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明治22年1月18日昭和24年8月15日日本陸軍軍人で最終階級は陸軍中将


生涯

山形県出身。国柱会の熱心な会員で、法華経に傾倒。満州関東軍参謀となり、満洲事変を実行、成功し「五族協和」「王道楽土」のスローガンを掲げて満州国の建国を主導する。


日本とアメリカの間で大量破壊兵器による世界最終決戦が行われ、それによって日米どちらかが世界統一を成し遂げる、という壮大な構想を描いた。一瞬にして都市が消滅する兵器が登場し、人類の人口も半分に減るかもしれない、といった発言は、後の核兵器出現と核戦争の危機を予言していた。ただし石原自身は、破滅的な世界戦争を法華経の原理に基づいた世界統一実現のチャンスと考えていたようである。


  • ”諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。ヒットラーナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。

石原のこうした構想は戦時中に出版された『世界最終戦論』にまとめられた。


満州事変当時石原の上官であった板垣征四郎は彼が認める数少ない人物で、二人は「作戦の石原、実行の板垣」と称されるほどの名コンビで事変を実行した。戦後、東京裁判でA級戦犯として死刑が確定した板垣に宛てて「(板垣)閣下は先に行っていて下さい。私も後を追って三途の川からあの世まで閣下のお供を致しましょう」といった内容の手紙を送っている。


昭和11年の二・二六事件においては叛乱を起こした青年将校たちを即刻鎮圧すべきと主張している。これについて後年の昭和天皇は「石原という男は満州事変を起こしたかと思えば、226事件の対処は全く正常であった」と振り返っており、石原という人物に対する昭和天皇が抱いていた複雑な心境の一端が窺える。


陸軍参謀本部作戦部長の職にあった昭和12年の支那事変に際して、石原は事変不拡大方針を唱えるも、陸軍中央部および関東軍の大勢は事変拡大派であり、方針の対立の末石原は関東軍参謀副長に左遷させられる。

同職の上官が関東軍参謀長の東條英機であり、石原と東條の因縁はここからスタートする。


生真面目なガチガチの軍人肌である東條と、破天荒ぶりのエピソードに事欠かない石原とでは水と油の関係そのものであり、支那事変の方針を巡って意見が対立していたこともあり、2人の関係は決定的に悪化し、以後石原が陸軍の要職を占めることはなかった。


昭和16年に予備役に編入された後、彼の行動は東条によって憲兵に逐一監視されていたという。


第二次世界大戦後の東京裁判では東條と対立していた点から戦犯に指定はされず、証人として呼ばれた。しかし、自ら満洲事変の首謀者であり戦犯に値すると主張した。また、証人として呼ばれた際、「人の話が聞きたいのならそっちから来い」というようなことを言って東京裁判酒田出張法廷を開かせたりもした。


戦後は地元山形で農業をする傍ら、戦争によって世界統一を成し遂げるという自らの戦前の構想を自己批判しつつ日本国憲法9条の擁護やアジアの連携などによる平和的な世界統一を主張した。板垣刑死の8ヶ月後、後を追うように膀胱ガンで満60歳で没した。


