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葛飾北斎

かつしかほくさい

葛飾北斎とは、江戸時代の浮世絵師である。『富嶽三十六景』のひとつ、『神奈川沖浪裏』は誰もが一度は目にしたことがあるだろう。
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概説

葛飾北斎(1760-1849)は、江戸時代の浮世絵師。

日本にとどまらず、世界の画家に影響を与えたエラい人。

そして、触手責めの先駆けとなったエロい人。

(『蛸と海女』-Wikipedia)


代表作は『冨嶽三十六景』、『北斎漫画』の連作など著名な作品でも100を越えるが、一説には生涯に3万点もの絵を残したと言われる。


当時でも色々と型破りな絵師だったらしく、生涯の内に画号を改める事30回、転居する事93回に及んだと言われる。酒を飲まない甘党菓子を好んだ。出歩く時は何かぶつぶつと独り言を唱え、知り合いに行き合っても気付かないことがあった。またとにかくプライドも高く、困窮した生活を送りながらたとえ武士が万金を積もうとも己の気に食わない仕事は断り、無愛想な事から度々トラブルを起こした。


娘のお栄(葛飾応為)も絵師だった。北斎も応為も絵を描くこと以外には全く無頓着な性格で、お湯を沸かすことすらしなかった。居室には菓子の包み紙や出前の器がそのまま放置され、足の踏み場もない散らかりようだったという(家がどうしようもないほど汚れるとよそへ引っ越す)。

北斎の作品には応為の作品も多数紛れ込んでおり、特に晩年の作品で筆致が若返っているものは応為が代筆したと考えられている。

これは浮世絵や肉筆画を商う版元が、北斎のネームバリューを優先して応為の作品を北斎作と一絡げに扱ったことが原因と推察されている。


向上心の塊のような人間で75歳の時に描いた富嶽百景では

「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども

七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり

故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん

願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし 」

(俺は6歳の頃から絵を描くのが好きで、50の頃には相当の数の絵を描いたが、70歳より前に描いた物はどれも本当につまらんものだったが、73歳の頃には生き物や草木を描くコツが分かってきた。 ならば86歳の頃にはさらに上手くなって、90歳の頃には絵の奥義を掴み、100歳の頃には神に近づき、100を越えてから描く点は一つの命を帯びるだろう。長寿の神はこれが妄言の類じゃない事を見届けてほしいものだ。)

と言う言葉を後書きに記したが、弟子の証言によると80を越えたころに腕を組んだかと思うと猫一匹上手く描けないと泣き喚いていたそうである。

後に90歳の長命を保って後大往生を遂げたが、臨終の時の言葉は

天我をして十年の命を長らわしめば…

 …天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし

(天が後10年、いや5年でも良い。後5年寿命を下されたなら、私は本当の絵が描けるのだ)

だったと言われ、その飽く事無き絵に対する情熱は並々ならぬものが窺える。

未練タラタラの最後の言葉に反して辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」と何とも爽やかな物を残している。


一説によると身長は180㎝を越えていたといわれている。


ちなみに、春画のペンネームは「鉄棒ぬらぬら」「紫色雁高」だったという。


おもな作品リスト

富嶽三十六景』(凱風快晴神奈川沖浪裏など)

北斎漫画

椿説弓張月挿絵担当

蛸と海女


フィクションにおける北斎


関連タグ

浮世絵 浮世絵師 日本の伝統 蛸と海女 北斎漫画制作キット


ムロツヨシNHKの番組『若冲VS北斎 夢の天才対決』にて北斎役を演じる。ちなみに、若冲役は佐々木蔵之介

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