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概要

特撮作品、主に東映特撮特撮監督を担当したことで知られる。


出身は松竹で、カラー時代の映画が始まる前に出てくる松竹マーク映像は彼の制作。

敗戦後の公職追放により東宝を離れて松竹で顧問を務めた円谷英二とは近所で、話を聞かせてもらう機会も多く、円谷が東宝に戻ったのち度々引き抜きの誘いを受けたが、円谷をライバルとしていたこともあって断ったという。

在籍時代は後の『ウルトラQ』前半の特撮を担当する川上景司に師事し、成田亨とも親交を深めたという。


1959年、東映の社長大川博から「これからはアニメと特撮に力を入れたい」と声をかけられたのと、松竹特殊技術課の縮小もあり、撮影用の合成機を退職金代わりに東映東京撮影所へ移籍。

1965年に独立して特撮研究所を設立する。


松竹とは関わりのあるピープロダクションで『スペクトルマン』の特撮を担当したり、円谷プロの『ミラーマン』・『ジャンボーグA』・『ウルトラマンタロウ』・『ウルトラマンレオ』にも関わった。この時貰ったギャラは撮影の手法の違いでスタッフと衝突したり、自身が外様という事を気にして親睦を深めるためにほとんど飲み代に消えたとか。

この時の付き合いから東條昭平佐川和夫米谷佳晃大澤哲三を後に東映での仕事に招くきっかけとなる。


1978年の映画『宇宙からのメッセージ』で、長年の付き合いでもある本編監督である深作欣二から進められて特撮監督とクレジットされるようになる。

クレジット表記を従来は「特技監督」または「特殊技術」と表記するのに対して、「ドラマを作るのだから、技術と言う言葉が嫌い。技術などは後からついてくること」と言う考えから「特撮監督」表記を用いている。


2006年に第4回文化庁映画賞・映画功労表彰を受賞、2011年には第34回日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。


2019年11月28日死去、享年91歳。


手法

絵コンテを用いた独自の撮影方法を考案。現場のセッティングを変えないまま、可能な限りのカットをまとめ撮りする事で撮影期間を短縮し、編集によって映像の流れを組み立てて行く演出を得意とする。


戦隊ロボの戦闘時に見られる「セット下にガラス板を設置して画面手前にキャラクターの足だけを写し出し、画面奥に別のキャラクターを配置する」撮影方法を『ジャイアントロボ』撮影の際に考案。


『ウルトラマンレオ』32,33話を新東宝の怪談映画を数多く撮影した中川信夫と共に担当。32話は円谷英二生前の宿願でもあったかぐや姫を題材とした回で、幻想的な雰囲気を出したことから中川に「矢島信男 名人!」とコメントされている。


1979年、古巣の松竹にて映画『夜叉ヶ池』を担当。(この撮影の関係で『バトルフィーバーJ』と『電子戦隊デンジマン』他特撮研究所の仕事は佐川和夫に絵コンテを渡し、それを参考に撮ってもらっている。)

この映画にて鉄砲水に飲まれる村人を1コマ1コマずつ手書きで書いている。海外の業界人がこれを見て「どうやって撮ったのか?」と聞いてきて、質問に答えたところ驚かれたという。

(この山津波のシーンは『太陽戦隊サンバルカン』1話にてライブ映像として流用されている)


宇宙刑事ギャバン』にて蛍光灯をレーザーブレードに用いたのも彼の発案らしい。


スーパー戦隊シリーズメタルヒーローシリーズでは3機編隊の悪役戦闘機が定番。

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