プロフィール
姓名 | 荀彧 |
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字 | 文若 |
生没年 | 163年〜212年 |
所属 | 後漢/曹操軍(魏) |
容姿 | 正史、演義ともにその風采を評価されている |
称号 | 侍中・光禄大夫・持節など |
諡 | 敬 |
異名 | 王佐の才・我が子房(曹操から)・荀令君(別名) |
主な一族 | 父:荀緄(荀家八龍の一人) 従子:荀攸 兄弟:荀諶 |
概要
163年生まれ、212年没。甥に荀攸がいる(ただし6歳年上)。
『三国志』魏書「荀彧荀攸賈詡伝」、及び『後漢書』「鄭孔荀列伝」に伝がある。
曹操の元で様々な政策を打ち出し、また名家の人脈を活かし様々な人材を推挙したが、曹操が後漢朝を軽んじるようになってからは不遇の人生を送った。
ただ、晩年の扱いについては諸説あり、上記のような「後漢朝に対する忠臣であった」とする解釈の他にも、「お家騒動に巻き込まれその過程で病死した(彼は世継ぎに関しては曹植派だった)」とする解釈もあったりして、この辺りの解釈は創作物では格好のネタにされることが多い(魏王朝中心に作品が描かれる場合は特に)。
単独列伝ではないにもかかわらず正史の功績記録が素晴らしい上、人物評も当時から絶賛がかなり多かった。
「彼がいなければ曹操の覇権はなかった」とも言われ、その功績と名声の大きさは相当なものだった。
それによると清雅で品格のある人であり、曹操は「我が子房(前漢の名軍師張良)である」と彼を評した。尚書令の地位に長くあったので「荀令君」とも呼ばれ、芳しい残り香から「荀令香」なるものも存在したようだ。
正史で数少ない容姿についての描写がある人物で、周瑜にも匹敵するほどの美丈夫だったらしい。
毒舌家である禰衡が「荀彧は弔問の使いに向いている」と評したのも、顔『は』いいという意味ともとれる。
ちなみに幼少の際に権勢を振るっていた宦官・唐衡の娘との政略結婚を受けさせられたが、関係は良好であったのか子が8人という子沢山(息子が7人に娘が一人、うち名前が判明しているのは男子5人)であり、特に長男荀惲の子孫は重職に就いている者が多い。
『三国志』などでは曹操の軍師、腹心として描かれることが多い。
三国志演義では空箱を贈られ全てを悟り憤死する(「中身がない」と答えれば「中身をどうしたのだ」と言われ、「中身がある」と答えれば「主をたばかる様な臣などもってのほかだ」と言われるという、どちらに転んでも政治家人生が潰える様な意味)、曹操の悪役ぶりを見せ付けるような最期を遂げさせられた。
登場作品ごとの荀彧
真・三國無双シリーズ
荀彧(真・三國無双)を参照。
少年時代から曹操に仕え、曹操の進言により旅に出て異民族との交流を経て「王佐の才」を開花させる(その後は「あいやーっ」が口癖になる)。曹操軍の中で劉備にいち早く出会っており、彼に好印象を持っている。
少年時代から「天才」と言われていたが、対呂布戦の際に、呂布に余計な挑発をして殺されかけるなど、曹操から「君は戦が弱い」と叱責されたことも。
晩年は「漢王朝の家臣であるか、曹操の家臣であるか」という二者択一に苛まれ、やがて病に蝕まれ、有名な話である「食盒(空箱)」の中身が「何も書かれていない丸められた紙」というものであり、荀彧は「お前にやるものは何もない」という曹操の幻の声を聴き、その紙の意味を「白紙に撤回?何を?」などと誤解して、華佗の弟子から与えられた薬を大量に服用し、結果的に自殺してしまう。だが、薄れゆく意識の中で、曹操から以前に言われた「荀彧はただ、荀彧であればよい」という意味を理解した。
史実でも様々な考察がなされている「空箱」と「荀彧の死」に関しては、作画の王欣太が「あらゆる言い伝えを調べ、(自分なりに)丁寧に描き上げた」と語っている。
桂花を参照。
関連タグ
平手政秀・・・主君から「我が荀彧」と評された日本の武将。奇しくも主君絡みで自害するという荀彧と同じような末路を迎えている。