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真田信綱

さなだのぶつな

戦国時代の武将。武田信玄、勝頼の2代に仕える。真田幸隆の長男として弟・昌幸がもっとも尊敬した真田家随一の剛将。武田二十四将にも数えられる。
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生年……天文6年(1537年)

没年……天正3年5月21日(1575年6月29日)


概要


真田幸綱(幸隆)の嫡男。幼名は源太。官途名は左衛門尉で源太左衛門(尉)と称した。


5歳の時、海野平合戦で流浪の身となるが、のち父と共に武田信玄に仕える。

成人してからは父から『綱』の字を受け継ぎ(当時は『幸』ではなく、こちらが真田の通字だったとする説も)、信玄からは、信玄が多くの家臣に与えていた『昌』(曽祖父・武田信昌に由来)ではなく、武田氏の通字『信』を与えられ信綱と名乗った。

この辺りからも、信玄の真田氏への期待と信頼が見える。そして信綱も父同様、それによく応えてみせた。


幸綱の後継者として若い時から現地でガッツリ経験を積まされており、『甲陽軍鑑』によれば、1561年の第四次川中島の戦いでは父とともに別動隊に参加していたという。


1567年頃、父・一徳斎が病に倒れたことで真田家の家督を継承した。(幸綱は1574年死去)


以後、駿河侵攻、西上作戦といった信玄後期の戦いに専ら昌輝とコンビで参戦。多くの戦で先鋒を務め、その武勇は野戦でも攻城戦でも高く評価されていた。武器は青江貞次作とされる三尺三寸の大太刀である。三方ヶ原の戦いでもやっぱり先陣に立ち徳川家康をボコボコにして脱糞させている


この頃の真田一族の立場の高さに関しては、兵力を見ると分かりやすい。信綱は騎馬200を率いる立場で、これは信濃の領主たちの中でもダントツトップである。これにプラスして、昌輝は別家を建てることを許されており独自に騎馬50、更に下の弟たちの武藤昌幸と加津野信昌(信尹)も各騎馬15。

もちろんそれだけの戦力を揃える負担を強いられるが、武田家信濃衆の中でも真田一族は既に破格の存在だった。


信玄死後も武田勝頼に引き続き仕えたが、1575年、長篠の戦い真田昌輝と共に討死した。享年39歳。


この時は馬場信春が率いる右翼に陣取った。対する佐久間信盛隊に向けて突撃し、馬防柵を大太刀でバッタバッタと薙ぎ払い、怒涛の勢いで敵陣へと肉薄するも、鉄砲隊の銃弾に倒れた。信綱・昌輝兄弟のほか、土屋昌続もここで討死し、馬場信春が命を懸けて殿を務めた事で勝頼は甲斐へと生還した。


信綱の首は織田・徳川方に取られたが、その後家臣の白川勘解由・北沢最蔵の兄弟によって鎧と一緒に甲斐へと戻ってきた。この時、彼の首を包んでいたのは信綱が愛用していた陣羽織で(※白川勘解由の陣羽織とも)「血染めの陣羽織」と呼ばれ、鎧と共に信綱夫妻や昌輝が眠る信綱寺に現存する。白川兄弟は使命を全うすると、主の後を追って殉死した。


人物

幸綱・昌幸は智謀の人だが、信綱は武勇に大変優れており、周囲からも次代を担う人材として大きな期待をかけられていた。


彼と昌輝の死により、弟の昌幸が真田家に出戻って当主となり、武田家滅亡後の荒波を乗り越えていくのは良く知られている通り。そして真田の「武」は40年後、甥で昌幸の次男・真田信繁真田幸村)によって天下に轟く事になる。信繁は豊臣秀吉から左衛門佐の官位を授かっており、奇しくも左衛門尉だった信綱同様「左衛門」の称を持つ。


武田家滅亡後も昌幸の智謀で真田家は生き延びる。『攻め弾正』と呼ばれた父・幸隆、『表裏比興の者』と呼ばれた弟・昌幸にはさまれて若干影が薄い信綱であるが、その剛勇は昌幸からも尊敬されていたと言われる。長篠の戦い山県昌景馬場信春らを始めとした多くの功臣たちのみならず、信綱や昌輝に土屋昌続・三枝昌貞(山県昌景の猶子)・甘利信康(甘利虎泰の三男)・高坂昌澄(高坂昌信の長男)といった三十歳台以下の人材も多くを死なせてしまった事はさらに痛恨となった。


弟たち

信綱の同母弟には昌輝・昌幸・信尹がいる。

幸綱の次男。幼名は徳次郎。官途名は兵部丞。通称は兵部。諱は信輝とも。信玄の小姓となり、のちに「百足衆」と呼ばれる部隊を率い信玄に「我が両眼」と言わしめた。信綱と共に長篠で戦死。享年33歳。子孫は徳川家康のち越前松平家に仕え越前真田家となった。

幸綱の三男。幼名は源五郎。通称は喜兵衛。官途名は安房守。信玄に近侍して活躍し次兄・昌輝同様、信玄に我が眼と言わしめた。武藤氏に養子入りしていたが兄二人の戦死に伴い実家の真田家を継いだ。

幸綱の四男。幼名は源次郎。通称は市右衛門。官途名は隠岐守。加津野氏に養子入りし加津野信昌と名乗る。兄二人同様、信玄の小姓を経て、戦場で活躍。駿河深沢城攻防戦では北条綱成の「黄八幡」旗を奪う。旗本真田家の祖となり大坂の陣では甥の真田幸村と対峙する。86歳という長寿を保ち徳川家光の代まで生きた。


創作作品


信長の野望シリーズ

とっても微妙。もっと評価されるべき。騎馬武者としてはいっぱしなのだが、政治智謀のステータスが低さからオールマイティな武田四名臣に比べると使い勝手が悪く霞みがち。一方真田家中となるとチートな父と次弟がいる上に甥の信之信繁もかなり優秀なため(史実と違い)悩めるお兄ちゃん状態に。


漫画「センゴク

第2部となる「天正記」の序盤で長篠の戦いが描かれ、主人公・仙石権兵衛の陣へと肉薄するも壮絶に討死。だがこれは、仙石家と真田家の奇妙な縁の始まりであった。


戦国大戦

右側が昌輝、左側が信綱。


『1582 日輪本能寺より出ずる』で昌輝と一緒に実装。

彼は既に死亡しているが、1560年なのに板垣信方甘利虎泰が実装されているのでさして気にすることではない。


2コスト 武力7 統率6の気合持ちの騎馬隊でレアリティはR

武田家は2コスの騎馬は豊富で優秀な騎馬が多いのだが、信綱は特技と計略から来る高い耐久力と生存能力が売り。


計略は士気4消費の『血染めの陣羽織』。

武力が2しか上がらず、速度上昇や統率強化等の効果はないが、その分特技気合効果が長時間著しく上昇する。

効果は受けたダメージの約9割が気合に反映され、騎馬の機動力を生かし乱戦を避けて居れば、瀕死の状態からでも時間経過で自城に戻って回復するよりも早い状態で、ほとんど体力を回復できる。


使い方としては『赤備えの采配』や『電光石火の采配』といった騎馬単デッキにおいての壁役や計略時間の長さを利用して戦場を荒す等がある。他の投げ強化の併用(例:長坂釣閑斎の『愚かな進言』や真理姫の『飛天の祈り』等)と組み合わせることもお勧め、中でも竹林院の『真田の矜恃』との愛称は非常に良く、武力上昇と気合ゲージ分が多い程回復する為、信綱の耐久力を高めて、長い間戦場に居座ることが出来る。

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