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概要

華北を制した曹操は、勢いに乗じてへの侵攻を開始する。

それに対し劉備(と劉琦)は孫権と手を組みこれを迎え撃つ。

劉備陣営と孫権陣営は若干のいさかいはあるもののこれを撃退することに成功し、曹操は命からがらへ逃げ帰ったというのが演義の概要。


だが、実のところ正史にはまともな記述はない。

せいぜい確定してるのが曹操軍が百万規模の大軍勢を率いて南下し劉備・孫権連合は数万の軍勢で迎え撃った事、曹操軍に疫病の流行った事(曹操側の記述)、孫権軍が奇襲をかけたこと(孫権側の記述)くらいである。小規模な小競り合い程度はあったかもしれないが、少なくとも演義にあるような大会戦はなかったようだ。


しかし、この敗北もあり曹操による中華統一は頓挫し後に確立するの祖となる勢力が入り乱れての一大決戦となっている為、三国志をモチーフとした作品のクライマックスもしくは序章として描かれる事も多い。


『三国志演義』での赤壁の戦い

赤壁の戦い前の出来事

北方の河北袁紹の死後、そのたちを滅ぼした曹操は、荊州を手中にすべく50万の軍勢を率いて侵攻を開始した。一方、荊州では君主の劉表が死に、その後継者争いで蔡瑁らの陰謀で次男の劉琮が当主に就いた。だが、蔡瑁らは南下する曹操軍に対し、兵の練度や長男の劉琦や客将の劉備の存在で戦える状態ではないと判断して曹操に降伏することとなる。

一方、新野にいた劉備は迫る曹操軍から逃げるべく、新野を捨てて自分を慕う数十万もの領民を引き連れて荊州の州治・襄陽に向かった。だが、襄陽にいる蔡瑁達はすでに曹操に降っており、救援を求めるも矢を浴びせられる。その際、魏延が反乱を起こして襄陽が大混乱となり、その隙に劉備達は南へ逃走する。


その後、曹操軍が襄陽へ到着すると、荊州軍を接収し百万を号する大軍勢となり、蔡瑁は水軍都督に就任する(一方の劉琮は青州に刺史として母の蔡夫人とともに向かう途上で暗殺を命を受けた于禁に殺害される)。そして、曹操は南へ逃走する劉備軍の追撃を開始する(長坂の戦い)。


南へ逃げる劉備軍だったが、何十万の民を率いたことで移動速度が上がらず、すぐに曹操軍に追い付かれてしまう。趙雲張飛らの活躍で劉備達は夏口の劉琦の元へ落ち延びるが、深手を負って自ら井戸に身を投じた糜夫人を失う。


諸葛亮、呉へ向かう

江東で勢力を伸ばす孫権の元に曹操からの降伏勧告が届いており、曹操軍の脅威の前に降伏派の文官と主戦派の武官が対立していた。

劉備達は曹操軍に対抗するために孫権軍の力が必要と考えた劉備の軍師・諸葛亮は、孫権を説得すべく劉表の弔問の使者という建前で荊州の様子を探りに赴いていた魯粛とともに呉へ向かった。呉へ到着すると、降伏派筆頭の張昭ら文官達が待ち構えており、彼らは諸葛亮の目論見を阻止せんと舌戦を挑むも悉く論破される。

その後、諸葛亮は孫権を説得するが、降伏派の意見を捨てれず中々開戦を決心出来ない中、孫権は呉の大都督である周瑜の意見を聞くべきと考え、諸葛亮と魯粛は周瑜の元へ赴いた。諸葛亮達は周瑜と対面するが、周瑜は降伏した方が良いのではと考えていた。そこで、諸葛亮は「曹操は銅雀台なるものを造営して、二喬をそこに並べたいと謳っている」と教えると、その二喬というのは呉の美女の姉妹で、姉の大喬は先代当主・孫策の妻で、妹の小喬は周瑜の妻であったため、それを知った周瑜は激怒し一転して主戦派に転じる。翌日、周瑜は孫権を説得し、それに決心した孫権は机の角を斬り、降伏を勧める者はこうなると思えと降伏派に忠告し、開戦となる。一方で、周瑜は諸葛亮の才覚を見て将来の禍根となると危惧して密かに始末を考えていた。


開戦、蔡瑁謀殺

孫権軍が降伏しないと知るや否や曹操軍は陸路・水路から百万を号する大軍勢を率いて南下を開始し、長江に沿う赤壁へと進軍した。孫権軍も赤壁へ布陣し、曹操軍を待ち受けていた。

前哨戦となる三江口の戦いでは、水軍同士の戦いとなるが、練度に勝る孫権軍が大勝し、蔡瑁の弟・蔡勲(演義のみの架空武将)を甘寧が討ち取る。

蔡瑁は曹操にこの敗戦を叱責され、練度不足が原因と考えて戦いを控えて水塞を築いて練度を高めることを努める。一方、諸葛亮と周瑜は敵情視察でひそかに忍び込み、水塞の見事さに蔡瑁の水軍の指揮能力の高さは脅威と考えた諸葛亮達は蔡瑁の抹殺を企てる。

