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結城晴朝

ゆうきはるとも

結城晴朝とは、関東地方の戦国武将。北関東の名族・下総結城氏の当主として、佐竹氏や小田氏など周辺の諸大名や、後北条氏との間で抗争を繰り広げつつその勢力を保った。結城秀康の養父としても知られる。(1534年-1614年)

概要

生 没:天文3年8月11日(1534年9月18日)- 慶長19年7月20日(1614年8月25日)

別 名:七郎(通称)、小山晴朝(初名)

官 位:従五位下、中務大輔


鎌倉期より下総にて勢力を有していた名族・結城氏(下総結城氏)の17代目当主。

元は結城氏の本家筋に当たる、下野の小山高朝の三男として生まれ、永禄2年(1559年)に伯父の結城政勝の死去に伴い、26歳の晴朝は嫡男に先立たれていた政勝の後継ぎとして結城氏に迎えられた。

この時期の結城氏は、実の祖父で「結城氏中興の祖」とも称される結城政朝(15代当主)の頃より勢力伸長著しく、本領である下総の結城のみならず、佐竹氏や小田氏、宇都宮氏といった周辺の諸大名との抗争を経て下野、常陸にもその支配領域を拡大していた。晴朝もこうした祖父、そして養父の路線を継承し周辺勢力と敵対しつつ、また一方では関東統一に向けて邁進する相模の後北条氏や、これと敵対する越後の上杉氏との間を移り渡りつつ、勢力の保持・拡大のため苦闘を続ける事となる。

その過程で、実家である小山氏とは敵対関係とならざるを得ず、実父である高朝や実兄の秀綱とも度々干戈を交えた。これに関しては晴朝、それに高朝双方とも本意ではなかったようで、高朝が晩年健康を害するようになると乗国寺(結城氏の菩提寺)の住職に対し、結城氏を守るために父を攻めざるを得ない罪に悩んでいる旨を書状にて打ち明けている他、天正元年(1573年)に高朝が没した際、敵対している都合上葬儀に顔を出す事が出来ない晴朝は、この住職を代理として焼香に行かせてもいる。

やがて後北条氏が上杉氏と和睦し(越相同盟)、北関東への版図拡大を本格化させるようになると、結城氏を始めとする北関東の諸勢力は婚姻関係を通じた連合を形成しこれに対抗。晴朝もその一環として、宇都宮広綱より次男(結城朝勝)を養子として迎える一方、実妹を佐竹氏傘下の江戸重通に嫁がせ、関係強化に務めた。


その後、豊臣秀吉が天下人として台頭するようになるとこれに臣従し、小田原征伐を経て本領を安堵された。この秀吉への臣従に際しては、さらなる結びつきを求めて養子縁組も願い出ており、この時養嗣子として結城氏に迎えられたのが、当時秀吉が養子としていた羽柴秀康徳川家康の次男)であった。これに伴い、当時既に晴朝より家督を譲られていたとされる結城朝勝は当主の座より退き、宇都宮氏に復す事となった。

この後、文禄年間に入った頃には秀康に家督を譲ったようで、その秀康を通じ秀吉死後には徳川氏と結んで引き続き結城氏の存続に心を砕いた。しかし関ヶ原の戦いでの論功行賞で、秀康は越前へ移封され、晴朝も父祖伝来の地である結城の地を離れる事となった。さらに秀康は越前移封後に松平へと復姓。結城氏の家督は養孫・直基(秀康の五男、前橋松平家の祖)に引き継がれる事となる。

これらの動きは、実父や養子と絶縁してまでも結城という家の存続に奔走した晴朝の本意ではなく、越前に移った後も結城帰還を祈願したり、『結城家譜』を始めとする家記の編纂を通して、81歳で亡くなるまで結城氏存続と旧領帰還への執念を示し続けた。その執念の強さ故に、家祖である結城朝光が奥州征伐の恩賞として得た莫大な黄金を、越前移封前に結城城に埋めていったという埋蔵金伝説(結城埋蔵金伝説)まで残されているほどである。


晴朝の没後、結城氏の家督保持者であった直基もまた松平へと改姓したため、晴朝の悲願も空しく大名家としての結城の家名は消滅したが、直基以降も結城氏の家紋や祭祀は前橋松平家の歴代当主に引き継がれていった。


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