人物

大日本帝国陸軍きっての天才戦術家にして奇人・変人であり、その偏屈ぶりを窺わせる逸話が多い。

  1. いつも薄着であり、冬でもよれよれの夏服を着ていた。
  2. 好きな科目の勉強しかしなかったが、成績はいつも一番であった。
  3. 酒をたしなまず、上官にも無愛想であった。飲酒を無理強いしてくる連隊長を怒鳴りつけた。
  4. 昭和19年には、石原の教え子二人が東條英機暗殺を企てる事件が起こっている。石原は東條暗殺に賛成であった。
  5. 仙台幼年学校時代にスケッチの課題に自分のナウい息子を描いて退学になりかけた。
  6. 大人になってから大のカメラマニアとなったが、それも「写生の課題に自分のナニを描いた」エピソードと関係が有る。当時の陸軍では偵察などの際に写生のスキルが必須だが、石原莞爾には、その才能が無かった。その為に「絵・写生のスキル」の代用となるかも知れないカメラに目を付けたのである。
  7. 日本が満州で国力を蓄え、やがてソ連と、最後はアメリカと戦い、勝ったものが世界をリードするという『世界最終戦』たるビジョンを持っていた。
  8. 石原は東京裁判の法廷において、 「満州事変を起こしたのはこの私だ。満州国を作ったのも私だ。なぜ私を戦争犯罪者として裁かん」 と質問し、裁判官を慌てさせた。
  9. 裁判官の 「日本軍の21倍の兵力を持つ中国軍と戦うという無謀な作戦を立てたのはなぜか」 という質問に対し、 「戦争というのは数ではない。作戦だ。もしこのたびの戦争、私が指揮をとっていたならば、その裁判長の席に座っていたのは私で、ここに立っていたのは君だったんだよ」 と、『自分ならアメリカに勝てた』と受け取れる発言をし、それに対し誰も文句を言えなかった。
  10. 石原が戦犯からはずされたのは、裁判官がもっとも聞きたかった 「この戦争でもっとも罪深い戦争犯罪者は誰か」 という質問に『東條英機』と答えさせるためであったが、石原は 「それは、アメリカ大統領トルーマンである。罪のない人間を、原子爆弾によって殺しまくり、20万人も殺して、それが正義だと言えるのか」 と答えた。
  11. 戦後に「東條英機との間に意見の対立が有ったそうだが」と聞かれた際に「自分はいささかの意見を持っていたが、東條英機は意見など持っていなかった自分の意見を持っている者と自分の意見を持っていない者の間に『意見の対立』など起き得ない」と答えた。
  12. 仲の悪かった石原莞爾と東條英機だが、この2人の間には意外な共通点が有った。それは、事有る毎に周囲の人間に対して「玄米食は体にいい」と勧めていた事。
  13. 世界最終戦争で最終的には天皇盟主の東亜とアメリカの決戦となるとし、その布石として中央の統制を無視して満州事変を起こした石原だが、時期尚早として欧米の権益がある中国での戦線拡大、ましてやアメリカとの戦争には一貫して反対しており、自分が政治工作をして穏健派の宇垣一成陸軍大将の組閣を潰したにもかかわらず、それが戦争拡大の道となった事に生涯最大級の誤りと反省したり、太平洋戦争前には「石油が欲しいからと戦争を始めるやつがあるか」と批判し、戦争初期の日本軍優勢の折も「この戦争は負けますな。100円で1000円の物を買おうとする日本と、10000円で1000円のものを買おうとするアメリカ、どちらが勝ちますか。そりゃ、1円、2円と買っているうちは分からんが、その後はどうなります。この戦争は負けますな」と批判し、更に東条に睨まれている。そういった矛盾を「不拡大」路線の中央の統制に従うように石原が求めた関東軍参謀武藤章に「我々は石原閣下が満州事変当時になされていた事を見習っているだけです」と返され、絶句したと言われる。(もしくは彼の中では聊かも矛盾してない事が他人には矛盾していると思われている事にショックを受けたのかも知れない)

1929年7月に満州事変に先立って関東軍満蒙領有計画を作成している。


創作作品においては

その特殊な立居地から、太平洋戦争期を扱った創作作品では重要人物として登場することが多い。当時の軍内部では、特異な意見を持つ高級将校であり、日本人主人公たちの協力者として非常に都合がよい。東條英機など後の東京裁判で戦犯とされた者達と対立していたことなどもそういった立居地を強力にしているといえる。


安彦良和氏の漫画、『虹色のトロツキー』(連載は創価学会の出版社である潮出版の雑誌)では、昭和初期にまだアジアでうろうろしているらしいトロツキーを満洲の大学へ呼び、ソビエト連邦を分断せんとする計画に奔走する。


帝都物語』では、法華の教えに基づく世界の経営をする者として、二・二六事件を指導する、北一輝(お題目を唱えると奇跡が興る人と言う設定)と対決する。また、ついでにフリーメーソンによる謎の帝都壊滅計画も処理せんとするが。


江川達也氏の漫画『マンガ最終戦争論』では、実際の彼の晩年の様子を作家宮沢賢治などの関係と織り交ぜながらリアルに描かれている。なお、宮沢賢治と石原莞爾は、2人とも日蓮宗系の宗教団体である「国柱会」の熱心な信者だったが、面識が有った可能性はかなり低い。


関連タグ

日本史 昭和 軍事 軍人 日本軍 満州

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