その頃、周瑜と旧知の蒋幹が曹操に周瑜を説得して寝返らせると申し出て孫権軍の元へ赴く。だが、蒋幹が敵の間者と見抜いた周瑜は剣舞で孫権の忠誠心の高さを見せて断念させ、代わりに蔡瑁がこちらと内通しているという偽の手紙を用意して盗ませる。偽の手紙を持ち帰った蒋幹は曹操に見せ、それを信じた曹操は激怒し、水軍都督の蔡瑁・張允を処刑し、後任に于禁・毛玠が就いた。


苦肉の策、矢狩り

曹操は処刑した蔡瑁の従兄弟の蔡中、蔡和(どちらも演義のみの架空武将)を間者として孫権軍に送り出した。

その頃、呉の宿将・黄蓋は周瑜に曹操軍を倒すには火計しかないと直訴すると、周瑜も前から火計を考えていたことを教え、投降してきた蔡中と蔡和が間者と見抜いていた周瑜は黄蓋が提案した苦肉の策を実行。

その後、蔡中・蔡和を含む一同が揃う前で黄蓋と周瑜が口論となり、激怒した周瑜が黄蓋を棒叩きの刑に処す。その後、重傷を負った黄蓋の元に見舞いに来た闞沢が黄蓋達の作戦であることを見抜くと彼に協力し、さらに甘寧にも協力させて蔡中・蔡和に黄蓋達が曹操に寝返ろうとしていると信じ込ませる。そして、闞沢を使者として偽りの書簡とともに曹操にもとへ向かわせ、裏切る旨を伝えさせている。間者の蔡中・蔡和からも同じ事柄を伝えられたことで曹操は信じることとなる。


一方、周瑜は諸葛亮を始末する口実で、矢の不足を懸念して10万本の矢を用意してもらうことを依頼する。すると、諸葛亮は三日で用意すると快諾する。諸葛亮は濃霧が出た日の夜に大量の藁人形を乗せた船団を率いて曹操軍の陣営に向かい、夜襲と思った曹操軍は10万本以上の矢を浴びせると、諸葛亮はすぐに引き返して藁人形などに刺さった矢を回収し、見事10万本の矢を揃えることに成功する。


連環の計、東南の風

曹操の元に諸葛亮と双璧をなす「鳳雛」と名高い龐統が訪れる。曹操は龐統を迎えると、龐統は荊州以外の兵士達が船に慣れていないことを見抜き、船同士を鎖で繋ぎ揺れを抑えることを提案し、曹操はそれを快諾し鎖で船を繋ぐ。

実は、龐統は周瑜達の間者で、身動きを取りにくくするために「連環の計」を実行した。だが、それを見抜く者がおり、それは劉備の元で軍師をしていた徐庶だった。しかし、劉備に恩義がある徐庶は敢えて見逃し、代わりに赤壁から上手く離れる手段を龐統に求める。そこで、龐統は「涼州の馬騰が都を襲おうとしている」という噂を流し、徐庶が涼州の侵攻から守るという名目で陣を離れ、被害を免れている。


そんな中、元袁煕の配下だった焦触張南が曹操に緒戦の攻め手を懇願し、曹操は渋っていたが根負けして出陣の許可を得ると、二人はわずかな船団を率いて孫権軍を攻めるが、韓当周泰に討たれる。


周瑜は火計を実施したいが、東南からの風が吹かないと曹操軍を焼き尽くすことが出来ない。だが、時期的に北西からの風しか吹かず、火計をすれば却って自軍を焼かれかねないため、どうすればいいか悩んでいた。そこで、諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷する。実は、諸葛亮はわずかに東南の風が吹くことがあることを知っており、頃合いを見計らって祈祷を始めると、ついに東南の風が吹き始める。


曹操軍敗走

東南の風が吹いたのを見た周瑜は、後の災いを絶つべく諸葛亮を始末しようと、丁奉徐盛に諸葛亮の始末に向かわせるが、すでに察していた諸葛亮に逃げられ劉備の元へ向かってしまう。

周瑜は諸葛亮の始末を諦めると、すぐに曹操軍を焼き尽くすべく黄蓋に偽りの投降で船団を率いて向かわせ、間者の蔡中・蔡和を始末する。

黄蓋が率いる船団が見えた曹操軍は彼らを迎えようとしたが、様子がおかしいことに気付いて矢を浴びせるがすでに遅く、火が放たれた船団が曹操軍に突撃する。東南の風と連環の計で瞬く間に曹操軍の水軍が焼き尽くされ、陣営にも飛び火して曹操陣営は大混乱となる。そこに孫権・劉備軍が総攻撃を開始し、敗北を悟った曹操は手勢を率いて敗走する。

孫権・劉備軍の執拗に追撃されて不眠不休で逃亡する曹操だったが、何とか荊州へと落ち延びる。今回の敗戦で多大な被害を受けたため、曹操は呉の征伐を諦めて荊州に残った手勢を留まらせ、自らは都へと引き返した。


関連タグ

三国志 三国志演義

諸葛亮 周瑜 黄蓋 魯粛 諸葛瑾 蔡瑁

苦肉の計 連環の計 東南の風

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