石に転封された上杉家とともに米沢で生涯を過ごす事となる。


因みに、若き日の兼続を主人公に据えた『花の慶次』のスピンオフ作品『義風堂々!!直江兼続 -前田慶次月語り-』(原作・原哲夫&堀江信彦、作画・武村勇治)が存在する。こちらでは、彼もまた慶次に負けず劣らずの「傾奇者」であったという新たな設定が追加され、容姿も原作よりも若々しく奇抜な趣向を好む人物に脚色された。


戦国BASARA』におけるもの

無敵状態


自称『無敵の主人公』。

詳しくはこちら


戦国大戦』におけるもの

「1570魔王上洛す」から参戦。ただしカード表面の表記は樋口姓となっている。


2コスト槍足軽・特技「制圧」・高統率など、追加以前の上杉家に不足してた要素を一人で完備する。

計略は「愛と義と」。上杉家の味方武将の兵力を回復させ、統率力を上げる。


強烈な火力を持つが統率力が総じて低い上杉家の弱点を補うデザインとなっている。


BRAVE10』におけるもの

CV:三木眞一郎

原作第5巻から登場。


口が悪い。作者からは「嫌味」と呼ばれている。石田三成とよく一緒にいる。狸(徳川家康)が嫌いで、彼をネズミ扱いしたことも……

直江状なるものを徳川家に送り付けて、家康を怒らせた。

幸村も彼には口で勝てない。


殿といっしょ』におけるもの

この直江がウザい2009

CV:立花慎之介

寡黙でガラスメンタルな景勝の懐刀。「愛」をことあるごとに口にするがその実態はかなりの皮肉屋で慇懃無礼。主君である景勝に対してもホメ殺しやダメ出しを行うのが日常茶飯事。「ダメ出しがいのある人」=「問題のある人」に対してはすぐさま興味を惹かれるため、眼帯バカの政宗や好感度の低い三成に対して「素晴らしい」と評価する。

慶次曰く「アイツの『素晴らしい』は世間一般の『素晴らしい』とは違うだろ!」

直江状は「その九十」(恐らく最後は「その百十九」)以上あり、家康は全て読み終えた後3日寝込んだという。


信長の忍び』『真田魂』におけるもの

『殿いつ』同様に寡黙すぎる主君の「む」「ぬ」などの短すぎるセリフを翻訳できる数少ない人物。非常にイケメンであり、イメージ通り「愛」が大好き。


『信忍』では御館の乱において偶然出会った千鳥を利用し、景虎陣営に着いた軒猿(上杉の忍び)の撃滅を依頼する。

『真田』では幸村(信繁)の師として登場した。


アニメ『戦国コレクション』におけるもの

純愛天使・直江兼続

二つ名・純愛天使

詳細は純愛天使・直江兼続を参照。


ラヴヘブン』におけるもの

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。

金髪に「愛」の髪留めをしている。見た目とは裏腹に優等生気質であり、本が好き。じつは腹黒い一面もあったり…。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。


モンスターストライク』におけるもの

イベント「戦国風雲絵巻 巻ノ二」で初登場したガチャ限定モンスター。

伊達政宗等と同様に女体化しており、可愛らしいものの、レア度が星4のハズレ枠となってしまっている。

それ故に性能は弱く、アビリティは魔族キラーMしか持っておらず、友情コンボも砲撃型とは言え威力の低い貫通拡散弾EL3で、SSもただの自強化という惨憺たるもの。

その為、排出されても他の星4達と同様にすぐ売られてばかりであった。

その後2018年6月に上方修正が行われた…のだが、その修正内容は友情コンボが超強貫通拡散弾EL5になるだけであり、アンチアビはびた一文貰えなかった。結局売られる事が多いキャラは脱せず。

一応イラストは良いので、かつて配信されていた「モンストドリームカンパニー」では「ラブリー眼科 直江兼続」が登場していた。

直江兼続の明日はどっちだ。


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