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真田幸隆

さなだゆきたか

真田幸隆とは、甲信地方の戦国武将。元は信濃の国衆の一人で、本領失陥の憂き目に遭いながらも武田信玄の傘下に入り旧領を回復。「攻め弾正」の異名などでも知られる戦国きっての智謀の名将である。(1513年-1574年)
目次 [非表示]

概要

生年……1513年(永正10年)

没年……天正2年5月19日(1574年6月8日)


同時代の確実性の高い史料などから、本名は「真田幸綱」であるというのが通説(長男・真田信綱と「綱」の通字が共通する点も材料のひとつとされる)である。このため「真田幸隆」は晩年、隠居した後に改名したとする説もあるが、本記事では便宜上「幸隆」表記で統一する。

永禄2年(1559年)に武田晴信が出家した際にこれに従って自身も剃髪しており、道号として「一徳斎」とも名乗るようになった。


信濃・西上野攻略で発揮した知略と、それによる数々の戦功は信玄からの厚い信任を得る結果にも繋がった。外様でありながら譜代に準ずる扱いを受け、甲府に館を建てる許しを得た他、息子3人(信綱昌輝昌幸)と共に「武田二十四将」にも数えられるなど、家中でも名だたる武将として一目を置かれるようになった。


戦国(武田)三弾正(真田幸隆、高坂昌信保科正俊)の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれる事もある(弾正とは武家の官職の一つである『弾正台』のことで、古くは現在で言うところの警察検察の役割を担っていた役職であり、元々は朝廷が武家に対して発行するものであったが、室町幕府の統治が揺らぎ戦乱期に入ると各大名家でも独自に個々の武将を任命するようになった)。

味方内だけでなく、越後の龍ともいわれる上杉謙信をして「我、弓を取らば真田に劣らぬが、知謀は7日後れあり。真田いる限り信濃をとること安からぬ。」と前置きをした上で、智謀面で敵方の武田の部将・真田幸隆の実力を認めている。


生涯

信濃小県郡の名族・海野氏の出身と言われているが、海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿である真田頼昌の子等、様々な諸説があり真田氏の幸隆以前の記録が少ない為詳しいことは分かっていない。只、真田昌幸の父親なのは確かである。実弟に矢沢頼綱常田隆永などがおり、いずれも子孫が真田氏の家臣として仕えている。

幸隆の青年期は、丁度甲斐の武田信虎が国内統一を経て信濃へも食指を伸ばしつつあった頃とも重なり、天文10年(1541年)に入ると信虎は信濃の諏訪頼重村上義清と同盟し小県、佐久への侵攻を本格化させるようになる。海野一族はこれを迎え撃つも衆寡敵せず、海野平合戦での敗北によって一族は本領・小県より駆逐されてしまう。その際に幸隆は海野棟綱らと共に、箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。


その後武田晴信(信玄)が家督を継ぐと、幸隆も武田氏に帰属して旧領に復帰したとされるが、その理由には諸説ある(山本勘助による推挙、上田原の敗戦を契機に晴信が村上義清の対策として人材を求めてそれに応じた、海野氏のさらに本流に当たる禰津氏の推挙、など)。時期についても様々に見解が分かれるが、遅くとも天文17年(1548年)の上田原の戦い(この合戦で板垣信方の脇備として参戦していたと伝わる)までには帰属していた事は確かであろう。


武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。特に顕著な功績は、晴信が攻略できなかった村上方の戸石城を、調略を用いて1日で攻略したことが挙げられる。こうした活躍を経て、村上氏が信濃を追われた天文22年(1553年)にようやく旧領を回復せしめたのである。同年に武田家の有力な重臣である長坂虎房の嫡子昌国の元に自身の娘を嫁がせており、それなりの重臣としての地位を幸隆はすでにもっていた可能性がある。

その後は真田本城と戸石城を領しつつ、対長尾(上杉)の備えとして睨みを利かせ、川中島の戦いなどにも嫡男・信綱らと共に参戦。また永禄年間に入り、武田氏が西上野に侵攻すると本領を信綱に任せつつ、幸隆自身は当地の豪族の所領争いの調停にも関与しつつ、永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には嵩山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略するなど、西上野方面での活動に比重を置くようになった。


永禄10年に病を得て隠居の身となってからは、駿河攻めや西上作戦など以降の武田氏による軍事行動に同行する事もなくなったが、引き続き信濃・西上野における抑えとしての役割を果たし続けた。


創作作品

NHK大河ドラマ「武田信玄」

演:橋爪功

物語序盤での晴信と湖衣姫との婚儀が初出で、晴信に対して碁盤を持参の上で堂々と所領を巡る賭けを挑むなど、初登場から軽妙にして豪胆な一面を見せ付けた。史実同様の謀略に優れた面も度々描かれる一方、正反対な人柄の原虎胤と憎まれ口を叩き合う様も定番となっており、彼が死んだ際には普段の飄々とした様も鳴りを潜め、その不在を寂しがる一幕も見られた。


NHK大河ドラマ「風林火山

演:佐々木蔵之介

物語序盤より主要な登場人物として登場。作中で主人公・山本勘助が最初に正式に仕官した先でもあり、その縁から後に河越夜戦で山内上杉方として参戦した際、援軍として北条方に同行していた勘助と再会、彼の説得を受け武田氏への帰属を決意する。

初対面の頃から、恨みを原動力としていた勘助に対しても理解を示すなど好意的な姿勢を見せており、武田家臣となってからは良き友であると共に良き好敵手としてあり続けた。作中では同じく外様組の相木市兵衛(元・大井氏重臣)とも親しく、彼と勘助を含めた3人で行動を共にする場面も多く見られた。


ゲーム「戦国大戦

さなだ ゆきたか。

真田幸隆


「弱者に教えてやれ、真田の戦をな」


Pixivにて描かれるイラストの多くは戦国大戦に関係したもの。


最上位のレアカードであるSR枠で参戦。飄々とした容姿のイラストが特徴的。

スペックはコスト3 武力8/統率10の騎馬隊で、特技は「攻城」と「伏兵」。

コストの割に武力が低めだが、高い統率から来る強烈な伏兵ダメージやダメージ計略、さらに「攻城」を持つという、様々な要素を兼ね備えた、スペック相応の能力を誇る。

持ち計略である「百火繚乱」は、武田家特有のダメージ計略「火牛の計」と比較して、使用する士気を1増やした代わりに範囲を広くしたもの。

有効射程が延伸されているため、より多くの敵軍を巻き込みやすくなっており、素の統率も高いため、低統率の武将であれば致命傷ないし一撃で撃破も見込める火力を有する。

統率を上げる家宝や奥義を使用すれば、更に火力は跳ねあがる。

また、騎馬隊という兵種の都合で攻城能力は若干下がり目だが、「攻城」の特技により虎口攻めも通しやすくなっているのも見逃せない。


「万策尽きたか…」とならないようにいかに敵をコントロールしていくかが重要なカードとなっている。

群雄伝では優れた軍略家として描かれる一方、妻の恭雲院には頭が上がらない一面も。


「我が智謀をもって

    落とせぬ城など存在しない」


漫画「殿といっしょ

勘助&幸隆(画像左)

勘介(画像右)の仲介で晴信(信玄)に仕えることにした信濃の武将。あだ名は「ユッキー」。

言動も容姿も髪の毛の色以外孫の幸村(作品内での登場順は幸村の後)にそっくりで、「戦国武将のこと知っちゃおう事典」を持っていて、時系列を滅茶苦茶にしてしまう不思議な人物。

初登場からして「幸村は孫だから似てるのは当たり前」(作中の時間的にまだ生まれていない)と思い切りメタ発言するなど、幸村と同一人物ではないかと思わせるシーンがある。

信玄には過去に領地を奪われた苦い経験を有し、表では飄々としているものの、事あるごとに勘介と組んでおちょくりまくっている。


漫画「真田魂

主人公・昌幸の父親。いつも頭巾を被っている。

武田・村上・諏訪連合軍により故郷を奪われ、流浪の生活に陥るも、勘助より所領安堵を確約されるとアッサリ武田家に仕える。武士とは「家」と「地」を残すものであると考えており、策略・謀略・泣き落とし等により主君を支える一方、真田の地を守り抜くことに躍起になっている。その活躍から、信玄からは「武田家の柱石」と称されていた。

信玄の死から1年後、孫たちに真田の六文銭の本当の意味を伝え、その生涯に幕を下ろした。


「死を望む覚悟とは 生き急ぐことではない」

「諦めぬこと それが真田魂だ」



関連項目

武田信玄 上杉謙信 山本勘助 長野業正 恭雲院 真田幸村 真田昌幸

高坂昌信 - 幸隆と並んで「戦国三弾正」の一人として数えられる。

戦国大戦 殿といっしょ

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